8

 法律事務所アストレアはオフィス街のど真ん中にあった。受付嬢に警察手帳を提示すると、所長が出てきて飯塚英生は不在だと言った。研修で横浜に行っており、帰ってくるのは明日になるという。

 仕方なく自宅の住所を尋ねると、所長は訝りながらもしぶしぶ教えてくれた。最初は個人情報だからと突っぱねられたが、例のメモを映した写真を見せ、事件に巻き込まれている可能性があると押し通したのである。

「飯塚英生は昨夜十時三十分発の夜行バスに乗り、今朝六時十五分に横浜に到着しています。所長宛てに電話連絡があったそうなので、とりあえず本人は無事でいるとみていいでしょう」

 市ノ瀬がシートベルトをかけながら手帳の内容を読み上げる横で、桜庭は教えてもらった住所をカーナビに入力した。そうすると意外な場所を示した。

「妙だな。あの歩道橋からそう離れていない。歩いて十分ほどの距離だ」

「ほんとだ。偶然ですかね?」

 首を傾げつつ市ノ瀬は車を出した。元来た道を辿り、例の歩道橋を過ぎて住宅地に入る。この辺りは頑丈な柵に囲まれた豪勢な住宅が建ち並び、いかにも金持ちの住処と言えそうだった。

「飯塚英生は腕の立つ弁護士で、これまで勝訴を勝ち取った裁判の数は事務所トップクラスです。獲得した顧客数も群を抜いて多いとか。それだけに敵も多いでしょうね」

「そういう家ほど防犯設備に力を入れているだろう。昼間は自宅で過ごす専業主婦も多いはず……おや?」

 車で徐行しながら進んでいくと、道でうろうろしている怪しげな女性を見つけた。二人はちらりと顔を見合わせ、車を降りて徒歩で近付いた。

「どうかされましたか?」

 桜庭が声をかけるとその女性は驚いて目を丸くした。高級住宅地には似つかわしくない平凡なコートとスカート、量産品のバックを身につけている。が、桜庭と市ノ瀬も同じぐらい場違いな二人組に見えたらしい。

「我々、こういう者です」

 市ノ瀬が警察手帳を見せると、女性はますます驚くどころかパッと顔を明るくした。

「あらー、ちょうどよかったわ。わたし、近くのスーパーで働いているんですけど、パート仲間が出勤してこなくて心配だから様子を見にきたんです」

 女性が指さす先を見ると、インターホンの上に「飯塚」と表札が出ていた。桜庭ははっと緊張した顔つきになり、静まり返った家の様子を窺った。

「立派なお屋敷でしょ? 旦那が有名な弁護士でかなり儲かっているんですって。奥さんまで働くことないと思うんですけど、家にいても退屈なんでしょうね。真面目でおとなしい人ですよ」

「真面目でおとなしい人が、今日に限って無断欠勤ですか……」

 桜庭はインターホンを鳴らそうと前に出て、門が閉まりきっていないことに気付いた。半開きの状態で風に揺られ、キィキィ音を立てている。

「失礼ですが、飯塚さんの奥さんの連絡先をご存じありませんか」

 緊張が伝播したのか、市ノ瀬が硬い口調で言った。

「わたしと夏苗かなえさんはパート仲間ってだけで、連絡先を交換するような間柄じゃないんです。あ、でも店長なら知っていると思いますよ。自宅と夏苗さんの携帯電話にもかけたけど繋がらないって言っていましたから」

「では店の連絡先を教えていただけますか」

「いいですよ。こばとマートっていう小さいスーパーなんですけどね。忙しいときはパートが何人いても足りないぐらいです。夏苗さんったら仕事を忘れて遊びにいったのかしら。まさかこんな時間まで寝てるってことはないでしょう」

 女性はブツブツ言いながら携帯電話を取り出し、そこに登録している番号を読み上げた。市ノ瀬はそれを手帳にメモして女性に礼を言った。その間、桜庭は二度インターホンを鳴らしたがやはり返事はなかった。

「嫌な予感がする。こういうときは大体当たるんだ」

「刑事の勘ってやつですね。俺も同感です」

 パート仲間の女性をそこに残し、二人は門を抜けて玄関ポーチに立った。念のためノックをしたが返事はない。意を決してドアノブに手をかけると、予想どおりというべきか、あっさり開いた。

