(十)謎の男

 翌日、柚子希はいつも通りに職場に出勤し、智子は朝食を済ませて、身支度を整えようと寝巻きを脱いだ。

 グレーのシャツに、くすんだ茶色と燕尾色のモヘアセーター、ホールセールで買った濃いジーンズを履いた。

 合皮製の山吹色のキャンバスリュックに、ノートやペンケース、ノートパソコンに大学のレポートと教科書を入れた。コートとマフラーを身に付けると、鍵を持ってアパートを出た。

 今日の新宿は晴れていたが、空気が凍てついていた。

 乾燥で肌がピリピリするが、気にせず地下鉄を目指して歩いた。

 新宿駅まで行くと、ジェーアールの山手線で乗り換えて、そこから渋谷駅まで乗り、智子は図書館まで目指した。


 図書館はコンクリート造で、一階にはガラス張りのドームになったテラスがあり、木製のスタンド・ライト付きデスクが並んでいた。

 中央は吹抜けになっていて、本棚には書物がたくさん並んだ。

  三階にはカフェテラスがあり、食堂とインスタントコーヒーの自販機がある。

 智子は、一階のドーム型テラスの席を陣取ると、貴重品だけを手に本棚を見て回った。

 しばらく、棚に書かれた分類表示を眺めていた。

 あっ、ここだ..。生物学の分類の棚を見つける。

 智子は専門書などを見て回った。読むべき本はわかっている。生命科学や遺伝子に関する本。

 智子は、見出しの札に、『遺伝子』と書かれた棚を見つけた。智子はその棚から、『ゲノム編集』と書かれた本を数冊抜き取ると、貸出カウンターへと持っていった。カードは、祖母の住所を入れて作ったもので、東京の祖母の家に居る間は、よくここで借りていた。

 智子は本を手に席へと戻った。

 空調の音と、ページを捲る音、柔らかいカーペットを踏む足音以外には何も聞こえない、図書館独特の静まり返った雰囲気がとても集中できた。

 智子は、しばらくの間ページを捲って本を読み込んだ。遺伝子を編集できる。智子が、自身で感じる違和感の正体。

 趣味も趣向も変わり、不得意なことが見当たらないのも、自分が別人のように感じられるのも、このゲノム編集を受けたから…。

 だとしたら私は..。


 りんっ、とスマホから着信音が鳴った。

 ホーム画面を見れば、非通知だった。掛け直そうか迷っていると、非通知の相手からメッセージが届いた。

 智子は、心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。緊張で手を振るわせながら、智子はメッセージを聞いた。

 

『君は、鈴代和葉すずしろかずはの知り合いだね。』

 言葉から考えて男性と分かる。


『私は夏木だ。和葉に頼まれた。君に見せたい物がある。』

 メッセージが次々と送られてくる。和葉と接触した人物だ。そして、和葉が自殺する一週間前に、和葉が名古屋まで直接会いに行った人物だ。

 和葉の自殺に、何らかしか関係がある人物。

 『貴方は何者ですか?』

 智子はスマホのメッセージに文字を入れた。誰何したが、夏木はその質問には無視をした。


『そのことを話す余裕は無い。よく聞いてくれ。君の住んでいる家のポストに、君宛で郵便を入れた。今すぐ家へと戻れ。』


『そんな話、信じられません。』


 『それでも、家へと戻れ。お前の出生の秘密を知りたくばな。』

 智子は、『出生の秘密』という言葉に釘付けになったが、それを尋ねるのはやめた。それよりも聞かなければならないことがある。


 『和葉の自殺につて、何か心当たりがあるのですか?』

 智子は、思い切って質問した。だが、夏木はにべもなく断った。

『それは答えられない。今は…。』

 

 この言葉を最後に、メッセージが送られることは無かった。智子はメッセージをじっと見た。つまり、知っている事をいつかは教える、という意味だろうか?

 智子は逸る気持ちを抑えるように、深呼吸を五回食い返した。そうでなければ、今すぐにでも、あの我が家に駆け戻ってしまいそうだ。

 

 ふと、視線を感じて窓の外を見た。図書館の敷地内にある、芝生広場のある方角へと目を凝らす。

 広場の先は、コンクリート塀が敷地を囲み、門の向こう側は歩道と大きい車道があった。

 車道の向こう側には、カフェやレストラン、服屋や洋服店が並び、その街角に誰かが立ってこちらを見ているのが見える。

 黒いスーツに中折れ帽を目深に被った、顔の見えない男が立っていた。まるで死神のようだった。

 ぎょっとして立ち止まるが、人混みに紛れてしまい、あっという間に消えていた..。


 


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