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「今夜も仕事なの? どうりで起きてこないと思ったのよね」
昨日の昼前、遅い朝食をとっていた桜庭に、千尋は不満げな声を漏らした。自分では伝えたと思っていたが、どうやらうっかり忘れていたらしい。
「すまん、当番なんだ。明日の夕方には帰ってこられると思うから、そのあとどこかで食事をしよう」
「そう言ってどうせ長引くんでしょ。これじゃレストランの予約もできないわね」
「本当に申し訳ない」
「ま、いいけどね。今に始まったことじゃないし」
千尋はすぐに引き下がったが、内心で失望していることは明らかだった。明日は二人にとって三度目の結婚記念日である。世間的には夫婦水入らずでディナーを楽しんだりするのだろうが、桜庭の職業が職業であるだけにそうもいかなかった。
「ねぇ、帰ってきたら話したいことがあるんだけど」
夫のシャツに丁寧にアイロンをかけながら千尋が言った。桜庭はネクタイを締めている途中で、テレビから目を離さず言葉を返した。
「うん? 今じゃ駄目なのか」
「大事な話だから、あなたの仕事が終わったあと話したいの」
「そうか。あー、もしかして先月、実家に帰るって言い出したことと関係ある?」
先月、千尋は突然そう言い出し、ほんの数日とはいえ故郷に帰っていた。妊娠で神経過敏になっているせいだと思っていたが、夫としては釈然としなかった。
「そうなのよ。昔のことだからうろ覚えだったんだけど、実家に帰ってみて確信が持てたの。思い出すのに三年もかかるなんて不思議よね」
「何を思い出したんだ? 今言ってくれたらいいのに」
桜庭は続きが聞きたくてうずうずした。三年ということは二人の結婚に関することか。よもや離婚を切り出されるのでは……と嫌な予感がしないでもなかった。
「本当は今夜話そうと思っていたのよ。なのに仕事で家にいられないなんて言うんだから、罰としてひと晩じゅう考えているといいわ」
千尋は子どもの喧嘩のように言い放ち、アイロン作業に戻った。桜庭は呆気にとられてその様子を見守った。妻は一体何の話をしようというのか、このままでは張り込みの最中も悶々としてしまいそうだ。
仕事に支障が出るから教えてくれと頼んだが、千尋は頑として話さなかった。玄関先で桜庭を送り出すときも、同じような態度で「知りたいなら早く帰ってきてよね」と言った。それが妻との最後の会話になった。
「――桜庭さん、もうすぐ歩道橋ですよ」
市ノ瀬の声が意識の端に入り込んだ。助手席でぼんやりしていた桜庭は我に返り、黄色いテープがはためく現場を見やった。供えられた花はそのままで、風に優しくそよいでいる。
「さっきの犯行声明らしきメモ、あそこにあったんですよね」
市ノ瀬は車のスピードを緩めて同じ方向を見た。桜庭は目を閉じ、いまだ真実を明らかにできないことを心の中で詫びた。
「俺は被害者の身内だから、刑事としての率直な意見を聞かせてほしい。あの文章を読んでどう思った?」
「そうですね。あれを書いた人物は、桜庭さんの奥さんは殺されたと断言していました。その証拠が飯塚英生の家にあるという理屈は今のところ意味不明です」
「確かにな。その飯塚英生ってのが殺人犯でない限りは」
「そういう考え方もできますね。速水さんが言ったように、連続殺人って可能性もあり得ますけど」
「だったら今から行く自宅で、俺たちを待っているのは遺体か。どちらにせよ市ノ瀬の考えでは、あのメモに書かれていたことは真実で、千尋は誰かに殺されたってわけだな」
その言葉が車内に放たれた瞬間、シーンと静まり返った。今回の被害者は桜庭の身内であるだけでなく、市ノ瀬にとっても先輩の妻という立場である。赤の他人が殺された事件のようにあれこれ意見を述べることは憚られて当然だった。
「すまん。困らせるつもりはなかった」
「いえ……。でも警察の無能ぶりを指摘するだけなら、花に紛れてメモを残すなんて手の込んだことはしないでしょう。あそこにはある程度、真実が書かれていたと考えるのが妥当です」
「巷の一般人が暇つぶしに警察をからかっているだけかもしれんがな。あれは犯行声明か、ただのガセか。俺はもうひとつ別の仮説も立てられると思う」
「えっ、何です?」
桜庭は答えようとして、やはり思い留まった。こんな想像を後輩に偉そうに語るわけにはいかない。
「悪いが聞かなかったことにしてくれ。それこそ私情が絡みすぎている」
「どうして途中でやめるんですか。もったいぶらないでくださいよ」
「それより市ノ瀬、赤信号を見落としたら道路交通法違反でしょっぴくぞ」
正面の信号が黄色になったのを見て、桜庭が素早く注意を促した。
そのころ県警では、似顔絵作成に協力した目撃者が居残っていると聞き、速水が聴取に行くことになった。
県警の
「すみませんね、何度も同じ話をしていただいて」
会議室の一室で目撃者の男と向かい合い、速水がまずは詫びの言葉を口にした。普通の一般人なら気分を害して当然のところ、この目撃者は妙に協力的だった。
「いえいえ。本物の刑事さんと話をするなんて滅多とない経験ですから、何でも聞いてください」
