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 県警では捜査会議が始まろうとしていた。ひとつの会議室に百人ほどの捜査員がぎゅうぎゅうに押し込まれ、メモを取るのもひと苦労だった。

「……二酸化炭素濃度が濃い。誰か酸欠で倒れるんじゃないか」

 部屋の中ほどにいる速水がブツクサ言った。隣には市ノ瀬と、張り込みを終えて戻ってきた亜須香がいる。強盗傷害事件の共犯がどうのという情報は信憑性が低く、例によって誘拐事件の捜査のために呼び戻されたらしい。

 不満げな様子の亜須香に、速水は先輩として励ましの声をかけた。

「あれだけ見張っても姿を現さないとなると、情報そのものが嘘だったか、あるいは対立する個人への腹いせである可能性が高い。逮捕した連中の頭数は揃っているし、これ以上人員を割くのは現実的でない。上が言いたいのはそういうことだろ」

「だけど被害者は去年振り込め詐欺グループの検挙に貢献したおばあさんですよ。騙されたふりをして犯人をおびき出してくれたから逮捕できたんです。今回また狙われるなんて報復としか思えないじゃないですか。ちゃんと調べたほうがいいと思います」

 熱くなる亜須香に対し、横で聞いていた市ノ瀬が茶々を入れた。

「桧野はおばあさんのお見舞いにも行ったんですよ。警察の信頼を貶めるようなことをしてすみませんでしたって、別に俺たちが何かしたわけじゃないのに」

「公務員としての責務に準じたまでです。警察に手を貸そうって民間人がいなくなってもいいんですか?」

「だから熱くなるなって。ほら、会議が始まるぞ」

 会議室のスピーカーからマイクが入る音がして、市ノ瀬は前方を指さした。前の長机でマイクを握っているのは刑事部長の蔵吉くらよし兼作けんさくである。権力の座に着いて部下をこき使う管理職の常か、ふくよかに太っている。しかもはっきりそうとわかるカツラをつけていて、頭頂部の髪が異様に膨らんで見えた。

「さて、今回発生した誘拐事件は渡が全面的に捜査指揮を執る。いいな?」

「ご期待に沿えるよう全力で職務を全うします」

 答えたのはダークスーツをビシッと着こなした四十代後半の男である。県警の捜査一課長を務めるわたりという男で、よほど信頼されているのか、蔵吉の左隣に座っている。

「渡は特殊班捜査係の班長として二十年近く現場にいた。このたび発生した誘拐事件捜査の指揮官として適任と判断した。――わたしからは以上だ」

 警察官の憧れ、刑事部捜査一課の内でも特殊班捜査係は凶悪犯罪を扱う部署である。人質立てこもり事件や誘拐事件がその筆頭で、強行突入などの場合に備えて日ごろから過酷な訓練を積んでいる。

 渡は蔵吉刑事部長より十は若いだろうが、貫禄は充分である。なにしろこれまで踏んだ場数とくぐり抜けてきた修羅場の質が違う。蔵吉や田所は出世を軸に生きてきたが、渡は人命を救うことに文字どおり身命を賭してきた。課長職に就いた今も心根は変わっていないという評判がある。

 マイクや蔵吉から渡に移動し、ざわついていた会議室は静まり返った。

「ではこれから事件経過を述べる。誘拐されたのは御手洗みたらい唯花ゆいかさん。七歳の女の子。誘拐されたのは十二月十五日午前九時三十分から十時の間。場所はまほろば公園。この広場は普段から誰でも自由に出入りでき、今回のようなイベントによく利用されている」

 県警の刑事のしばがパソコンを操作し、前のスクリーンに幼い少女の写真を映し出した。どこかの遊園地だろうか、両足で地面を蹴ってジャンプした瞬間を捉えたもので、ツインテールの髪が元気よく跳ねている。

「被害者は地域の福祉イベントに参加するため、開場時刻である九時半きっかりに母親と公園を訪れた。天候に恵まれた日曜日ということで、公園は大勢の親子連れや団体客で賑わっていた。被害者はその人ごみに紛れて何者かに誘拐されたとみられる」

