三章 小話

幼女、泣かされる。或いは宿敵との初邂逅

★まえがき


 『第101話 好きでしたになることだけはわかってる』 あたり




 白木芽衣はとっても機嫌がよかった。ルンルンというやつだ。

 なぜは簡単で、大好きなおにいちゃんがつい先日、長い長~いお仕事から帰って来たのだ。

 しかも。

 今日は科学館に連れて行ってくれるという。

「かがく! かん! めい知ってます。かがくのちからがせかいをほろぼす」

 えへん、と胸を張ったのが二日前。

 大好きなおにいちゃんこと幕張琴樹がぽかんと口を開いた理由は芽衣にはわからなかった。

「なぁ、今度はどんなドラマなんだよ」

「ドラマじゃなくってアニメ。女の子向けのやつ」

「あぁー……世界滅ぼすの?」

「知らない? けっこう過激だよ? 最近のは」

 おにいちゃんとお姉ちゃんの内緒話に芽衣はぷくっと頬を膨らませたものだ。

「めいも! めいもおはなし!」

 屈んだおにいちゃんのお耳に口を寄せる。お姉ちゃんこと白木優芽がそうしていたように。

「めいはねぇ、おっきくなったら、せかいをすくうんだよ」


 そんな未来もあるかもしれない。

 楽しそうに水鉄砲を乱射する幼女の姿に琴樹は目を細めた。芽衣が未来を救うとして、それはシンプルに武力に因ってなのかもなぁと、そんな感慨を抱いてしまう。

「意外すぎる才能だ……」

「ね。私もびっくり」

 水鉄砲の射的。スコアランキングの一番上に一際大きく表示されている名前は、数十秒後には書き換えられそうだった。

「みゃん、みゃん、みゃん」

 独自色の強い掛け声一つ毎に的が倒れる。

「あれはね、アニメの主人公の子の必殺技の効果音の真似」

 琴樹が疑問を口にするより早く、姉からもたらされた情報だった。似てるかどうかじゃない。楽しそうであればそれでいい。

 ピロン、と終了の合図が響く。芽衣はゆっくりと玩具の鉄砲を台に置き、自分の成績を確認した。それからバッと、勢いよく琴樹と優芽に振り返る。

「おねえちゃんおにいちゃん! めいのなまえ!」

「うん。芽衣ちゃんが一番だな。すごいよ」

「記念に写真撮っておこっか」

「おしゃしん! めいすごい? すごい!?」

「とってもすごいよ」

 いやほんとに。と琴樹は幼い頭を撫でながら自分の胸中にも喜びが湧くのを感じる。我が事のように、と言うと言い過ぎかもしれないが、芽衣が嬉しさと誇らしさに破顔するのはただ芽衣他人の出来事ではないと思える。それを、どうしようもなく幸福と、そう心が染まる。

 ひょいと芽衣を抱え上げた琴樹が電光掲示板の傍に寄り、芽衣が自分の名前を指差して、優芽がカメラのシャッターを切った。

「見せて! おねえちゃん、めいに見せてっ」

「ふふ。ほら。白木芽衣って書いてあるんだよ」

 芽衣にはまだアルファベットはわからない。わからないが、姉がそう言うならそうに決まっている。

 一番、白木芽衣。

「えへ~。これめいのじまん~」

「そうだねー。でもスマホは返してねー」

 自慢ごと小さな胸に抱えられたものを優芽が取り返そうと苦闘する。中々どうして難航する様子に琴樹はいつかのことを思い出す。

 幕張琴樹がはじめて白木芽衣を見つけ、見つけられた日、あの日にもこんな光景があったはずだ。

 琴樹は穏やかな気持ちで姉妹のやり取りを見守っていたが、ふと視界の端にこちらを見る姿を捉えた。見るよりは睨むに近い。そんな、芽衣と同じくらいの年の頃の男の子を。


 ひとまず声を掛けられることも近寄ってくることもなかったから放置して、琴樹たち三人は軽食を取ることにした。体験コーナーが豊富なおかげで芽衣が「おなかすいた」と言い出したからだ。

 館内の一角でサンドイッチを頬張る。椅子に座った芽衣などは足をぷらぷらと振っていた。

「なんか……いいね」

 優芽の口から洩れたのはただ思ったままの感慨だった。いい。なにがいいのか、どういいのか。それらがどうでもいいくらい、いい。

「そうだな。いい天気だ」

 タイミングがいいのか悪いのか、琴樹は空模様を見ていたから伝わらなかったが。

「そうじゃないぃ」

 優芽が唇を尖らせれば琴樹は少々焦る。「あれ、違うのか」と訊いても、優芽自身にも何のことか明確な答えはないから「別にいいけどぉ」と濁した。それでも場の空気が重くなるようなことはない。

