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 そのころ桜庭は冷えきった廊下でひとり、ステンレスの無機質な椅子に座っていた。

 同僚の速水から連絡を受けたとき、頭が真っ白になるとはこういうことかと実感した。事情を察した亜須香がタクシーを呼び、桜庭を乗せて行き先を告げてくれたところまでは憶えている。

「――桜庭くん」

 控えめな声が桜庭を現実に引き戻した。顔を上げると、利峰署の刑事課長、青柳あおやぎ邦子くにこが立っていた。それがあるだけで相当なイメージダウンと評判の分厚い黒縁眼鏡をかけている。

「ご迷惑をおかけしてすみません。その……」

 さっと立ち上がり、気丈なところを見せようとしたが、思いのほか弱々しい声が出てしまった。

「何言っているの。こんなときに迷惑だなんて言わないで」

 邦子は桜庭についてくるよう目で合図した。二人分の靴音が静まり返った廊下に大きく響く。案内された部屋は微かに線香の匂いがして、中央に白衣を着た男が立ち尽くしていた。

「法医学医の小早川こばやかわ先生。桜庭くんとは初対面ではありませんよね」

 目礼を交わす二人に、邦子が言った。

「ご遺体の検案の際、何度かお目にかかったことがあります。このような再会になるとは夢にも思いませんでした」

 ベテラン法医学医の小早川はこういう場にふさわしい厳かな口調で言った。桜庭はその脇を通り、ベッドに寝かされた遺体に歩み寄った。首元まで白いシーツがかけられているが、顔の覆いは外されている。そのため近くに行かなくてもそれが誰かわかった。

千尋ちひろ……」

 唇を震わせてそう呼びかけた。昨晩これから仕事に行くと告げたとき、少し不満そうに送り出してくれた姿が脳裏をよぎる。寒々とした遺体安置所に寝かされた遺体の、生気のない顔とは別人のようだった。

「妻に間違いありません。死因は特定できていますか」

 冷静にそんなことが言える自分に驚いた。ベッド近くの机には所持品が整理して置かれている。見慣れた冬物の衣類のほか、ハンドバック、財布、ハンカチ、お守り、スマートフォン等々、特別目を引くものはなかった。

「奥様の死因は、歩道橋の階段から転落したことによる外傷性ショックです。身体の複数の箇所に損傷がみられ、特に出血がひどかったのは頭部の傷です。死亡推定時刻は十二月十五日午前零時から二時の間。現場は人通りが少なく、朝まで発見が遅れたようです」

 手元のバインダーを見ながら答える小早川に、桜庭は視線をそらさず畳みかけた。

「それから?」

「は?」

「言うことはまだあるはずです。それとも気付かなかったんですか?」

 そんなつもりはなかったが、顔馴染みの法医学医に向かって声を荒げてしまった。見かねた邦子が口を開きかけたが、小早川がそれを制した。

「奥様は妊娠されていました。念のため検査をしましたが、残念ながら……」

 そう聞いた瞬間、桜庭の中で保っていた糸がプツンと切れた。よろよろと背後の壁にすがり、そのまま床に崩れ落ちてしまう。

「桜庭くん」

 駆け寄る邦子と小早川の顔がぼやけ、自分が涙を浮かべていることに気付いた。妻から報告があったのはつい先月のことだ。帰宅したばかりの桜庭にタックルを食らわせんばかりに抱きつき、早口で事情を説明した。仕事のことで頭がいっぱいだった桜庭は、最初何を言われているかわからなかった。

「男の子か女の子かまだわからないけど、名前の候補を決めておかなきゃ。どうしてもつけたい漢字ってある? この本によると画数も重要みたいよ」

 千尋は命名占い辞典なるものを手にしていた。結婚して今年で三年になり、初めての妊娠に喜ぶのも無理はない。というより桜庭自身も嬉しくて仕方なく、飛び上がって喜びたいのを堪えていた。そんなことをしたら刑事の威厳も何もあったものではない。

 それから二人でテーブルに向かい合って座り、桜庭は妻に懇々と言い聞かせた。千尋は自分より五つ下であるが、けっして若い年齢ではない。しかもこれが初産であり、それだけにリスクが高いことは二人ともわかっていた。

