扇動者(2)

 俺にしては珍しくはめを外して飲みすぎてしまった。宅飲みだったがさすが金持ちの家。酒は無尽蔵に貯蔵してあった。お高いワイン、日本酒もあったし。

 あのまま倒れて眠りにつくのもよかったが帰宅することを選んだ。

 電車はもうない。歩きだ。橘は行儀よく電車で帰れる時間にいなくなった。全然酔っていなかったな。酒は強いらしい。ちなみに工藤君も。ジュースでも飲んでいるかのようにいつまでもペースは衰えなかった。熊谷さんは弱い。ビール一杯で顔が赤くなる。

 徒歩約五十分。

 道案内でそう表記されていたらはぁ〜とため息もしたくなる。なのになぜ千鳥足の俺は今日に限ってその道を選んだのか。酔って判断が鈍っていたか。

 それでもあそこから抜け出して解放感はあった。

 なんの?

 それは重力、何かの圧から。いつからかあの部屋は他の部屋と重力が異なるのではないかと疑うくらい何かに包まれていた。

 大音量の音楽が鳴り止んだ瞬間も音圧はパッと消えるも、まだ別の、その何かの圧がしばらく残っていた。

 波動、それに近いものが放たれていたような。

 それはもしかしたら橘から放たれていたのではなかろうか。

 その余韻がずっとあの部屋の中に漂っていた。

 それに感化されて俺も気が昂っていつもより飲んでしまったのか。おかげで酒に呑まれてしまったのだが。そこは情けない。

 体は軽くなったが今度は頭は重い。無事に帰れることを願ってやまない。

 冷たい風……これは

 もう一つのやまない風の音は幻聴。

 静寂になりこの音が際立つ。なんだっていうんだこの風は。

 うん? そこに異音が挟まれた気がした。

 足音……後ろを振り返る。誰もいない。

 俺は命を狙われているのか?

 そこまではいかなくても誰かにつけられている?

 真相は闇の中。それが判明することはないだろう。

 電柱を背にしゃがむ。

 またあの女がやって来て拉致されたり、殺されてもそれがなんだと度胸があった。これも酒の力か。スマホを取り出す。橘が歌った曲がずっと頭の中で再生されていた。

 検索してみよう。なんとかディフェンスの時の河だったかな。曲名さえ特定していればすぐヒットする。

 古谷さんからLINEでメッセージがきていた。

 渋谷からの帰り、地元の駅に着いて改札を通った時に古谷さんは俺を見かけたようだ。

 なんだか尋常じゃないほど思い詰めた様子だったから心配して連絡してきたみたいなメッセージが、そこには綴られているとみて取れる。

 古谷さんも小野さんと同じ力を持っている。

 きっと外見だけではなく、深く沈んでいた負の感情を読み取ったのだろう。どこまで覗かれちゃったんだろう。

 これも酒のせいか。涙が頬を伝う。

 異性から、いや同性からも向こうからしたらこんな些細なことでもここまで気にかけてくれたことなんてなかった。

 彼女だけは幸せになってほしい、俺にできることなら協力したい、守りたい。ずーっとそれはこの胸にある。

 そうか。橘もこんな気持ちだったのか。古谷さんに身の危険が生じたら俺は体を張るだろう。あんな素敵な女性を傷つける輩がいること自体が信じられないがそんな奴がいたとして、やも得ないのであれば俺は……。

 まだ漠然としているが未来は決して明るいものではない。治安がより悪化して物騒になってくるとみた。

 そんな世の中になっても彼女だけは守っていこう。俺は犠牲になったとしても。

 決意を新たに重い腰を上げた。

 前方、道のど真ん中に白い猫が佇んでいる。

 足を一歩前に出しても動じない。人には慣れていそうだな。そのまま近づいても逃げることはしなかった。

 そっと手を広げ猫の頭に乗せる。

 ……視線が低い。居間で人が倒れている。その周りをうろちょろしているのがこの猫か。倒れているのは飼い主か。白髪が多い、高齢の女性のようだ。

 生きろよ。

 リュックからグミを取り出した。こんなもの与えていいのか分からないがこれからのことを思うと険しい未来が待っているかもしれない。激励の意味も込めて何かをしてあげたくなった。

 にゃーとゆっくり口を大きく広げた。

 その想い受け取った! そう都合良く解釈した。

 まだ猫は同じ場所に居る。その後ろ姿にたくましさを見た。


『なにか困ったことがあったら遠慮なく私に相談してくださいね』


 まだ未読だったメッセージを開くと最後の文を目にしてまたグラっと感動が押し寄せた。

 猫の力ではできないことでも人間であれば助けてあげることもできる。

 俺は傍観者にはならないと決めた。

 助けられるものなら、助けたい。

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