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「だから、現場写真や採取した下足痕は早急に持って帰る。わざわざこっちに来る必要はない。到着を待って署で確認しろ」

「いや、その前に自分の目で現場を見ておきたい。課長の許可は取ってある」

「あのな……。今どこにいるんだよ」

「利峰署の遺体安置所を出たところだ」

「ったく、おとなしく奥さんのそばにいりゃいいものを」

 速水はわざと大きなため息をついて電話を切った。離れたところにいた市ノ瀬が駆け寄ってくる。

「桜庭さん、どうでした?」

「検案結果を伝えてきた。死因は歩道橋の階段から転落したことによる外傷性ショック。死亡推定時刻は昨夜午前零時から二時の間だと」

「すごい冷静ですね。普段の事件のときと全く同じだ」

「唐突すぎて実感が湧かないのかもな。ああいうのはあとでガタッとくるタイプだぞ」

 現場は鑑識作業がひと段落し、すでに撤収の準備に入っている。集まっていた野次馬も興味を失くしたのか、バラバラと帰り始めている。速水と市ノ瀬はその様子を見るともなしに眺めていた。

「事件性を示すようなものが出ますかね?」

「どうだろうな。歩道橋は不特定多数の人間が利用する。下足痕を調べるにしても膨大な数だろう」

「でも被害者は刑事の妻です。こういう場合、怨恨の線を疑うんじゃないですか」

「だったら桜庭を取り調べてみるか? それもこれも証拠が出てからの話だ」

 速水は寒さにぶるっと震え、袖をまくって腕時計を見た。時刻は十時を少し過ぎている。

「どっかで温かいものでも食って帰るか」

「いいですね、俺も朝飯抜きなんです」

「こういうときは定番のラーメンだな。この辺で旨い店はっと……」

 のんきに検索をかけようとした速水のスマートフォンが着信音を鳴らした。画面を見ると、青柳課長の名が表示されている。

「ゲッ、課長からだ。桜庭の奴、何かしでかしたんじゃないだろうな」

 不満げに呟いたのち、速水はスマホを耳に当てた。その間に市ノ瀬は自転車を取りにいき、マフラーを首に巻いて戻ってきた。

「はい。承知しました。失礼します」

 短い会話を終え、速水は苦い表情で市ノ瀬を振り返った。

「管内で誘拐事件が発生した。今すぐ署に戻れと指示があった」

「誘拐事件っ?」

 声を裏返らせる後輩に目もくれず、速水はもう歩き出していた。

「朝飯を食っている時間はなさそうだ。行くぞ」

「はい。あ、桜庭さんは?」

「放っとけ。どうせ課長が連絡するだろ」

 振り向きもしない速水の背を、市ノ瀬は慌てて追った。


 邦子は利峰署の職員と手分けして、大急ぎで二階の会議室をセッティングした。特別捜査本部は県警に設置されることが決まり、ここは本部と所轄を繋ぐ連絡地点のようなものになる。

 利峰署管内で発生した誘拐事件。前例がないわけではないが滅多にあることでもない。事件の一報を受けた邦子はすぐさま署長の田所たどころ典孝のりたかに伝え、そこから県警本部に連絡が行った。刑事部捜査一課に属する特殊班捜査係は誘拐や人質立てこもり事件のエキスパートである。今回も彼らが中心となって捜査の指揮を執ることになるだろう。

 長机やらスクリーンやら、手の空いている職員総出で準備を進めていると、不吉を絵に描いたような顔で田所署長がやってきた。慌てて締め直したのか、毒々しいピンク色のネクタイが斜めに傾いでいる。

「たった今連絡が入った。県警の刑事部長と捜査一課長、この二人が捜査指揮を執る。わたしと青柳くんはここに留まり、本部との連絡調整を行なう。そういう段取りになりそうだ」

「他の者はどうしましょうか。速水と市ノ瀬にはこちらに向かうよう言ってあります」

「そうだな。速水、市ノ瀬、桧野、あと鑑識課から何人か応援を出そう。残りはこちらで待機だ」

「桜庭はどうします?」

 今朝妻を亡くしたばかりの部下の名を、邦子はためらいがちに言った。

「ああ……。あれでも一応ベテランだが、さすがに今回は捜査から外したほうがいいかもしれん。現場の足手まといになってもらっては困る」

「あるいは別の事件を追っているほうが気が紛れるかもしれません。桜庭に関してはもう少し時間をください。捜査に参加させるべきかどうかこちらで判断します」

 すると田所は返事の代わりに大きなため息をついた。この男はなぜかいつも自信喪失気味で、正対した者に居心地の悪さを感じさせる。てきぱきと職務をこなす邦子とは対照的だった。

 とはいえ、この顔色の悪さはそれだけではない気がする。パソコンのマウスひとつ運ぼうとせず、忙しく動き回る職員をぼうっと眺めている。邦子は何か言ってやろうかと思ったが、追い打ちをかけるようなのでやめておいた。

