(九)私は誰だ?

 十階建てアパートの屋根裏部屋の丸窓から、高いビルと街並みの灯りが見えた。地元では見られない、まさに都会の夜の帳が下りた景色。

 智子は、マグカップに入れてもらったカモミール・ティーに口付けると、昨日の事が鮮やかに思い出された。

 

        *


 聖山は、何かを考え込むように、暗い顔で言った。

 

 「鈴代さんが電話してくださった時に思ったんです。和葉さんが亡くなったのは、僕のせいではないかって..。」

 

 和葉カズハは病院で検査を受け、姉に相談してからすぐに聖山が書いた記事を見つけて、静岡駅で会えないかと彼にコンタクトをとった。

 「全く知らない相手だったので、危ないかもと思って…、とりあえず、駅の中にあるカフェで待ち合わせをする事になったんです。」

 

 和葉たちは落ち合うと、互いに起きた事について話し合った。そこでも、二人は同じような結論に至ったそうだ。僕等は本物では無い。一度見たことのある、あのドッペルゲンガーが、僕らの本当の姿だと。

 「僕等は、あのドッペルゲンガーと、本当に入れ替わったんだって..。でもじゃあ、どうして僕等はドッペルゲンガーでいた時の記憶がないのでしょうか?どうして、違う人生を歩んでるのに、自分の変化にさえ気が付かないのだろうか…。」

 聖山は嘆くように頭を抱えた。彼も、自分の身に起きた事にショックを受けていたのだろう。

 「私、思うの…。あそこに行けば何かわかるんじゃないかな?」

 智子は柚子希の言葉に耳を傾けた。

 「私が、智子___貴女の分身を見たのは、あの山のカフェだった..。和葉だって、あの子が見た自分の分身は川の近くで、何処も位置や場所に繋がりがある。」

 柚子希はさらに言葉を紡ごうとした。

「だから、私たちもあそこに行ってみるっていうのも..。」

 すると、聖山は「いや、それは駄目だ..。」と首を横に振った。

 

 「和葉さん、言っていたんです。彼女も独自に色々と調べていて、とある人物と会うつもりだと..。そこへ行けば、何かわかるんじゃないかって。」

 

 「一体、誰に会うつもりだったんですか?」

  智子が聞くと、聖山は顔を曇らせた。

 「夏木というひとに会いに行くと言っていました。話をつけに行くと…。」

  

 「夏木って、確か和葉の専門学校を訪ねてきた男よね..」

 「えぇ。和葉さん、その男が和葉さんに、コンタクトを取ってきたとか…。彼が、和葉さんや僕らのような者の秘密を知っている、話があるのなら直接尋ねに来いと..。」


 「でもあの子、私たちに一度も…」

 柚子希は思わず手の平を口に当てた。眉根をギュッと寄せて、ショックを耐えるように震えていた。

 

「あの子…亡くなる前の一週間前から、部屋に篭って出て来なかった..。その前に、気晴らしに名古屋へ行くって…。」

 名古屋という言葉に、智子はあっ、と思い立った。

 「夏木って、もしかして西帝科学技術大学にしていかがくぎじゅつだいがくの学長のことですか?」

 すると、聖山はぎょっとして顔を上げた。

 

 「えぇ、そうです!どうして知ってるんですか?」

 「ネットで..、私も自分のことが知りたくて..。」


 智子はネットで見た西帝科学技術大学の学長の事、そこでデザイナー・ベビーの研究がされていた噂、そして、柚子希が調べて送ってきてくれた、カルト教団のことを順を追って説明した。

 「もし、夏木鞠子なつきまりこ、弟の夏木学長と、その教団がつながっていたら?」


 柚子希が同じ意見だと示すように頷いた。

 「夏木兄弟はカルト教団を利用して、怪しげな実験でもしているって言いたいんでしょう?」

 

「その実験に僕らは、モルモットにされたって事ですね」

「一体何のために?」

 三人の間に沈黙が流れた。柚子希が涙を流しているのを、智子は黙って見つめていた..。

 

      *

 「智子…。」

 柚子希の遠慮がちな声にハッとして、下へと通じる梯子に登って顔を出す彼女へと顔を向けた。

 柚子希は梯子を登ると、智子が座っている側の、丸いクッションの上に座り込んだ。

 「何かわかった..?」

 「うぅん、何にも…。山の上の屋敷も調べたけど、所有地になっていて、何も記載はされていなかった。」


 智子の分身がひょっこりと姿を現したあの建物は、誰かの所有地になっていて、情報は非公開になっていた。

 