似顔絵作成の協力者、
速水は内心で舌打ちをして、手帳とペンを構えた。
「ええと、大泉さんはお客としてこのイベントに参加されていたんですね」
「はい。毎年老人クラブの仲間と参加するんです。出し物をした年もありましたが、今じゃそんな気力もなくなりましてな。なにしろ老衰やら入院などで年々会員が減る一方なんです」
「はぁ、そうですか。ではこの似顔絵についてお聞きしたいのですが、あなたは女性が少女の手を引いて歩くところを目撃したのですね」
速水は書類の中から似顔絵のコピーを取り出し、テーブルの上に置いた。大泉はそれを見て大きく頷いた。
「ええ、そりゃもうはっきりと憶えています。その絵の女性が幼い女の子を引きずるように、人ごみをかき分けて走っていったんです。あれは慌てていたというより、まるで逃げているようでしたな」
「逃げる? 何から?」
「さぁ、そこまでは……」
大泉は首を捻った。本人の思い込みかもしれないが、そうでないと否定する理由もない。一応手帳にメモしておくとして、速水は聴取を続けた。
「こちらの記録によれば、通報があったのは九時五十二分。あなたが女性を目撃したのはその少し前ということになります。通報したのは大泉さん、あなたですか?」
「わしは携帯電話を持っておりません。通報したのは別の誰かでしょう。あのとき後ろからお母さんが走ってきて、娘を連れていかれたと半狂乱になっていました。警察に連絡すべきかどうか、そこにいた人たちと相談したのを憶えています」
「その中の誰かが通報したということですか」
「断定はできませんがね。そうじゃないですか」
曖昧に首を傾げる大泉に頷いてみせ、速水は隣に座る佐久間を見た。他に何か聞きたいことはないかと目で促したのだが、もう充分とばかりに無言の反応が返ってきた。
「貴重なお時間を頂戴しました。ご協力ありがとうございます」
速水は礼を述べ、佐久間とともに会議室を辞そうとした。すると、突然思い出したように大泉が声を上げた。
「ああ、そういえば……」
何事かと二人が振り返ると、大泉は水から揚がった金魚のように口を開け閉めしていた。何かとんでもないことを言い忘れていたという顔である。
「通報したのはあの人かもしれません。誘拐された子のお母さんと随分親しい様子で、警察が来るまでずっとそばで励ましていたんです。そうそう、通報を渋っていたお母さんを説得したのもその人でした」
「女の子の母親が通報を渋っていたんですか?」
「そうなんですよ。おかしいでしょう?」
自分の話に刑事が食いついたのが嬉しいのか、大泉は頬をほころばせた。たじろいだ速水に代わり、佐久間が初めて口を開いた。
「その説得した人物に見覚えは?」
「名前は知りませんが、地域にあるデイサービスセンターの職員です。レクリエーションの一環でしょうな、わしと同年代のお年寄りを何人か連れておりました。はて何といったかな。デイサービス……ナントカの郷」
「地域の施設であることは確かですね?」
「そうです。老人クラブの誰かに聞けばはっきりわかるかもしれません。カモメだかホトトギスだか……。皆に連絡してみましょうか?」
「いえ、こちらで調べます」
これ以上干渉されてはたまらないと、佐久間は話を打ち切った。デイサービスの職員という情報があれば一般人を巻き込まずとも警察で調べられる。二人はもう一度丁重に礼を述べ、今度こそ席を立った。
外で待っていた警察官に「済みました」と声をかけ、二人は廊下を歩いた。途中、佐久間が速水に意見を求めた。
「あの老人をどう思います? 言っていることを信じていいでしょうか」
「同年代の老人に比べりゃしっかりしているほうだ。むしろしっかりしすぎていて、警察に協力することが自分の使命だと思っている節がある。多少誇張しているかもしれないが、概ね嘘は言っていないだろう」
「母親が通報を渋っていたという証言、気になりますね」
「騒ぐと娘の命はないと脅迫されたのかもしれない。あるいは警察に知られると困る事情でもあったのか……。なんにせよデイサービスの職員とやらを見つけ出して話を聞く必要があるな」
二人は話しながら廊下の角を曲がり、そこでぴたりと足を止めた。ひとりの女性が刑事に付き添われ、顔を伏せがちにして歩いてくる。それを見た佐久間が速水に耳打ちした。
「被害者の母親、御手洗智代です。彼女の父親が御手洗重昭元議員で、夫は婿養子にあたります。義父の地盤を継いだ形ですが有権者の評判はいいみたいですよ。家庭的な夫のイメージを前面に押し出しているそうです」
「そういう情報はどこから取ってくるんだ?」
「いまどきインターネットで何でもわかる時代ですから」
二人は脇に避け、智代と刑事が通り過ぎるのを待った。東京から遠く離れたこの地で都議会議員の娘が誘拐されたのは偶然ではない。母親と二人で旅行することを知っていた人物の仕業ではないかと、捜査本部もそう考えているはずだ。
「では近隣のデイサービスから当たりますか」
「おう」
佐久間の提案に速水も頷き、智代たちとは反対の方向に歩いていった。
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