少年は早起きした

★まえがき


 『第20話 幼女は早起きした』 同刻




 笑っている。

 何回も見た笑顔だ。

 何回でも、見たい笑顔だ。

「琴樹」

 自分を呼ぶ声がする。

 何回も聞いた声だ。

 いつまでだって、聞いていたい声だ。


 お日様みたいな微笑みと、夜晴らす調べみたいな声を覚えている。



 それは今にして思えば、自覚の瞬間だったのかもしれないと琴樹は思う。

 小3の夏に、祭りに出掛けた。それは毎年のことだったし、いつも同じ手に引かれてのことだった。

 地元と呼ぶには少し離れた地域の、それなりに大きなお祭りで、出店を制覇するのが琴樹の密かな夢でもあった。アルコールの壁に阻まれて駄々を捏ねた自分は、それは大層、手の掛かるガキだったろうなと今はわかる。

「俺もビール飲むんだ!」

 あのシュワシュワを何故飲んではいけないのか。

 みんな旨い旨いって言ってるじゃないか、と。

「なに言ってんの! アレは私たちには早いの! ほら行くよ琴樹! ジュース買ってあげるから!」

 そんな代案も蹴って「ビールがいい!」を店先に喚く自分は本当に、どれだけ彼女の手を焼かせたことか。

 当たり前だが最終的にはオレンジジュースに落ち着いたものの、随分と不貞腐れて芝を踏み歩いていた。

 頬を膨れさせ、全身に不機嫌ですを主張して。

 そんな自分を、隣を歩く彼女は苦笑して見下ろしていた。

 その、自分や、学校の友達たちとは違う、その笑顔に、どこか不満を抱いていた。たぶん、一足も二足も早く大人になっていく彼女が気に食わなかった。羨ましかった。

 並んで行くことが出来ないのが悔しかった。

「夏休みの宿題はちゃんとやったの?」

「当たり前だろ。とっくに終わらせたに決まってるじゃんか」

 言えば頭をワシワシと撫でてくれる。「やめろっ」と口では訴えた。

 そうされて嬉しいことが、そのまま自分と彼女との隔たりなんじゃないかと思っていたから。


 花火を見るのは毎年同じ場所で、そこは彼女が見つけた秘密のスポットだった。

 人がいない静かなところで、代わりに花火はちょっと遠い。

「近くで大きな花火を見るのもいいけど……こうやって少し離れて眺めるのも、悪くないでしょ?」

 そうだな、と今なら言える。言えず仕舞いだが。

 小高い丘の上で光と音を浴びる。

 その最中に、どうしてかジュースを零したのは確かだけれど、その理由はもう覚えていなかった。

 覚えているのは、彼女の浴衣にオレンジ色の染みを作ってしまったこと。それが申し訳なくて慌てまくった自分。

 それと、花と一緒に咲いた笑み一つ。

「いいよ。大丈夫だよ琴樹」

 音はなかった。



 夢の続きとでも言うべきものを思い出しながら、琴樹は鏡に映る仏頂面を見ていた。

 採光だけは良好な洗面所には朝日が差し込んでいる。

 歯を磨きながら、起き抜けに記憶に残っていた笑顔に思考が引っ張られていた。

 少し前に出会った幼女、それと最近は絡むことも多い幼女の姉。二人と会う約束の時刻まではまだ三時間もある。

 あまり昔懐かしんでいては、どんな顔で出向くことになるか自分にすらわからないから、冷たい水を顔に被って文字通り水に流していく。

 忘れるつもりなどない。ただ少し、今は、引き出しのずっと奥で大人しくしていて欲しい。

 首にタオルを下げて琴樹は洗面所を後にする。

「母さん。朝飯なに?」

「パン焼いてあるから、ジャムでも塗りな」

「卵焼きは?」

「今日はなし」

 残念な知らせに鼻を鳴らして椅子を引いた。引いただけで、テーブルの上に飲み物がなかったから冷蔵庫に向かう。

 牛乳をコップに注ぐ。二つだ。

「早いね。十時って言ってなかった?」

「ん、そう」

 それからリモコンでテレビを点けて、一言続ける。

「舞お姉ちゃんの夢見たからさ」

「そう」

 丁度良く映った天気予報は晴れを告げていた。

 琴樹はこの日、いつになく早起きをした。


 朝食を摂って、折角の早起きに参考書を広げて、時計を見てそろそろかと準備を整え、玄関に琴樹は一人腰を下ろして靴を履く。

「行ってきます」

 に、布団に横になる母からの返事はない。

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