二章と三章の間
特別なことなどない特別な居場所――幕張琴樹
予定より随分と遅い時刻に幕張琴樹は玄関に辿り着いた。敷地の入り口という意味でだ。低い石垣の切れ目が内外を分け隔てている。その境をあっさりと踏み越えられたのはこれがはじめてではないからだと琴樹は思う。
低い石垣の、切れ目。小さなプレートに『
内にあるのは至って普通な二階建てのアパートと少し広めの庭あとは駐車駐輪のスペースだけで、外部から仕切ることで共同体という雰囲気が少し強めな他は特筆すべき外観は有していない。
反して内情はどこまでも自己完結である。
「遅くなってすみません」
「いいえ。はい鍵。荷物は部屋に置いてあるから」
「あの、自分は幕張琴樹です。お世話になります」
「暮詩織です。まぁ知らないわけじゃないし気楽にね。勝手はわかるわね?」
琴樹が肯定を返せばそれで女性はひらひらと手を振ってアパート一階の一室に去っていく。
ひとまず顔や人物像を知らないわけじゃないし、お世話になりますには本当は『また』の冠を付けるべきだったろう。勝手がどうのも変わっておらず、事前の案内を軽く読み通せば記憶の手助けもあって不安はない。
『暮寮』には、今も昔も、『生きてはいける子供』が集まっている。
琴樹のように頼るべき親類が絶えた者。頼れる親類がいない者。そうなった理由は様々ではあるが概ねそういった事情を持ってこの場所に辿り着く。或いは昔の琴樹のように心理的に親類縁者と一時離れる避難所でもある。
故に干渉はしない。
生きてはいけても生活を維持することは出来ないだけだから。仮宿だから。
それは琴樹の認識だが現実、『暮寮』のどの部屋からも歓談は漏れていなかった。
二階の自室に入ればすぐに段ボールが三つ目につく。開けるのは明日にして琴樹は何はともあれ風呂の準備に取り掛かった。
時刻はもうあと一時間少々で明日というところで道中の疲労をとって今日は早めに就寝したい。明日は明日で忙しいのだし。そう思いながら琴樹は泡立つスポンジを浴槽に擦りつけた。
一週間も経てば地盤は固まる。
部屋はそれっぽく整ったしバイト先も決まった。といっても紹介されていたところだからあれこれ探しはしなかったが。
紀字高校の授業には一部オンライン参加させてもらっているし寮の他の住人の顔くらいは覚えた。
基本は不干渉だが不仲ではない。余裕がある者は挨拶くらいはする。ない者はしないし、それをどうこう思うこともない。みんな少し恐れている。
自分の言葉一つで消えるものがあるかもしれないと。
大なり小なり、それが降りかかった結果としてここにいるのだから。
慣れたバイト作業なら頭の方は別に使ってしまうもので琴樹も例外ではない。
今の自分が思うに、消えるつもりなど微塵もない。昔だってなかった。
それを、他人がわかるものだろうかと考えて、大人はわかるのかもしれないと結論する。大人の全員じゃないにしろ、きっとわかる人にはわかるのだろう。
一か月ほどして、そういったことを寮の管理人と話す機会があった。あったというには、突飛であったかもしれない。
「わからないよ。わからないから、どう話せばいいかもわからなくってこういう風に……やってるんだし」
ゴミ置き場での雑談に舵取りした話題には想像していなかった回答が待っていた。
琴樹が思いがけない言葉に僅かに瞠目する間に暮詩織はにっと笑った。
「その点じゃ、琴樹君はだいぶ助かるタイプかな。安心安心」
二人が話す場所からの視野は広く、盗み聞きが起きるような可能性はそれこれ盗む側が積極的にそう位置取りを選ぶ場合だけだろう。だから暢気と言える口調で話は続いた。
「朝に、誰か死んじゃいないかって。……夜……帰ってこないかもしれないとか。……スマホが鳴ったらいつもビクってしちゃうし。1日で寿命1日分よりは擦り減らしてる気がするわ」
琴樹がまだ大人の言葉を呑み込めないうちに暮詩織はやはりあっさりと去っていく。
「じゃあね。今日はバイトだっけ? 今日も1日、元気にね」
胸の前に両手を遊ばせる仕草は子供っぽく、それがなぜだか琴樹の腑に落ちた。
言葉はすぐには出てこず、無言のまま見送ることになってしまったが。
明日は、ちゃんと返せる気はしていた。
「今のはちょっと年甲斐なかったか?」
なんて独り言に『そんなことないですよ』と。
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