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「ヤス、久しぶり」
自宅の敷地内へ跨ごうとした時に声をかけられた。声の主は同い年くらいの男性……。
この瞬間、僕の時間は十年ほど巻き戻った。
「翔、くん?」
が、そう呼ぶにはもう違和感がある外見であった。彼は中学生の頃よりさらに背が伸びて体格もしっかりしている、そんな可愛い呼び名は似つかわしくないくらいの青年になっていた。
でもそれはしょうがない。僕達二人の時間はあの時から止まったままのだから。
僕は翔くんの家に招かれた。
「翔くんか。なんか久しぶりの響きでくすぐったい気持ちになるな。けど、懐かしい響きだ」
最後に聞いた声と比べてだいぶ低い声になっていた。詩的に言葉を吐くさまはもはや別人のようだった。
「これからは何て呼べばいいかな?」
「いや。翔くんのままでいい。なんせこれから話したいことはあの時まで時間を遡らないといけないんだから」
あの時。やっぱりそうか。声をかけられた時からそんな予感はしていた。今更、何を話したいと言うのだろうか?
「母さんから話は聞いていたけどあの後も大変だったんだね。けど、もう引きずることはなくなったんでしょ?」
「うん。そうとも言えるし、厳密には違うかもしれない。早速だけどヤスに聞きたいことがある。あのおばあさんの顔は覚えているか? ヤスにとっても嫌な記憶を思い出させて申し訳ないが」
「ううん。全然、覚えていない。思い出そうとしても認識できない何かなのか、まるで浮かび上がってこないんだ。声をかけてきた時は感じの良い人だなって思ったのに」
「俺も似たような感じだ。でも俺は逃げる直前にも顔を見て化け物みたいな顔だったってことは感覚として覚えている。あれを夢とか幻ではとても片付けられないくらい体があの恐怖を覚えていて、未だに何かあるんじゃないかって思ってしまう。それをこうして真剣に話し合えるのはヤス一人だけだ。だからこうしてまた声をかけたんだ。」
もう十年も会話していない仲ではない強い繋がりを僕達は持っていた。それにはなんだか妙に嬉しかった。たとえ長い年月、離れていても一つの体験を共有していたことによって関係は維持されていたんだ。
「ヤス率直に言う。あのおばあさんはもしかしたら人間ではなく幽霊みたいな存在なんじゃないか?」
幽霊。実は僕もその線は頭を過ったことがある。でもたいていはそんなものが本当に存在するはずがないで終わること。
「うん、信じたくないけど僕もまさかとは思ったことがある。でも、なんでこのタイミングでそういうことを話し合おうと思ったの? もう別に忘れようって思うこともできたのに」
「……単純に興味があるからかな? 人間が空を見上げて宇宙に想いを馳せるように、もしもそれ以外にも知らない世界があるなら知りたいと思わないか?」
「なんでそんな幽霊の世界に興味があるの? 怖い世界に決まっているのに」
「怖い……未知なものに最初は恐怖を抱くのはむしろ普通じゃないか? よく目を凝らして見てみればとても興味深いものだったってことはよくあることだ」
翔くんは何を言っているのだろう。僕はものすごく嫌な予感が渦巻いた。
「興味深いって。僕はとてもそうとは思えないけどな」
「どっちが怖いと思う?」
いきなり脈絡のない質問をぶつけてきた。
「どっちがって、何と比較していいのか分からないけど」
と言いつつ察しはついていた。
「俺達の住む現実世界と、あのおばあさんが連れて行こうとした世界だよ」
そんなの決まっているだろうって言わんばかりに語気を強めて言い放った。
「そんなのっ、聞くまでもないんじゃ……」
「そうかな。俺は案外どっちも大差がないんじゃないのかなって思ってる。こっちの世界もなかなか恐ろしい事件や争いで溢れているじゃないか」
僕は言葉が詰まる。一体どうしちゃったんだ翔くんは。何が彼をここまで変えたのか。
