(四)和葉の変身 

和葉がもう一人の自分を見たのは、高校三年の、同じような寒い冬の頃だった。

大きな寒波が襲い、珍しく静岡でも雪が降ると予報された。和葉は、智子と高校が離れてしまってから、一人で葵区にある高校に自転車で、橋を渡って通っていた。 

 その日の帰り道、彼女は家の近くとは別の橋を渡って向こう側の街に行き、近くに出来た甘味屋さんで、あんみつを食べようと思っていた。

 橋を渡り切ろうとしていた時、土手に一人の少女が居た。

 灰色に近い、ボロボロだが穴の空いた箇所を丁寧に縫った服を着ている。よくみると、制服のような木綿のワンピースの形をしていて、モスグリーンのセーターを上に着ている。

何をしているんだろう?

よく見てみると、少女は川の向こうに広がる曇り空を、仰いで居た。何かを祈るように、両手を胸の前で組んでいる。和葉は、その少女の顔が見えた瞬間に、一目散に逃げ出した。

 

「和葉から、スマホで電話をかけてきてね、次の休みにこっちに来て欲しいって、言われてね。ドッペルゲンガーをみったて、和葉が騒いでたのよ。」

 柚子希は、その後和葉に言われて実家に戻ると、和葉に連れられて土手の方に行ってみることにした。

 和葉は、柚子希を案内すると、「ここで、もう一人の自分に会った。ドッペルゲンガーがいたんだよ!」と興奮したように捲し立てた。

 「智子が前に言ってたこと、本当だったかもしれないなぁ。」

  和葉は、まるで野生のカブトムシを見つけた時のように、はしゃいでいた。柚子希は頭の端の方で、もう一人の智子が、あの細い山道から現れた時のことがちらついて離れ無かった。だから、そんな訳がないと笑い飛ばすことは出来なった。

 「智子には?言ってみたら、何かわかるかもよ?」

柚子希が動揺を誤魔化すように智子の話題を出すと、和葉が途端に顔を曇らせた。

「あぁ、智子ね…。うぅん..。そうしたいんだけどさ、なんか智子って、昔の智子では無いんだよね。」

 和葉がそう言った時、柚子希はすこし後悔したが、柚子希が最近感じていた智子に対するモヤっとした違和感は、気のせいではなかったんだと思った。

「智子って、昔と全然違うんだよね。成長とかじゃなくて、別人みたい…。普通、変わったとしても、雰囲気とか性格ぐらいは多少残るでしょ?智子の過去が、まるっきり見えないんだよね…。もちろん、嫌いになったわけじゃないよ。でも…」

 和葉は一度言葉を切ると、言葉を探した。

「智子が、遠いところに行っちゃったみたい。」

 だもんで、そのことで話かけ辛いんだよんね、と言って和葉は溜め息をついた。

「あの時から何だよね…。智子がドッペルゲンガーのことを話した後、学校で倒れた時。あそこから智子は変わったんだ。別人みたいに。」

 和葉は寂しそうに土手の上から、流れる川を挟んだ、向こう岸を眺めていた。

 その出来事から二ヶ月後。和葉は、高校生活最後の思い出に、学校行事でキャンプへ行った。

 学校からバスに乗って、近くにある件の建物がある山のキャンプ場へ行くことになっていた。そこで二泊三日、山小屋で寝泊まりしながらキャンプを楽しみ、和葉は帰ってきた。

 異変が起こったのは、キャンプから帰ってきた後の春休みに入ってからだ。

厳密に言えば、和葉がキャンプから帰ってきたその日から、どことなく和葉の様子がおかしくて、母の優子が心配していたのを覚えている。

 ぼうっとしていて、霧がかかったような、儚げな姿だったと言うのだ。

 それから、春休みに入って和葉に異変が起き始めた。昔のように、情熱を持って漫画が描けなくなっていた。画力はあった。

 それどころか、昔の時よりも画力が上がり、まるで写真のような絵も描けるようになっていたが、和葉は、今まで描いていた絵とタッチが変わってしまったようで、考えていたストーリーも思い浮かべられなくなった。

