扇動者(3)

 未来予知なんてしなくても飲み過ぎた次の日、仕事に遅刻するのは定めだ。

 目が覚めた途端にこれはまずいと飛び起きた。四足歩行で床に置いてあるスマホを取り支店長に電話する。

「おはようございます。あの、すみません。寝坊しました。遅刻します」鼻声なのはなぜだろう。

「あぁ〜そう。じゃあちょうど良かった。遅刻にならない方法教えてあげる。こっちに来ないでそのまま先日タブレット渡した店舗に行って。なんか早くもタブレットがマニュアルに書いてある対処しても動かなくて故障したとかうるさいから、点検に行ってくれないかな」

 生き返った気分だ。平時では気が進まないことでも遅刻にならないとサインが付くだけで喜んで引き受けられる。お礼を言い電話を切った。

 朝の通勤ラッシュもピークを過ぎたみたいで殺気立った空気はなく穏やかだ。あの店舗で働くならこの時間に電車乗っても九時に着くのか。

 悪くないかもな、と思った矢先、現場勤務の苦労が蘇った。

 入社一年目は現場勤務を経験するのがこの会社のお決まり。

 自宅から一時間以内に着ける勤務地の中からランダムで選ばれた店舗へ赴くと、俺は運が悪くこちらの提案することに必ず文句をつける、口だけは達者のパートのおばさんが長年、働いている店に当たってしまった。歴は長いから知識はあるのがまた厄介で、その口数に対して行動回数が伴っていなかった。

 もうあんな人と働くのはごめんだ。

 大学を卒業して就職した社員と、老若男女が混在するアルバイトが共に働くと意識の違いから、一番責任ある立場の人間が孤独を強いられ、胃を痛くする。

 通勤時間は長くても意識が同じ人くらいのと働くのがまだマシだと痛感した一年だったな。

「あっ、また安原君が来てくれたんだ。ごめん。タブレットなんとか自力で直せたよ」

 事務所に入って開口一番がこれだ。

 そうなんだよ。水に浸かったりビルの屋上から落としでもしなければ、常識の範囲内で使用していればどこのボタンをタップしたって、イライラして勢い余って握りこぶしで叩き割らなければそう簡単に壊れるはずがないんだよな。

 俺はこの件は勘違いだとはなから見立てていた。

「原因はなんだったんですか?」

「えっーと、俺が電話で聞いた時はネットに繋がらなくてアプリが使えないって話だったんだけど、誰かが勝手に機内モードにしてただけみたいだね。ネットなんて大元が障害起こさない限りWi-Fi切ってもモバイル通信になって、いつでも自動で繋がっているもんだとばかり思ってたからさぁ、まさかそんな理由だとは予想もできなかったわけでございますよ」

 電話したのはデジタル機器に疎いおばさんだったのか。機内モードにしたのは学生がイタズラでやったのかもしれない。

 これだから現場勤務は大変なんでありますよ。「とりあえず問題なくてよかったです」

 遅刻が免れたわけだからこれで済むなら運が良いと不機嫌になることはなかった。要件が終わるとまたマネージャーが無用の気遣いで、雑談を始めた。

「そういえば先日、困ったアルバイトがいるって話したじゃん? その人さぁ、なんと今月でやめることになったんだよね」

「そうなんですか。またどうして?」

「先月からなかなか学歴が優秀な学生さんを雇ったんだけど、その人が自分が受け入れられないことがあったらズバッと指摘して、口論も上等みたいな性格の人でさ。その問題あるアルバイトの働く態度を見たら到底、承服できないってすぐに文句言って、みんながずっと我慢していたことを一挙に全部マシンガンみたいに撃って撃って、打ちのめしてくれたんだよね。それで精神的ショックで再起不能さよなら。もう来れないって電話してきたのも本人じゃなくておばあちゃんみたいな声の人で、祖母にあたる人だったのかな? それがまた笑っちゃって……」

 両親ですらなく祖母というのも背景が複雑なんだろうが、マネージャーが嬉しそうに話すのもまた複雑だ。

「おかげでうちの職場に遂に平和が訪れたわけで、あの子がこのまま何年間か働いてくれるならいずれ時給上げて副リーダーくらいならするのもいいかな〜やっぱり頭が良い人は仕事もできるって一概には言えなくても、的外れでもないって実感したね」

 斉藤の職場に続き、ここでも空気をピリピリさせている人物が居なくなってせいせいしていた。

 そこで働いている人からしてみれば地獄から天国に変わったってことなんだろうが、斉藤の言葉を借りるならその弾かれた人はどこへ行けばいい?

 端へ端へスライドさせられて、いつまでもレールは続いているはずもなくやがて途切れ、奈落へ蹴落とされる。

 底はどんな場所だ? 刑務所の方が快適なんじゃないか。

 と、俯いていたところ前を向くと白く、眩しかった。

 鋭利な大鎌を携えた死神のシルエットが黒、薄い緑に点滅しながら迫ってきた。

 そして俺の額めがけて鎌を振り下ろす。

 血の飛沫が噴き出す。

「あっいて!」

「あっごめんなさい!」事務所から出ようと出入り口の前まで来たら入ってくる人とタイミングが重なってしまいドアが額を直撃した。

 それでも俺はそのドアを開けた人を凝視した。お前は変装している刺客かと。

 幸い怪我というほどのものではなかったが痛みはしばらくおさまらなかった。昨日といい俺は監視されて、あわよくば抹消させようとしている輩がいる感触が拭えない。

 妄想なんだろうけど、なぜここまで被害妄想が激しくなったのか。

 にしてもあの死神は……はっきりと認識できたぞ。

 偶然の産物にしてはよく洗練されていた。水面下でよからぬ事態に見舞われている、漠然とだがそれだけは確かだと言い聞かせた。


 

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