 「あの…聖山さんって、どうしてる?」

 「彼も独自に調べてくれてる。何かしていないと、崩れそうだって…。」

 智子は丸窓の夜景を見ながら、口を開いた。

 「和葉ね、何もかも分かったら、聖山さんと智子に知った事を全て話すつもりだったみたい。だから、あの子が知った真実が何だったのか、私は追いかけてみたいって、彼が言ってたわ。」

 

「そう…聖山さん、強いな…。私は事実を受け止めるだけで精一杯..。」


 「智子。」

 柚子希は気遣わし気に呟いた。


「私、まだ両親に伝えてない。和葉に起きたことも、それを機に自殺したかもしれないって事..。伝えられない..。」

 

 「だって..。」柚子希は言い掛けて涙をこぼす。

 「だって..?」


 「だって、どうして気づいてあげられ無かったんだろうって…。お父さんも、お母さんも、それで気に病んで欲しくない。」

 柚子希は手の甲で涙を拭う。

「私も後悔してるの..。もっと気に掛けてあげれば、和葉のことを信じてあげていれば..。だって、相談して、せっかく私に打ち明けてくれたのに..。助けになれたはずなのに..。」

 智子は黙って、柚子希を見た。あぁ、そっか..。今の状況で、辛いのは自分だけじゃ無かったのだ..。

 柚子希も、和葉のことで苦しんでいるのか..。


 「伝えなくていいと思うよ..。」

 「へ?..」

 柚子希は顔をあげて、赤く腫らした目でこちらを見た。

 「大切な人を守るためなら、伝えなくてもいい事ってあると思う..。誰かを守るために、言わないって選択はあるよ。」


 智子は深呼吸をすると言葉を紡いだ。

 「私、もし真実が分かったとしても、お父さんに言うかどうか迷ってる。もし、私が、お父さんの知らない分身の方だったとしたら、お父さんが可哀想すぎる..。」

  

 

 智子は、倒れて運ばれる前の、自分のものとは思えない、幼い智子の記憶を振り返った。

 智子の母親は、三つの頃に急死した。原因は脳梗塞。智子はまだ幼稚園児で、母親が亡くなったことに気づけなかった。

 父親は、わんわんと声を上げて泣いた。そして、母の遺影に向かって、「この子は、責任を持って僕が育てる。」と決心した。

 その後一ヶ月経って、抱き上げてくれた母の温もり、頭を撫でてくれた温かい手、無条件に手を大きく広げてくれたあの愛情は、もう手に入らないのだと分かってきた。

 その代わり、母のいない寂しさを、父が埋めようとしてくれた。父の親戚や祖母に助けられつつも、休日や空いている時間に家事をして仕事と両立し、苦労しながらも智子を育ててくれた。裁縫の苦手だった父が体操着に名札をつけ、茶色ばかりのおかずを入れたお弁当を娘に持たせ、「ごめんな、ママならもっと美味しく作れるんだけどなぁ」と情けなさそうに笑う。

 そんな父に、「実は自分は本当の智子では無い。よく似た別の人間なんだ。」と言ったら、どう思うだろう?

 

「本当の事を言えば、お父さん、激しくショックを受けると思う。お父さんにとって、智子はお母さんの形見だから。」

 その形見が、もうこの世には存在しなかったとしたら…。


 「私、偽物だから…智子の代わりになんてなれない。」

 そう言葉にすると、孤独がすぐそばのまで忍び寄る心地がした。一人ぼっちで、冷たい荒野に放り出された気分だ。

 「うぅん、それは違うよ..。貴方は偽物なんかじゃない。生きた本物の人間よ。」

 柚子希は首を振った。


「でも、前の智子とは違うんだよ?」

「私は、今の智子でいいの。今の智子のこと、良いと思ってるよ。」

 

 柚子希は、智子の肩を抱いた。彼女は少しざらついた声で話し出した。

 「みんなさ、それぞれ良いところを持っているもの何だよ。今の智子は、前の智子と違うのかもしれない。でも、私は貴方のことを受け入れるから、味方がいるってことを忘れないで欲しい。」

「ほんと..?」


 「うん、ほんと。みんな誰もがさ、居ない誰かの代わりにはなれないんだ。その人には、その人の生き様ってものがあるからね。だから、今の自分を大切にしないと、不幸になっちゃうよ..。」

 だから、智子は今の智子でなくちゃだめ..。そう言って、柚子希は智子の頭をポンっと撫でた。

 「ありがとう。」

 智子はふふっ、と微笑んで涙を拭いた。

 智子は、病院で目覚めてから初めて、誰かに親しみを抱いた。

 ふと、屋根裏の窓から、朝日が差し込んできた。

 智子は、夜明けの薄暗い、海の中に沈んでいるような街並みが、段々と明るくなっていくのを、ずっと眺めていた。

 

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