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法律事務所アストレアはオフィス街のど真ん中にあった。受付嬢に警察手帳を提示すると、所長が出てきて飯塚英生は不在だと言った。研修で横浜に行っており、帰ってくるのは明日になるという。
仕方なく自宅の住所を尋ねると、所長は訝りながらもしぶしぶ教えてくれた。最初は個人情報だからと突っぱねられたが、例のメモを映した写真を見せ、事件に巻き込まれている可能性があると押し通したのである。
「飯塚英生は昨夜十時三十分発の夜行バスに乗り、今朝六時十五分に横浜に到着しています。所長宛てに電話連絡があったそうなので、とりあえず本人は無事でいるとみていいでしょう」
市ノ瀬がシートベルトをかけながら手帳の内容を読み上げる横で、桜庭は教えてもらった住所をカーナビに入力した。そうすると意外な場所を示した。
「妙だな。あの歩道橋からそう離れていない。歩いて十分ほどの距離だ」
「ほんとだ。偶然ですかね?」
首を傾げつつ市ノ瀬は車を出した。元来た道を辿り、例の歩道橋を過ぎて住宅地に入る。この辺りは頑丈な柵に囲まれた豪勢な住宅が建ち並び、いかにも金持ちの住処と言えそうだった。
「飯塚英生は腕の立つ弁護士で、これまで勝訴を勝ち取った裁判の数は事務所トップクラスです。獲得した顧客数も群を抜いて多いとか。それだけに敵も多いでしょうね」
「そういう家ほど防犯設備に力を入れているだろう。昼間は自宅で過ごす専業主婦も多いはず……おや?」
車で徐行しながら進んでいくと、道でうろうろしている怪しげな女性を見つけた。二人はちらりと顔を見合わせ、車を降りて徒歩で近付いた。
「どうかされましたか?」
桜庭が声をかけるとその女性は驚いて目を丸くした。高級住宅地には似つかわしくない平凡なコートとスカート、量産品のバックを身につけている。が、桜庭と市ノ瀬も同じぐらい場違いな二人組に見えたらしい。
「我々、こういう者です」
市ノ瀬が警察手帳を見せると、女性はますます驚くどころかパッと顔を明るくした。
「あらー、ちょうどよかったわ。わたし、近くのスーパーで働いているんですけど、パート仲間が出勤してこなくて心配だから様子を見にきたんです」
女性が指さす先を見ると、インターホンの上に「飯塚」と表札が出ていた。桜庭ははっと緊張した顔つきになり、静まり返った家の様子を窺った。
「立派なお屋敷でしょ? 旦那が有名な弁護士でかなり儲かっているんですって。奥さんまで働くことないと思うんですけど、家にいても退屈なんでしょうね。真面目でおとなしい人ですよ」
「真面目でおとなしい人が、今日に限って無断欠勤ですか……」
桜庭はインターホンを鳴らそうと前に出て、門が閉まりきっていないことに気付いた。半開きの状態で風に揺られ、キィキィ音を立てている。
「失礼ですが、飯塚さんの奥さんの連絡先をご存じありませんか」
緊張が伝播したのか、市ノ瀬が硬い口調で言った。
「わたしと
「では店の連絡先を教えていただけますか」
「いいですよ。こばとマートっていう小さいスーパーなんですけどね。忙しいときはパートが何人いても足りないぐらいです。夏苗さんったら仕事を忘れて遊びにいったのかしら。まさかこんな時間まで寝てるってことはないでしょう」
女性はブツブツ言いながら携帯電話を取り出し、そこに登録している番号を読み上げた。市ノ瀬はそれを手帳にメモして女性に礼を言った。その間、桜庭は二度インターホンを鳴らしたがやはり返事はなかった。
「嫌な予感がする。こういうときは大体当たるんだ」
「刑事の勘ってやつですね。俺も同感です」
パート仲間の女性をそこに残し、二人は門を抜けて玄関ポーチに立った。念のためノックをしたが返事はない。意を決してドアノブに手をかけると、予想どおりというべきか、あっさり開いた。
「飯塚さん、警察です。入りますよ」