「琴樹のも美味しそうだね」

「食べてみるか?」

「いただきまーす」

 琴樹が差し出したサンドイッチに優芽が思い切り齧りつき、芽衣も続く。三者三様の味はそうして三人のお腹に分けておさめられたのだった。


 小腹を満たし、見学の続きに戻ろうと通路に出た時だった。

「あの、おにいさん、おねえさん。ちょっといいですか」

「ん? 君、さっきの……どうかしたかな?」

 短めに整えられた黒髪にきっちりと着こなした服。身形がいい印象の男の子だった。さきほど琴樹が気が付いた、芽衣を見ていた男の子だ。今は何の色もない顔をしている。頭の高さを合わせた琴樹の目線にも怖じ気ることはない。

「めいちゃんに、見てもらいたくて」

「芽衣に? え、何を?」

 琴樹の隣に屈んだ優芽が首を傾げる。芽衣もまた「めいにぃ?」と姉と同じ角度をとっていた。

「あ、さっきの、えーと、うつやつです」

「……君の親御さんは? お母さんとか。連れてきてくれた人はどこにいるの?」

「だいじょうぶです。ぼく、ちゃんとばしょわかるので」

 落ち着きや話しぶりは見た目の年齢以上だが、やはり年齢相応の部分もあると琴樹は理解し、ひとまず自分の疑問と不安は棚上げした。たぶん、ほんとに大丈夫なのだと思ったのだ。

「優芽、いいかな? ……どっちかというと、この子のためなんだけど」

 立ち上がった琴樹はほとんど無意識に男の子の頭に手を置いてしまった。何を見せたいのか予想は出来ていて、そんな男の子おとこのこの部分を大事にしてやりたいのは同性故の贔屓だろうか。

「うーん……」

 優芽は渋る。妹のことを思えば拒否するのも一つの手だ。同じくらい、妹のことを思えばそんな経験もありだろう。

「いいよ。見に行こっか。連れて行ってくれるかな?」

「はいっ。ありがとうございます!」

 男の子は丁寧にお辞儀をして、躊躇うことなく芽衣の手を握った。

「めいちゃんこっち」

「わぁっ」

 優芽は思う。芽衣が嫌がらない内は、成り行きに任せよう。


 芽衣は根っこのところで他人を信じ切っている。悪い人という存在を実感したことがないから、基本的には誰も彼も、初対面の相手だって信じている。それでも気後れや懐疑と無縁ではないが、傍に家族がいるのなら大抵のことは怖くない。

 知らない男の子に手を引っ張られても、驚きはしても嫌悪はなかった。それはそれまでの男の子の言動が好印象だったというのもある。おねえちゃんとおにいちゃんに、ちゃんと話してくれる。そしておねえちゃんもおにいちゃんも何も言わない。なら、大丈夫な人で大丈夫なことに決まっていた。

 連れてこられたのはごはんの前にいたところで、芽衣は目をぱちくりとさせて首を傾げる。

「おなまえはなんですか?」

「あ……ご、ごめんなさいっ。ぼく、しんどうなおきって言います。ごさいです」

「しらきめい、ごさいです! よろしくおねがいします」

「あ、うん、よろしくおねがいします」

「微笑ましいのぉ」

「馬鹿言ってないで。私は芽衣の姉で優芽。白木優芽。高校生だよ。よろしくね」

 優芽となおきが握手をし、琴樹も同じように繰り返した。

「しんどうくんはぁ……なにを見せてくれるの?」

 芽衣と男の子の手はこの場に着いた時点で離れている。ただ、芽衣にしては近い距離を許しているなと優芽は思う。体の距離もそうだし、心の方も。

「ん? どうした?」

「なんでもない」

 突然現れた見知らぬ男の子。なにも知らないまま、わからないまま引き剥がすことは優芽の経験が許さなかった。

 そういう姉の心情をよそに、芽衣は特に何も考えていなかった。何か見せてくれるというから付いてきた、本当にそれだけだった。なにかなー、とちょっと楽しみに思っている程度である。

 すぐに思い改めたが。

「これ。ちゃんとぼくがいちばんとっておいたから」

 芽衣はしんどう君の指差す先を見上げる。そこには芽衣の名前、のはずの文字列と、その上に誰かの名前が書かれていた。読めないが。

「あー! めいのおなまえ! いちばんじゃないっ。なんで? おねえちゃん! めいのおなまえっ」

 芽衣は急いで姉の元に駆け寄って足にしがみ付いた。

「おーよしよし。抜かされちゃったね」

「ぬかされちゃった?」

「そう。芽衣より上手な人がいたってことだね」

「うぅ……やだ、めいいちばんがいい」

 一番になれないのはいい。でも一番じゃなくなるのは嫌だ。涙を溜めて訴えてもおねえちゃんは苦笑いするばかり。

「こときおにいぢゃぁん」

「よっと。だいじょぶ大丈夫」

 おにいちゃんに抱えてもらって頭を撫でてもらう。悲しいやら悔しいやら。芽衣は思い切り琴樹の首に腕を回した。

「ごめんなさい」

 男の子、しんどうなおきは少しバツが悪そうに頭を下げると踵を返す。

 その背中に向かって芽衣は全力で。

「べーっ」

 と舌を出してやったのだった。

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