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 速水たちが邦子の帰りを待っていると、人ごみをかき分けて桜庭がやってきた。到着したばかりらしく、会議室の殺気立った雰囲気に少々戸惑っている。

「課長は? さっきから何度も連絡しているんだが」

「捜査会議中だから電源を切っているんだろ。今のうちに資料に目を通しておけ。あそこに座っているのが特殊班捜査係の渡って奴で、今回の捜査指揮を執る。俺たちの担当は目撃情報の聞き込みだ」

 邦子が帰ってくるまでの間、桜庭は速水が差し出した資料をざっと読んだ。合同捜査の担当表、似顔絵、まほろばフェスタのチラシ……と見ていったところで、邦子が辰巳と他の刑事を連れて戻ってきた。そして桜庭の顔を見るなり、ほっとしたような表情を浮かべた。

「ちょうどよかった。今から段取りを話し合うところなの」

「それより課長、誘拐事件が急を要することはわかっていますが、これを見てください」

 上司の言葉を途中で遮り、桜庭はビニール袋を差し出した。中には手のひらサイズの紙片が広げられた状態で入っている。

「なにこれ?」

「とにかく読んでみてください」

 桜庭に促された邦子は眼鏡の位置を直し、それを読んだ。紙にはパソコンで打ち出された文字でこう書かれている。


 無能な警察

 十二月十五日の長谷部千尋の死は事故ではなく殺人だ

 疑うなら弁護士・飯塚英生の自宅に行ってみるといい


「これは?」

 邦子が目を上げたとき、眉と眉の間にくっきり皺が刻まれていた。

「妻が死んだ現場、歩道橋に供えられた花束に挟まっていました。誰かが献花のふりをして置いたものとみられます」

「その誰かは被害者の死を殺人と断定している。もしかしたらこれは事件に関与した人物が残したものかもしれない。そう考えているの?」

 察しのいい邦子はすぐに桜庭の言いたいことを理解した。誘拐事件のことで頭がいっぱいの今、こんなことで手を煩わせてはいられない。という言葉はさすがに出てこなかった。

「この情報が信頼できると判断した理由は二つあります。一つは妻が死んだ日を十二月十五日と断定していること。課長もご存じのとおり、妻の死亡推定時刻は日付が変わった零時から二時の間です。もう一つは被害者の名前を長谷部はせべ千尋と書いていること。長谷部は妻の旧姓です」

「確かに桜庭とは書いていないわね。でもどうして?」

「これを書いた人物は妻の婚姻前の知人だった。あるいは長谷部千尋が結婚したことを知らなかった。そのどちらかしか自分には思いつきません」

「その人物に心当たりは?」

「ありません。今のところは」

 正直にそう言ったあとで、桜庭はさらに続けた。

「ここに来る前に鑑識に寄って調べてもらいました。案の定というべきか、この紙に指紋は一切ついていませんでした。また、パソコンで印字されているため筆跡鑑定も不可能です。かなり用意周到な人物とみられます」

「そうかしら。この程度の知識、ドラマや小説でいくらでも手に入ると思うけど」

 邦子は懐疑的な意見を述べ、桜庭にビニール袋を返した。いつの間にか他の刑事も集まってきて、二人のやり取りを遠巻きに眺めている。

「課長に相談せず鑑識に証拠品を持ち込んだことはお詫びします。しかし殺人の可能性がわずかでもある以上、見逃すべきではありません」

「桜庭くん、事件に私情を持ち込まないのがあなたの主義よね。奥様が突然お亡くなりになって、そのときの状況を知りたいと思う気持ちはわかる。だけどわたしたちがこうしている今も、町のどこかで幼い女の子の命が危険にさらされている。それはわかるでしょ?」

 邦子は威厳のある眼差しで桜庭を見据えた。現場の刑事をまとめる立場ゆえ、その肩にかかる責任は桜庭や速水よりずっと重い。すでに失われた命より、今まさに危険にさらされている命を優先する。その課長の判断は間違っていない。