中に声をかけたあと二人は玄関で靴を脱ぎ、そろそろと廊下を歩いた。呼びかけに応える者はなく、どこかの部屋で人が動く気配もない。一番奥のドアが半分ほど開いていて、廊下に光が漏れていた。
そっとドアを開けると、まず目に入ったのは対面式のカウンターキッチンだった。テーブルセットが置かれたリビングと一体になっていて、そちらに目を移した市ノ瀬が声を上げた。
「桜庭さん! あれ……」
指さすほうを見ると、テーブルの脚の間から人間の腕が覗いていた。素早く駆け寄った桜庭は、そこにうつ伏せで倒れている女性を発見した。近くに寄らずとも息をしていないのは明らかだった。
そばに膝をつき、首の頸動脈に手を当てる。そして無言で目を伏せると、腕時計で時刻を確認した。
「十二時四十五分、遺体発見。この人が飯塚夏苗さんだろうな」
「間違いないと思います」
市ノ瀬はリビングにあった写真立てを取って桜庭に渡した。夫婦で撮った記念写真だろう。神経質そうな男の横に映っているのは、紛れもなく遺体の女性だった。
「硬直が手足の指先まで及んでいる。死後十二時間以上は経過していそうだ。市ノ瀬、飯塚英生が乗った夜行バスは何時発の便だった?」
「昨夜十時三十分に最寄駅を出発しています。駅までタクシーを使えば二十分で着くでしょう」
「だとすれば死亡推定時刻は昨夜の十時前後。夫が家を出たあと誰かが侵入し、被害者を殺害して逃げた……」
「見たところ出血や外傷はありませんが、殺人ですかね?」
「むろん病死の可能性も否定できない。法医学医の小早川先生の意見を伺う必要がある。さて、また課長にうるさく言われそうだが通報の義務があるからな」
誰にともなしに言ったあと、桜庭は邦子に電話をかけた。
「桜庭です。飯塚英生の家で奥さんとみられる女性の遺体を発見しました。え? さぁ、殺人かどうかはわかりません。とにかく鑑識を寄越してください。大至急お願いします」
なにやら言っている邦子を遮り、桜庭は用件だけ伝えて電話を切った。そして市ノ瀬に声をかけ、下手に現場を荒らさないよう細心の注意を払って玄関まで戻った。
外に出るとパート仲間の女性が意味ありげな視線を向けてきたが、二人とも無視した。
「嫌な予感が当たりましたね。歩道橋にあったというあのメモ、やっぱり犯行声明だったんでしょうか」
女性に聞こえないよう背を向け、市ノ瀬が呟いた。
「わからん。ただ、事故と思われた妻の死が殺人なら、飯塚夏苗の死も殺人の疑いが出てくる。当然その逆も言えるだろうが」
「飯塚夏苗の死が殺人なら、桜庭さんの奥さんも誰かに殺されたってことですか……。あの、報告すべきかどうか迷ったんですが、歩道橋の近くで不審な人物を見かけたんです」
「どんな人物だ?」
「若い男です。野次馬の中に紛れていて、目が合いそうになると顔を伏せて立ち去りました。この季節にブルーのパーカーを着ていたので気になったんです」
ブルーのパーカーと聞いたとき、桜庭ははっとした。寒空の下、歩道橋の花束に手を合わせていた男……。声をかけようとすると逃げていき、結局ひと言も言葉を交わすことはできなかった。
あの男が犯行声明まがいのメモの書き手であり、そして二件の女性の死に関わっている……。そう考えると様々なことに合点がいく。動機も二人との接点も不明だが、少なくとも千尋の死に関して何を知っているのか、問い質したい思いに駆られた。
「桜庭さん? どうかしましたか」
「ああ、すまない。考え事をしていた」
そう言ったとき、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。桜庭の求めに応じて邦子が応援を寄越してくれたらしい。
「誘拐事件のほうはどうなっただろうな。俺たちがいない間に解決したってことはさすがにないか」
「どうでしょうね。余計こじれているんじゃないですか」
玄関ポーチに二人並んで立ち、のんきなことを言い合った。
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