 会議室内のほとんどが一斉にメモを取り、ペンを走らせる音が忙しなく聞こえた。それが収まるのを待ち、今度は蔵吉が口を開いた。

「大勢の目撃者がいたということだな。証言はとれそうか?」

「誘拐犯かどうかわかりませんが、現場で少女の手を引く若い女が目撃されています。現在、情報を頼りに女の似顔絵を作成中です。その似顔絵をもとに足取りを追います」

「ならば解決も早いかもしれないな」

 蔵吉は満足げに呟いたが、渡は同意しなかった。これまで起きた数々の事件で、楽観的に見えるものほど解決が早かった試しはない。そう思っているのだろう。

「事は誘拐事件です。ひとつのミスが重大な過失を招いてしまうことになりかねません」

「そのとおりだ。諸君の気概を疑うわけじゃないが、現在刑事部長であるわたしの職務として、最低限付け加えておかねばならないことがある」

 ここで言葉を切り、蔵吉は充分な間を取った。一体どんな重要事実が飛び出してくるのかと、速水たちはこっそり目を見交わした。

「被害者の父親は都議会議員の御手洗まこと氏だ。さらに言えば、被害者の祖父は元衆議院議員の御手洗重昭しげあき氏。もし被害者に何かあれば、我々はおろか本庁の責任問題にも発展する。最悪の事態は回避するようにと、警察庁長官から本部長のもとに念押しがあった」

 本庁、しかも警察官のトップからの念押し。言い換えれば圧力である。会議室にどよめきが広がる中、速水は合点がいったように呟いた。

「……なるほど。元衆議院議員の孫娘か。そりゃ本庁も動くわな」

 東京の都議会議員などいちいち憶えていないが、衆議院議員まで上りつめた御手洗重昭の顔と名前は有名である。歯に衣着せぬ物言いで野党と対決し、口論の末に発言の撤回を求められることさえあった。多数派の会派に属し、大臣の任に就くことはなかったものの、数年前に脳卒中で倒れるまで現役であり続けた。

 今は娘婿に地盤を譲り、夫人とともに療養生活を送っている。しかし警察庁長官が動く程度の影響力と発言力は健在といっていい。

「だけどどうしてそんな子が東京を離れてこっちに来たんでしょう。しかも地域の福祉イベントに参加って、家族旅行にしては妙じゃありません?」

 亜須香がひそひそ声で疑問を投げかけたが、速水が答える前に蔵吉が声を張り上げた。

「母親の御手洗智代ともよは捜査本部に保護している。無論、身代金要求の電話がかかってきたときのためだ。同様の理由で、父親の御手洗議員には東京の自宅に待機してもらっている。警視庁刑事部にも協力を要請した」

 怒りや苛立ちといった感情が込められていないだけに、蔵吉の言葉は人を黙らせる効果がある。そして暗黙のうちにその命令に従うことを遵守させている。

「この誘拐事件がいかに急を要するかわかってもらえたと思う。マスコミには御手洗唯花という少女が行方不明であることは明かすが、家族構成については口を閉ざす。さらに、一刻も早い被害者の保護に向け、この捜査はすべての案件に優先する」

「議員の娘であることを隠すんですか?」

 驚きの表情を浮かべる亜須香に同調し、速水が不平を漏らした。

「それにしてもでかい口を叩いたな。誘拐事件が解決するまで他の事件は捜査するなってことか」

「桜庭さんが聞いたら怒るでしょうね。もっとも、今ここにいないから従わなくてもいいのかもしれませんけど」

「市ノ瀬、それは屁理屈というものだぞ」

「速水さんに言われたくありませんね」

 この状況で軽口を叩けるというのも一種の信頼関係が為せる業かもしれない。前方では、再び発言の機会を得た渡が話を締めくくろうとしていた。

「知り得た情報は迅速に我々に上げるように。捜査員一同、全身全霊で職務にあたってくれ」

 捜査会議が終了し、捜査員は上司の指示を仰ぐためバラバラと席を立った。速水、市ノ瀬、亜須香は会議室の後ろで青柳課長のもとに集まった。

「みんな、こちら辰巳たつみくん。わたしの同期でここの課長補佐を務めているの」

 そう紹介があったのは、狐のように目が細く、見るからに頭の回転が速そうな男だった。外見で職位が決まるわけではないが、現場より管理職向きの顔といえる。

「言うまでもないが、この手の誘拐事件は被害者の救出が最優先だ。時間が経てば経つほど被害者の生存率は下がる。互いに協力し合っていこう」

 辰巳は腕に抱えた書類を繰り、人数分の束を取り出して邦子に渡した。「捜査の担当表だ」と告げて足早に去っていく。うんざりするほど長ったらしい文字の羅列がある。邦子はそれに素早く目を通し、全員に配った。