 おそらく桜庭もわかっているのだろうが、受け入れられないのは被害者感情が邪魔をしているからだ。どんなときも職務に忠実であるべき刑事が、私情のために判断を誤ってはならない。

 言葉を失くしてしまった桜庭を見かね、速水が横から紙片を指さした。

「この飯塚いいづか英生ひでおってのは誰だ。桜庭の知り合いか?」

「いや、初めて聞く名前だ」

「でも奥さんの名前と並べて書いてあるのが気になるよな。実はこれ、連続殺人だったりして」

「連続殺人?」

 桜庭にじろりと睨まれ、速水は慌てて言った。

「ほら、たまにいるだろ。自分の犯行に注目してほしくてわざと大胆な真似をする奴。警察が一向に捜査しないのを見かねて尻尾を出したのかもな。って、何となくそう思っただけ……」

「速水くん」

「はい」

 刺々しい邦子の声に、速水はおもわず背筋を伸ばした。

「憶測で物を言わないように。刑事の基本は地道な証拠固めよ」

「わかっています。軽々しいことを申しました」

 速水が直立不動になったところで、捜査資料を配り終えた辰巳が戻ってきた。先ほどまでいなかった桜庭が刑事に囲まれているのを見て、何事かと邦子に視線を投げる。

「今は誘拐事件の捜査に集中しなきゃ。こうしている間にも時間は過ぎていくんだから、手っ取り早く聞き込みを始めないと……」

「課長、お言葉ですが、速水が言ったことにも一理あります。こちらの都合で後回しにした事件があとで殺人だったと判明したらどうします? それこそマスコミが騒ぎ立てるんじゃないですか」

 桜庭は辰巳の存在を無視し、邦子をじっと見据えて言った。邦子は言葉に詰まり、辰巳が説明を求めるように二人の顔を見比べた。

「何の話だ? 誘拐事件じゃなくて殺人?」

「申し遅れました、利峰署の桜庭です。今朝、歩道橋から人が落ちて亡くなった現場にメモが残されていたんです」

 桜庭はビニール袋に入ったメモを辰巳に見せた。

「なるほど挑戦的な文章だな。確かにこれはただ事ではない。この飯塚何とやらの住所、調べられるか?」

 辰巳が肩越しに声をかけたときにはすでに、県警の芝が手元のパソコンを操作していた。

「飯塚英生。弁護士会のデータベースに名前がありました。大手法律事務所アストレアに所属しています」

「法律事務所アストレア……。ありがとうございます」

 桜庭は辰巳と芝に頭を下げ、踵を返して足早に会議室を出ていった。上司の指示を仰ごうともしない桜庭に邦子は怒りで真っ赤になり、慌てて速水が取り成した。

「ま、まぁまぁ。あの状態の桜庭は止めても止まりませんよ。誘拐事件の捜査は俺たちがやりますから」

「だからってねぇ……。一介の刑事が好き勝手に捜査していい権限なんてないのよ」

 怒りが収まらない様子の邦子に、横から市ノ瀬が水を差すようなことを言った。

「桜庭さんをひとりにすると不安なので俺も行ってきます。何かあったら連絡しますから」

「市ノ瀬くんまで? ちょっと待って、二人も抜けられると困るんだけど」

 しかし苦言を呈する間もなく、市ノ瀬は桜庭を追って会議室を出てしまった。がっくり肩を落とす邦子に、辰巳が慰めるように言った。

「刑事は本来二人で動くものだ。あの桜庭という刑事、ひとりで行動させるより誰かを同行させたほうがいい」

「こっちは刑事部長に発破かけられているっていうのに、あの二人はまったく……。刑事の管理職なんてなるものじゃないわね」

 邦子はキリキリ痛む胃を押さえ、実感を込めて呟いた。

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