また別の物語――紀字高校女子バドミントン部
それは誰の予想にもなかった言葉だった。
「二宮……それと白木。あなたたちはダブルスでいきましょう」
紀字高校女子バドミントン部。
新人戦に向けて一年生ばかり、と部長と副部長が集められた教室で、顧問の南里先生が言うことを、当の二宮錦子と白木優芽が理解できない。
「二宮と白木、ですか」
復唱する部長の声にも困惑が色濃い。
空き教室を借りてのミーティングである。時刻は放課後、部活タイム。グラウンドからサッカー部の声出しが届いていた。
それを掻き消すのが二つの大きな異口同音だ。
「いやですよっ! なんで私がこいつと!?」
「やなんですけど! こいつとだけは無理!」
言って立ち上がる二人の間にそう距離はない。特に指定もなく集められた室内で並んで座ったのは当人たちだった。
互いの言葉を買って熱が上がるのも当人たちばかりで顧問以外は心中に、やっぱりペアでいいなこいつら、といった感想が湧く。確かに確かに、ダブルスに誰と誰を組ませるかなら二宮と白木は『アリ』だと。
「それで他には」
やんやと言い合う二人に構わず顧問は続ける。受け流されれば静かになる程度の分別は持ち合わせるダブルスペアである。
シングルス、ダブルス。新人戦は各校の一年生全員に試合の機会を設けるのが主旨ではあるがコートも時間も有限だ。調整と思惑が絡んで誰もが望む出場は果たせない。紀字高校女子バドミントン部の一年生たちであれば、あまりに偏ったシングルス希望過多の割りを食う者はどうしたっているものだった。
顧問が発表を続ける中、白木が唇を尖らせて小声に言い募る。
「なんであんたと? 足引っ張んないでよね」
「引っ張んなくても勝手にこけるのに?」
「はぁ? そっちこそまた試合中に泣かないでよね?」
生傷を抉り合う。漏れ聞いた幾人かが『アリ』から『他にナシ』と評価を改める。同じ中学校から来た二人の間に他者が踏み込むには二か月は短すぎた。
中学時代に二宮と白木は都を代表するプレイヤー、ではなかった。その一つ下といったところ。
だからじゃないが。
最後の大会に、それは一回戦でのことだった。
白木優芽の金箔の才は一学年下の金塊の才にねじ伏せられ。
二宮錦子の金塊の才は……心が追いつかない故に陰り、執念じみた努力に圧し潰された。
そんな結果が、今もまだ頭の片隅に居座っている。
二人とも本格的にダブルスに取り組むのははじめてだから上手くいかないことは多い。ばかりと言ってもいい。
「今のは錦子じゃん」
「じゃあ邪魔しないでよ」
ポトリ、と二人の間に落ちたシャトルを見下ろしながら。
「優芽さぁ、ペース配分ってご存知?」
「とっとと勝ったら疲れないでしょ」
「おっとっと脳みそ筋肉。使う頭がなかったか」
いつかと同じように尻もちついた白木を二宮が見下ろしながら。
とはいえなんだかんだと三年生の先輩ペアに肉薄するから、南里先生は苦笑する。そうして歩み寄るのは三年生たちの方で、ケアが必要だとすれば勝利の味など一切していなさそうな彼女たちのはずだった。
区の主催、ということで一日で日程が終わるような小規模の大会ではあるが楯はある。本当にささやかなものではあるが。
紀字高校の職員室の近くの廊下に広めに開けている場所がある。
「ここに、と」
開けている場所にはショーケースがあって、二宮がそこから腕を引っ込めるときちんと置物が一つ増えている。スペースには限りがあるからおおよそ三年間分の、部活動の成果が一つ増えたのだ。
見守っていた南里先生と白木がこくりと頷く。
「来年も……は、新人戦はないか」
「留年する?」
「するなら二宮だけしなよ」
なんだと? なにお。と相変わらずなので新人戦、というか大会全般、学年じゃなくて年齢制限だと顧問が伝えて場を収めた。
「来年と言わずこれから大会は、もっと大きな大会はあるのだし」
少し言葉を切った南里先生の意図は読み通りに二人の視線を集めた。
「どうする? ダブルス、続ける?」
意図。は、読み通り。
きっとこうなると思っていた返事に南里由奈は笑みを浮かべた。
昔のこと、と南里由奈は思うことにしている。
まだ高校生の頃、南里もまたラケットを振って、シャトルを追って、蒸し暑い体育館に汗にまみれていた。あの頃は南里ではなかったけれど。
昔のこと、と南里由奈は思うことにしていた。
南里は、ついぞこうして記念を得たことはない。得ている人を間近に見たことはある。
目を、かけられているのを。
だから南里由奈は思ってしまうのだ。
先生も教育者も指導者も、結局は人間なのだと。諦観のようなものと、申し訳なさと共に。
少なからず昂る思いと共に。
ただ、すべてが順調にいくものではなかった。
夏はよかった。
二宮・白木ペアは一年生ながらに勝ち進み、運のないことに後の全国準優勝ペアに敗れたものの試合内容は悪くなかった。ゲームこそ取れなかったものの惜しいところまではいったし、相手ペアがその後、全国大会の中盤まで苦戦なく進んだことを鑑みれば大健闘と言っていいだろう。