「だからあっちの世界に興味を持ったってこと?」
「選択肢が一つじゃないならもう一方にも興味を抱くのは当然のことだ。その選択肢の存在を知っている数少ない者としてここは確かめてみたいってそんなおかしなことではないと思うけどな」
「待って。もうそのもう一つの世界とやらが存在するのは確定しているみたいな言い方だけど、まだ決まったわけじゃない。どうやってそれを探す気でいるの?」
「その通り。まだ決まったわけじゃない。が、それを探す旅もそれはそれで楽しいことになりそうじゃないか。そんな探検ほどワクワクするものはない」
まさか十年の時を経てあれほど避けていた記憶に自ら飛び込んで行こうとする日が来るとは思わなかった。翔くんを突き動かすものは何なのか。
「翔くん。君は何を見たって言うの?」
「恐ろしいものだったよ。ちょっと待ってて」
翔くんはソファから立ち上がりリビングを出る。二階に上がり自室へ向かったそうだ。
「このノートにあの日の記憶が可能な限り記されてある」
ノートを机に投げつけてバンっと音が鳴り響く。読んでいいの? と視線で確認すると頷く翔くん。僕はノートを開く。
「これは俺が中学生の時に書いた文章。外に出るのが急に怖くなった理由から書かれている」
一ページ目から目を通すとなぜ中学校に進学してから不登校になったのか、そこから始まった苦悩の日々が書き記されていた。
おばあさんに連れ去られそうになった時に見た景色も書かれていた。辺りは橙色……そういえば僕の頭に浮かんだ二人が歩いていく姿も周りはそんな色だったかもしれない。
おばあさんはモノクロ、赤い帽子を被っていた、首が長い、顔には腫れ物みたいなのが目と口の位置にくっついていた……この文だけでもいかに異様な姿なのか伝わってくる。こんなものは絵でも見たくない。
「あの空き家はおばあさんの住んでいた家だったのかな?」
「それはまだ分からない。そういうのも含めてこれから調べようってことなんじゃないか。もしもその予想が当たっていたら俺は決してあのおばあさんから逃げられたとは言えないと思うんだ」
「でもここまで特に何も起こらなかった」
「そう。もしかしたら誘っているのかもしれない。向こうから来なくてもその内こっちからやって来ることを見越して……」
「だったら、それは明かに罠じゃないか!」
「そんなのは承知の上だよ。それでも俺はその連れて行こうとしている世界に興味があるってことなんだよ」
「どうしてそこまで」
「悲しいことにそれだけこっちの世界に絶望しているってこと。煩わしい人間関係、駅のホームから飛び降りる人を目撃する日常生活、それに腹を立てる人々。いい歳した大人が学生を学業があることを無視してぞんざいに扱う社会。全くどっちが子供なのか分からないよ。ヤスだってそんな世界に疲れて逃げ出したいって思うことは一度くらいあるだろう」
「それはあるけど」
こんな考えは間違っている。僕は止めないといけない。いや、本人が満足いくまで調べさせておいて諦めさせるのも手か? 幽霊なのか分からないけどもう一つの世界があるって真面目に考えている時点で馬鹿げている! どうせそんな世界はありはしない。
「……あっ」
僕は今、重要なことを思い出した。
「どうした?」
肩を叩かれた。僕は振り向く。
「お兄さん、眼鏡をかけたお兄さん」
なんてことだ、あのお兄さんの顔は何となくでも覚えているぞ。どうしても開けることのできなかった鍵のかかった扉が解除されたように鮮やかに浮かんできた。
『君は行くな』
そうだ、確かそんな言葉をかけられた!
『君は助かる、それだけを信じろ、いいね』
あぁ、そうか。この一連の言葉で僕はあのおばあさんは幽霊なのかもって直感的に思ったんだ。そしてきっと……。
「僕は助けられたんだ! 眼鏡をかけたお兄さんに!」
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