「速水くん、市ノ瀬くん、桧野ちゃんの三人は本部と手分けして目撃情報の聞き込みをお願い。イベントに出店していた団体とそのお客が対象になっているみたい」

「課長はどうするんです?」

「わたしは本部と利峰署の中継役。これが終わったら向こうに戻らなきゃいけないの。あとは頼むわよ」

 邦子は速水の肩をポンと叩いた。桜庭と同年代で親しい友人でもある速水は、いい意味で頭脳と行動が共存している。後先考えず突っ走ったかと思うと、頭で考えすぎて判断に迷ったりする。その点、桜庭はどちらかというと理屈で動き、地盤を固めてから行動に移すタイプだった。

「刑事部長は被害者の家族構成について口を閉ざすと言いましたよね。マスコミにいろいろ詮索されて、生活を侵害されることを恐れているんでしょうか」

 亜須香がおもいきって尋ねると、邦子は暗い表情になった。

「おそらくね。田所署長のところに刑事部長から連絡があったみたいだけど、今考えると本庁からの指示だったのかもしれない。どちらにせよ長く隠しておけるものではないわ。これじゃ記者クラブが納得しないもの」

 県警に常駐する報道各社の記者たち、彼らの情報網と手腕を侮ってはならない。たとえ本部が口を閉ざしても、御手洗唯花という名前を聞けば祖父の御手洗重昭まで容易に行き着くだろう。当然、口を閉ざした理由にも見当はつくはずだ。警察の縦割り社会がどうのと糾弾されても文句は言えない。

 そのときさっきの辰巳という男がまた回ってきて、新しい書類の束を手渡した。

「刷り上がったばかりの捜査資料だ。犯人らしき女の似顔絵も入っている」

「ありがとう」

 急いでそのページを探す邦子を、全員が身じろぎもせず待った。ようやく見つかったA4サイズの紙には若い女性の顔が描かれていた。

「年齢は二十代前半から後半。上は茶色いハーフコート、下は黒いズボンにスニーカー。被害者と思われる少女の手を引いて歩くとき、風になびくほど長い髪が特徴的だった。目撃者はそう証言している」

 口頭での説明を聞き、市ノ瀬は情報量の多さに感心した。

「よく見ているもんですね。まだ若いのに、ちょっとした小金欲しさに議員の娘を誘拐したんでしょうか。それとも犯罪者グループの一員なのかな」

「それを知るために聞き込みに回るんだ」

 もっともなことを言い残し、辰巳はまた慌ただしく去っていった。市ノ瀬はひょいと肩をすくめ、次のページをめくった。

「これがイベントのチラシですね。えーと、まほろばフェスタ……?」

「地域の福祉施設や事業所が一堂に会するイベントだ。天気もいいし、大勢の家族連れで賑わっていただろう」

「速水さん、このイベントのことを知っているんですか」

「一応これでも家庭があるからな。うまく非番の日に重なれば、うちの小さいのを連れて遊びに行ったりもする」

 今年はそれどころではなかったが……と続けそうになり、速水は口をつぐんだ。二人の会話を聞いているのかいないのか、邦子が切羽詰まった声を上げた。

「ちょっともう、本部の捜査一課はどこにいるのよ。辰巳くんったら紹介もせず書類配りなんかして……。探してくるからここで待ってて」

 そう言うなり邦子は人ごみの中に消えた。今回のような合同捜査では、所属が異なる現場の刑事をまとめ、滞りなく捜査を行なわせるのが課長の役割である。利峰署の刑事と県警の刑事、さらにはその上の管理職との間に挟まれるわけで、相当な忍耐力がなければ務まらない。

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