「今まで以上に身体を大切にするんだぞ。腹が冷えないよう腹巻をして、長時間キッチンに立つのもやめたほうがいい。あっ、重い荷物は俺が持つからな。高いところにあるものを取るときも俺が……」

「ろくに帰ってこない人に頼めると思っているの? 無茶しないように気を付けるわね」

 そうだった。千尋は自分とお腹の子のため、人一倍健康に気を遣っていた。所持品にあるお守りも安産祈願のもので、わざわざ遠方の神社まで行って授与してもらった。桜庭も同じものを持っているが、二つあっても御利益が倍になるわけではない、と呆れられたことを憶えている。

 そんな千尋がなぜ十二月の深夜という時間帯、人気のない歩道橋の上にいたのだろう。そしてなぜ階段を転がり落ちて死んだのだろう。

 事故か、それとも事件か――。

 刑事としての頭が機能し、こうしてはいられないと強い衝動に駆られた。回想から覚め、壁にすがってなんとか立ち上がる。訝しげな邦子と小早川の前を通り、改めて遺体の顔を見下ろした。

「絶対に真実を明らかにしてやるからな」

 打撲と切り傷の跡が痛々しい千尋に、桜庭は決意を込めて言った。自分が家を出たのは日付が変わるころ、零時少し前だった。千尋はそのあと何らかの理由で外出したことになる。よりによって自宅から遠く離れたあんな場所に。

「速水たちが何か情報を掴んでいるかもしれません。自分も現場に行ってみます」

 背を向けようとする桜庭に、邦子が声をかけた。

「桜庭くん。わたしは課長として、気の済むまでやりなさいとは言わないわよ。あなたは利峰署の刑事でありご遺体の親族でもある。個人的な事情で動くことは許されない。もちろん承知の上よね」

「わかっています。ですが現場の状況は妊娠中の女性にかなりの負担であるはずです。彼女が自分の意思でそこに向かったとは考えられません。何かやむを得ない事情があったのか、あるいは誰かに呼び出されたのかもしれません」

「そうとも考えられるけど……。殺人もしくは傷害致死の可能性について、小早川先生の見解は?」

 邦子が話を振ると、小早川はポーカーフェイスで答えた。

「正直なところ、解剖に回すかどうか迷っています。今の時点では事件性があるかどうか断言できません」

「だとしても最低限の捜査はすべきです。捜査の結果、事件性なしと判断されるのであれば受け入れます。被害者には夫に言えない秘密があったというだけです」

 桜庭は直立不動の体勢で上司の指示を待った。邦子はやれやれとため息をついた。

「そこまで言うなら勝手にしなさい。ただし現場の捜査はあくまで速水くんが主導よ。他の事件が起きたときは戻ってもらうから忘れないで」

「はい。ありがとうございます」

 桜庭は深々と一礼した。そして最後にもう一度妻の遺体に目をやったあと、意を決して部屋を出ていった。


 そこから遠く離れた一軒家で、数人の男女が外出の支度をしていた。

「あいつ戻ってこないね。どこで何してんだろ」

 四人分の靴が並んだ玄関先で、長いストレートヘアの若い女性が言った。

「昨日は特に冷えたもんな。飯も食わずにふらふらになって、どっかで凍え死んでいたりして」

 横から同い年ぐらいの男が茶化した。髪を短く刈り上げ、安物のアクセサリーで身を固めている。

「忘れ物はない? 何か美味しそうなものがあれば買ってきてよ」

 その後ろから、こちらは髪をミディアムカットにした若者が顔を覗かせた。

「おい、休日だからって気を抜きすぎだ。せめてそのジャージを着替えろ」

「どうせ誰も訪ねてこないから大丈夫だって。お土産、期待しているからね」

 そんな会話を交わす二人の横を通り、若い女性はリビングまで戻った。そこにはテレビのニュースに耳を傾ける三十代半ばの男性がいた。

「お待たせ。ひとり行方不明だけど、そろそろ行こっか」

「うん……。心配だな。どこにいるんだろう」

 天気予報を流していたテレビを切り、男性は声がするほうに足を踏み出した。

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