「飯塚さん、警察です。入りますよ」

 中に声をかけたあと二人は玄関で靴を脱ぎ、そろそろと廊下を歩いた。呼びかけに応える者はなく、どこかの部屋で人が動く気配もない。一番奥のドアが半分ほど開いていて、廊下に光が漏れていた。

 そっとドアを開けると、まず目に入ったのは対面式のカウンターキッチンだった。テーブルセットが置かれたリビングと一体になっていて、そちらに目を移した市ノ瀬が声を上げた。

「桜庭さん! あれ……」

 指さすほうを見ると、テーブルの脚の間から人間の腕が覗いていた。素早く駆け寄った桜庭は、そこにうつ伏せで倒れている女性を発見した。近くに寄らずとも息をしていないのは明らかだった。

 そばに膝をつき、首の頸動脈に手を当てる。そして無言で目を伏せると、腕時計で時刻を確認した。

「十二時四十五分、遺体発見。この人が飯塚夏苗さんだろうな」

「間違いないと思います」

 市ノ瀬はリビングにあった写真立てを取って桜庭に渡した。夫婦で撮った記念写真だろう。神経質そうな男の横に映っているのは、紛れもなく遺体の女性だった。

「硬直が手足の指先まで及んでいる。死後十二時間以上は経過していそうだ。市ノ瀬、飯塚英生が乗った夜行バスは何時発の便だった?」

「昨夜十時三十分に最寄駅を出発しています。駅までタクシーを使えば二十分で着くでしょう」

「だとすれば死亡推定時刻は昨夜の十時前後。夫が家を出たあと誰かが侵入し、被害者を殺害して逃げた……」

「見たところ出血や外傷はありませんが、殺人ですかね?」

「むろん病死の可能性も否定できない。法医学医の小早川先生の意見を伺う必要がある。さて、また課長にうるさく言われそうだが通報の義務があるからな」

 誰にともなしに言ったあと、桜庭は邦子に電話をかけた。

「桜庭です。飯塚英生の家で奥さんとみられる女性の遺体を発見しました。え? さぁ、殺人かどうかはわかりません。とにかく鑑識を寄越してください。大至急お願いします」

 なにやら言っている邦子を遮り、桜庭は用件だけ伝えて電話を切った。そして市ノ瀬に声をかけ、下手に現場を荒らさないよう細心の注意を払って玄関まで戻った。

 外に出るとパート仲間の女性が意味ありげな視線を向けてきたが、二人とも無視した。

「嫌な予感が当たりましたね。歩道橋にあったというあのメモ、やっぱり犯行声明だったんでしょうか」

 女性に聞こえないよう背を向け、市ノ瀬が呟いた。

「わからん。ただ、事故と思われた妻の死が殺人なら、飯塚夏苗の死も殺人の疑いが出てくる。当然その逆も言えるだろうが」

「飯塚夏苗の死が殺人なら、桜庭さんの奥さんも誰かに殺されたってことですか……。あの、報告すべきかどうか迷ったんですが、歩道橋の近くで不審な人物を見かけたんです」

「どんな人物だ?」

「若い男です。野次馬の中に紛れていて、目が合いそうになると顔を伏せて立ち去りました。この季節にブルーのパーカーを着ていたので気になったんです」

 ブルーのパーカーと聞いたとき、桜庭ははっとした。寒空の下、歩道橋の花束に手を合わせていた男……。声をかけようとすると逃げていき、結局ひと言も言葉を交わすことはできなかった。

 あの男が犯行声明まがいのメモの書き手であり、そして二件の女性の死に関わっている……。そう考えると様々なことに合点がいく。動機も二人との接点も不明だが、少なくとも千尋の死に関して何を知っているのか、問い質したい思いに駆られた。

「桜庭さん? どうかしましたか」

「ああ、すまない。考え事をしていた」

 そう言ったとき、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。桜庭の求めに応じて邦子が応援を寄越してくれたらしい。

「誘拐事件のほうはどうなっただろうな。俺たちがいない間に解決したってことはさすがにないか」

「どうでしょうね。余計こじれているんじゃないですか」

 玄関ポーチに二人並んで立ち、のんきなことを言い合った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る