バタフライエフェクト(8)

 いよいよ工藤君のお出ましだ。俺は姿勢を正座に直して待ち構える。熊谷さんが玄関へ向かう。ガチャンとドアが開く音。

「あぁ〜疲れた〜」

 ややわがままな性格のような子供の声がリビングまで届いた。そのままバタンと平伏したんじゃないだろうか。この声の主は工藤君でしかないのだが、そういえば熊谷さんも含め現在歳はいくつなのか? しかめっ面になる。

「階段で来たんだから当たり前でしょう。なんでそんな無理するの」

「だって一馬が体少しでも鍛えろっていうから」「いきなりそんなきついことしなくてもいいでしょ」

 かずま……橘を下の名で呼ぶ仲か。こんな会話が二人の日常なんだろうけど、やかましいな。ドタドタと足音が迫る。

「あっ、手洗わないと」音が止まり方向転換した。洗面所へ行ったのか。そう言えば俺は手を洗っていなかった。

「お客さん来ているから」

「えっ! 誰だれ?」

「あとで話す。もうすぐ来ます」そう俺に告げた。「なんか元気な子ですね」高めの声、無邪気さが滲みでる声色。声だけ聴くと子供、キッズそのものだと印象を述べる。苦笑いしながら頭を軽く下げる熊谷さん。「お疲れのところ申し訳ないですけど、会話するだけで難儀だと先に警告しておきます」

 警告……うん、なんとなく予感はしている。

「初めまして、どちらさまですか?」勢いよくドアが揺れた。黒のポロシャツに白い長袖のシャツを重ね着しているのだろう。下は茶色のカーゴパンツでシャツをズボンにインしている。

 ファッションセンスはともかく俺は身体の線が細く、よくごぼうみたいだとからかわれた。なら工藤君はもやしだろうか。背は俺よりずっと低いが、色白い肌。眼鏡をかけている所まで俺と共通点があり、劣化版を提示された感も否めない……。

「どうも、お邪魔しています。安原駿輔と申します」

「僕の名前は工藤新一くどうしんいち。よろしくね」

 探偵さ、と続くのかと期待したがそこは控えるのかと裏切られた気分に勝手になる。キラキラネームもそうだが、たまたま苗字が同じだからって下まで人気漫画キャラクターと同じ名前を付ける、親はもっと熟考した方がいい。それだけで周囲からいじられる対象になる。

「安原さん、あの蝶が見えるの。だから連れてきた」

「えぇ〜あの蝶が見えるの? ほい。どう、見える」手のひらからマジックでも披露するかのように出現させた。もうかなり使い慣れているぞ、これは。

「見えます。黒い、羽が青白く、てかっているが、蝶が」

「ガチョウ?」

「忘れてください。それに触れたらどうなるのですか?」俺はあの蝶を掴んでいる。底知れぬ恐怖が腹に鎮座しているとここで自覚した。

「う〜ん、よくわからないけど、こっちが念じればその通りになるって今日、発見したんだ」

「念じる……それであの男に制裁を下した」

「そうそう。あのおっさん一馬を職場で理不尽にいじめるからそれが許せなくて。あのくらいの罰はとーぜんでしょ」

 あっけらかんとしている。あの行為になんのためらいもないようだ。子供が大人に悪戯するようにこのまま際限なくこんな使い方されたら世の中の秩序が乱れる。

「その橘さんに何か助言をもらったから、そんな使い方ができるって試したのですか?」

「助言? 助言というか一馬にこの蝶は願いを叶えてくれる蝶なんだよって教えたら、じゃあ俺の願いも叶えてくれって頼まれて。そういえばこの蝶を人間、生物、物とかなんでも関係なくヒットさせたら祈らなくても遅かれ早かれ何かが起こるってことは薄々、掴んでいたかな。あっ、一馬の発想が実にシンプルでその場で起きてもおかしくない事をお祈りすれば直ぐに効果が表れるんじゃね? って提案してきてやってみたら本当にそうなったっていう、ひっひっひ。あれはウケたね」

 さっきは念じる、今度はお祈り、言い方にバラつきがあるのは気になったが絵に描いた魔法のような能力だったってことか。まさに動機もあまりにも単純だ。恐ろしい。

 こうも簡単で意図的に何かを起こさせることができるなら、もうバタフライエフェクトなんて不確実性要素のある力じゃない。人間、誰しもが夢見る呪いの類いに他ならない。

「本日、その電車の中に居て蝶に触ってしまったのですが、僕にも何か起きるってことですか?」

「そうだね。でもいつ起こるんだろう。それは明日かもしれないし、十年後かもしれない。そこは神のみぞ知るって感じ」

 そこにランダム性があるだけならまだ良かったが……。

「けど、工藤君が念じるなりお折のりすれば今すぐにでも……」

「そうなるね。でも、う〜ん、僕が安原さんをこうやって見ても今日、初めて会ったばかりで特に何も思うところはないから、どうこうしようって気にはならない。大丈夫だと思うよ」

 上半身を屈めて近づきまじまじと見つめる工藤君。なんて純粋な興味を示しているつぶらな瞳なんだ。

 願わくばこのままの瞳でいてもらいたいものだ。絶対にこの子の逆鱗にはふれないで生きなければならない。

 工藤君の背後からあの蝶が羽ばたいた。部屋の中を飛び回る。あの蝶もやがてどこかに止まり、静かにその何かが起こるのを待っているというのか。

 いつ爆発するのかが不明な爆弾でもある。

「橘さんと一緒だったんでしょ。帰ったの?」

「うん。明日が楽しみだからってうきうきしていた」

 あの人が明日どんな顔で出社してくるのか楽しみってことか。最悪、心労で休みなんてこともあり得る。嫌な上司だったのかもしれないが、一人の人間の人生をめちゃくちゃにしていることをもっと重くみた方がいい。

 と、思ったところで俺がわざわざ止めるだけの強い動機もないんだけど。

「安原さんね、その不思議な能力の一端を知っている人なの。工藤君がいつか言ってたようにそんな能力を持っている人は一人じゃない、それを証言してくれる人」

 全力でこっちに首を振ってきた。眼の色が変わった。知的な、なにやら企みを含んでいる眼差し。

「あなたもそうなんですか?」目線を同じにしてささっと寄って来る。俺はこれまで体験したこと、出会いを話そうと決めたがその前に、

「手洗ってきますね」「えらい!」

 リビングを出てやつれた面持ちを隠すのをやめた。ふぅと息を吐く。なんて活力がある子だ。対面しているだけで体力を消費する。

 このまま逃走したい衝動をグッとこらえた。いつもより丁寧に手を洗おう。

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