おそらくはそれが良くなかった。
「やれるね、意外と」
「あとは錦子のメンタル次第かなぁ」
「いやいやいや? 優芽のスタミナが持てばいけるから」
言い合う様子も少し変わった。そこには少なからぬ満足があって、それを南里は見抜けなかった。
秋の練習試合。
冬の大会。
白木の調子も上がり。
なのに勝率は五割を超えない。なぜかがわからない。
そうして部員が減って、増えて、二宮も白木もかつてそうだった先輩としての顔を思い出した頃、まったく勝てなくなった。
「メンタル……二宮の方だけじゃ、ないよね。そうだよね」
職員室の自席で南里は思わず呟いてしまう。
一年間、それと聞いたり調べた中学時代の話も合わせて、二宮に不足しているのがメンタル面の保ち方、白木に不足しているのが体力と考えていたし、それは間違いではないと今も思う。
ただそれだけじゃないだけ。
はぁ、と吐き出したため息には「思春期は」と続いたが、これだから、は理性で音にはしなかった。自分だって同じ、いやもっと容易く揺れ動くような高校時代だったのだから二宮にしろ白木にしろ責められるわけがない。
そもそも。
そもそもそう、部活は部活なのだし。
勝手に期待しているだけで彼女たちの高校生活の中心は別、なのかもしれない。本当のところはわからないけど。
「わからないから……」
話をした方がいいのか。してくれるのか。
踏み入るべき? そっとしておく?
誰か正解を教えてよ、というのが南里由奈の偽らざる本音だった。
南里がわからないことが二宮にはわかる。
このところの白木の調子の原因は両者承知していて、そこに触れるべきかどうか。
二宮には、触れなくていいことがわかる。
「ごめん」
力ない謝罪に「ごめんじゃないけど」と返しながら、ただプレーについて話せばいい。
ネットに阻まれたシャトルはコート中央に落ちた。
別に難しいコースでもない単純なミスは、一試合に十を数えた。
結局のところ、精神的な問題は本人が立ち向かい乗り越え、或いは昇華し受け入れるものだ。という理屈だけは二宮錦子の中に確固として存在している。実践はまた別。
二宮にだってあるのだ。
バドミントン、部活、だけじゃない色々が。
それを多少は分かち合うし揶揄い合うし、相談みたいなこともする。二宮と白木は親友ではないが、同時に親友以上でもある。
きっと通じない思いがあって、通じているはずなのに面倒なことになっている思いもある。
二宮の日課のジョギングはただ体力作りではなく、時に思考を巡らせ、時に思考を放棄する、頭の整理の時間でもあった。
そこで言うと今日は考え事の日。
明るく、開け、大通りも交番も近い人の多い公園、というのは夜に走るにはありがたい。もちろんそんなに遅い時刻にはならないようにもしている。
安心安全なコースを走りながら二宮の脳内ではシミュレーションが走っている。
「私、新しい恋に生きるわ」
「おぉ」
「手始めに学年のイケメン全員に告白してきたわ」
「おぉっ」
「全員と付き合うことになったわ」
「おぉお」
いや違うなぁ。
「出家いたす」
いやいや。
「錦子、実は私、あなたの事が……」
そう言って白木優芽は二宮錦子を優しく押し倒した。柔らかなベッドに二人分の窪みができる。
「ね、めちゃくちゃにしていい……よね?」
優芽の指が錦子の服の裾から分け入った。
「だ、だめ……優芽……私」
「錦子」
いつもの声音ではなかった。低く、慈しみ、なのにあまりに強く耳元に響く優芽の声が、その吐息が錦子の言葉を失わさせた。
……ノーコメントで。
二宮は少しダッシュを取り入れた。そういう気分だったから。
ペースを落とし弾み過ぎた息を整えつつ改めて考える。
そういう趣味はない。じゃなくて。
客観的に見て、白木優芽は美人の類である。二宮もそれは認める。学年でも、学年では、学年じゃ、色々強すぎる数人がいるから五指には入らないかもしれないが、まぁ十指には入るだろう。
「美人のバーゲンセールかな」
二宮にだって年頃の少女として思うところはあるのだ。
そんなわけだから相方の恋模様はそれこそ中学からちょいちょい耳に入っていた。当の本人からの矢印がないまま混迷する模様が。
そう思うと、よく今まで普通に学校生活送れてたな優芽、と妙な感慨が湧いた。
告白って、するにしろされるにしろくっつくにしろくっつかないにしろ、気まずくならないものなのか? いやくっついたならならないだろうけどさ。
「おっとっと」
例えば、例えばそう、告白なんてしなくたって気まずく思うくらいなのに。
二宮は更にペースを落とす。
一週間ほど前からだ。その二人を見かけるようになったのは。
たぶん同じコースを走っている、男女二人組。知っている顔と、なんとなく知っている顔。
『先輩』と、もう一人と、会ってしまわないために走る場所か時間か、変えようと二宮錦子は思っている。
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