 彼女は、漫画を描いては破り捨て、また描いては破り捨てていた。

 柚子希は、また学校へ行き始めたら変わるだろうと思っていた。名古屋の専門学校は、和葉が行きたがっていた学校で、漫画やアニメーションを学べる学校である。行き始めれば、また立ち直るだろう。

 だから、不穏な気配を感じつつも、その時は気のせいだと思い込もうとした。

 しかし、異変はどんどん進み、和葉は人が変わったように振る舞うようになった。朝は神経質のように毎日定刻に起き、部屋は別の人が使っているように綺麗に整理整頓され、専門学校の成績は、いつも平均以上の成績を取り、絵画の画力やタブレットで行う画像編集やアニメーションの技術などは、ほぼ完璧に近い点数を叩き出している。

 昔はもう少し隙の多い、漫画を描くことが唯一得意で好きなことで、笑っていることの方が多い子だった。

 だが和葉は、自分自身の変化に追いついていこうとして、神経をすり減らしていた。温和で社交的、いつもどこか抜けていた彼女が、過敏で神経質で、まるで定規を当てられたかのように完璧で、そのくせストレスで攻撃的になる性格を持て余していた。ストレスを外の逃すために、和葉は、よく自分の爪を噛んで、気持ちを落ち着かせるようになった。

 

ある日、柚子希は和葉の様子を見に実家へ帰省すると、和葉が柚子希を誘って近くの喫茶店へと出向いた。 

「ここじゃないと話せないの…。何だか誰かに見張られている気がして..。」

 和葉は甘いココアを一杯頼み、飲み物が出てくる間も熱っぽく爪を噛んだ。春休みの頃よりも、具合が悪いように見えた。顔が紙のように白くなっていて、眠れて無いのか、目の下に大きな隈が出来ていた。

 喫茶店の、ガラス戸から入る陽の光が、和葉のやつれた顔を照らした。柚子希は胸を痛めた。 

 ようやくウエイトレスがココアを出すと、和葉は覆い被さるようにして、ガブガブと飲み干した。異様な光景に、柚子希は不安に駆られた。


「ねぇ、誰に見張られてるっていうの?」

 柚子希が尋ねると、和葉は首を横に振った。

「分からない…。気のせいかも。でもね、ここのところ、誰かが私のことを操作しようとしている感じがするの。私の人生を操ろうとしているみたいな」

 和葉は、辺りを気にしながら小声で話した。

 柚子希は段々と恐ろしくなってきた。和葉が幻覚を見るようになったのかと思ったのだ。

「和葉、それって考えすぎじゃ無いかなぁ。気持ちが追い詰められて、疲れていっるんだよ。ここんところ、アンタとっても変だし…。」

 お母さんもお父さんも心配してたよ、と言いかけて、和葉の「違うっ!」という大きな声に遮られた。

 店内を響き渡るような甲高い声に、店内が一瞬静まり返った。柚子希が慌てて頭を下げると、また話し声が戻ってきた。

 「幻覚なんかじゃない…。確かに私は変わった。自分が自分じゃ無いみたい。別人になったみたいで、心がついいけないの…。」

 和葉は、自分を落ち着かせるように深く呼吸にした。そして、話し出した。

「一週間前、医者みたいな人が専門学校に訪ねてきたって、話したよね。白衣着た人達で、三人連れ。その人達ね、うちの学校の先生に、健康診断で悪いところが見つかったので念のために検査したいって言い出して…。」


 和葉が、三人の医師に白いボックス車に乗せられて向かった先は、「私立聖エデンの園総合病院」。

 そういえば、智子が運ばれた病院もここだったと、和葉は思い出した。

 その時のことを思い返せば、少々気味が悪かったように思えた。人気のない、少し奥まったところの検査室で検査を受け、その後待っている間も、治療ベッドが中央に置かれ、処置する医療道具が置かれた台とコンピューターしか置かれてない殺風景な部屋だった。窓は小さな小窓が上の方にあり、ポプラの葉が窓から覗いていた。