「速水と市ノ瀬が戻ってきたら捜査本部に出向いて県警の刑事と引き合わせます。向こうの課長補佐と同期なので邪険にはされないと思います」

「だったら直接教えてもらえるかもしれないが、今回はマスコミ対策に苦労しそうだ」

「報道協定ですか? 本部と記者クラブが協議して発効するでしょう。互いに異論はないと思いますが」

 今回のような事件の場合、マスコミと協定を結び、最前線の捜査情報を伝える代わり誘拐そのものが外部に漏れないよう制御する。犯人が追いつめられた挙句、被害者を手にかけるような事態を防ぐためである。

「それがなぁ……。今回に限っては特殊なんだ」

「は?」

 踵を返そうとした邦子は怪訝な顔で振り返った。自分の胸にだけしまっておくのはよくないと考え直したのか、田所がしぶしぶ打ち明けた。

「刑事部長からの直々の連絡があってな。実は……」


「なに? 誘拐事件だと?」

 もぬけの殻となった現場で、桜庭は市ノ瀬と似たような反応をした。立ち入り禁止と書かれた黄色いテープが虚しく風にはためいている。

「ご存じなかったんですか?」

「聞いていない。そっちの捜査に招集されたのか」

「これから捜査会議です。県警の会議室に人が大勢集まって、ちょっとしたドラマみたいな雰囲気ですよ」

 すでに会議室の中にいるらしく、電話の向こうの市ノ瀬は声を潜めていた。誘拐事件の概要も気になったが、桜庭は別のことを聞いた。

「妻の死はどうなった。事件性はありそうなのか」

「わかりません。証拠品は署に届けられているはずですが、俺たちは見る時間がありませんでした。鑑識も今は手一杯だと聞いています」

 沸々と怒りが込み上げ、桜庭はスマートフォンを地面に叩きつけたくなった。ぎりぎりで踏みとどまったのは、この感情が被害者遺族としてのものだとわかっていたからだった。刑事が緊急性の高い事件を優先するのは当然で、しかも誘拐事件は一歩間違えれば人命に関わる。

 そのとき電話口から複数人の話し声が聞こえ、市ノ瀬ではない別の誰かが出た。

「おい、桜庭か。そっちの個人的な事情で後輩を困らせるなよ」

「速水……」

「さっき県警の人間を捕まえて聞き出した。誘拐されたのは社会的地位が高い人間の親族だ。刑事部長が鬼瓦みたいな顔で座っているのは、一秒でも早く解決しろと俺たちの尻を叩くためだ」

「だとすると管内で起きた他の事件は一旦後回しか」

「否が応にもそうなるだろうな。こんなことは言いたくないが、桜庭……」

「やめろ。らしくない声を聞くのは生涯に一度で充分だ。市ノ瀬に悪かったと伝えてくれ」

 通話を終えた桜庭は深い悲しみに囚われた。スマートフォンを握りしめ、歩道橋の階段の降り口に歩み寄る。そこにはまだ血の跡が残っていた。

 犬の散歩をしていた近くの住民が遺体を発見し、通報したのが午前七時。ということは千尋は短くても五時間、あそこに倒れていたことになる。ひとり寂しく死んでいった千尋を想い、速水から連絡を受けるまで何も気付かなかった自分を呪った。

 ――千尋はなぜ死ななければならなかったのか。

 真相を知ろうにも、防犯カメラもスマートフォンの通話記録も、それなりの理由と権限がなければ確認できない。歩道橋を離れて歩き出しながら、自分も署に戻ろうかと考えた。半端な気持ちで捜査に参加されても困るとか何とか言われそうだが、刑事の頭数は多いに越したことはない。

 カサ……。

 紙がこすれるような音がして、桜庭はふと回想から覚めた。後ろを振り返ると、歩道橋を支える柱の根元に若い男が屈み込んでいた。近くの住民が供えてくれたのか、小さな花束が立てかけてある。

「……」

 その男がそっと手を合わせる様子を、桜庭は黙って見守った。たまたま通りかかったわけではなく、本心からの弔いの念が感じ取れた。

 声をかけようと近付くと、男ははっとこちらを見た。十二月だというのに上着はブルーのパーカー一枚で、擦り切れた色のジーンズを穿いている。

「君は……」

 だが男はひと言も発さず、背を向けて走り出した。桜庭は追いかけようとして思い留まり、男が屈み込んでいた柱に目をやった。きれいにラッピングされた花と花の間に、折り畳まれた紙片が挟まっている。

 桜庭はそれを取り、中を広げて見た。そして何度か読み返すと、さっきの男が走り去った方角を見た。だがあいにくその姿はもうどこにもなかった。

 迷った末、桜庭は空いた片手でスマートフォンの画面を操作した。

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