 ドアの外から、何か声が聞こえてきた気がして、和葉は診療台を降りるとドアをそっと開けて様子を見ようとした。

「私を連れてきた人が二人。顔を突き合わせてね、身体能力がどうのとか、運動能力の成績も上がったとか。でも、精神がかなり不安定な状態で、脳機能がどうのこうのって、不穏な感じになって…。」

 

 和葉の話では、学校の健康診断では受けなかった、アイ・キューテストや特殊な心理検査も受けたので、不安になったのだという。

 和葉は戻ってきた医師に、何か異常が見つかったのかと聞くと、医師は安心させるように微笑み、丁寧に説明してくれた。

「いえね、和葉さん。身体の方や臓器機能などには、何も問題はないのでね、ご安心ください。ただね、和葉さん。」

 医師は一度言葉を切った。

 「検査の結果ね、和葉さんの体質に心のバランスを崩しやすい、先天的な疾患が見つかりましてね。何、心配ありません。今回処方される薬を飲めば、だいぶ楽になると思いますよ。」


 その後、医師はやってきた和葉の両親に説明した。そのことは、柚子希も両親から話を聞いていたので、驚くようなことでは無かった。医師は精神安定剤や抗不安薬を処方し、漢方薬と一緒に飲むと良いと説明してくれて、和葉達を返した。

「その後ね、二日後ぐらいに専門学校へまた人が訪ねてきたの。例の医者と、スーツを着た男がやってきた。名前は夏木と名乗ってた。」


 夏木は、どうも精神科医らしいのだが、和葉のアイ・キューテストが素晴らしい結果であったので、夏木が運営している大学に推薦で入学してほしいと、和葉に話した。


 「それでね、夏木が、大学の研究所でアイ・キューとか脳科学の研究を行っているみたいで、どこか君が興味のある学部に優先的に入学させてあげる代わりに、ウチの研究を手伝わないかと言ってきたの。」

 

「つまり被験者にならないかって事?」

「そう。」

 柚子希は、ゾッと背筋が凍った。得体の知れない何かが、妹を喰い尽くそうとして、ぽっかりと大きな口を開けて襲い掛かろうとしているような気持ちがする。

「まさかだけど、オーケイして無いわよね?」

「もちろん。やっぱり、漫画をそう簡単には捨てられないし、第一薄気味悪くて…。」

 

 和葉は、入学する事はできないと断った。もちろん被験者になる事も断った。そこで、その話は終ったかに思えた。だが、断ったその日から、誰かに付け狙われているような、そんな気がしてならなかった。

 

「実はね、キャンプから帰ってきた次の日から、ほんの些細な事だったんだけど、ふと道路を見るとね、黒い車が停まっていて、いつも同じ車だった。気にしないようにしていたんだけど、今は道ゆく道にの角とか柱とかに誰か人が立っている気配がする..。見張ってるんだよ..。」


 時計は午後四時を指していた。もう二時間近く話し込んでいた。黒い雲で覆われていた空は、いつの間にか激しい雨が降り出して、ガラス戸に叩きつける様にして降り注ぎ、雨の雫が伝って流れた。

 

「智子もこうだったかもしれない…。」

「へ?」


「今の私って、自分の記憶もあるし、喪失したわけでも無いけど、昔の自分みたいになれない..。まるで身体と記憶を残して入れ替わったみたい。」


 柚子希は、あの三つ編みの智子を思い浮かべた。あの屋敷から出てきて、山の上のカフェに姿を現したもう一人の智子。そして、土手の上に立っていたもう一人の和葉。彼女達は何のために二人の前に姿を現したのか?彼女は、生きているのだろうか?


「私、あのキャンプでね、途中記憶が一部抜けているところがあるの…。」

 和葉は思い詰めた顔で、窓を見つめた。

「その時、あの土手で立っていたもう一人の自分に、私が変身しちゃったみたいでさ。」

 

 和葉は日を追うごとに、今まで親しかった人達が他人のように思えて辛い、と明かした。産んでくれた両親も、柚子希のことでさえも、薄い壁に隔てられている気持ちがする。

 何をしても、何をやったとしても、絶対壊れないと感じる無償の愛が、崩れ落ちていく感じだ、と和葉は生前話していた。

 

 和葉が亡くなる、一ヶ月前の出来事である。

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