Phase 07 邪神の胎動

 翌日。僕はいつもどおりスクエアファイナンスに出勤しようとしていた。しかし、なんだか厭な予感がする。こういう時の僕の厭な予感というのは、大体的中するのだ。

 事務所の中に入ろうとすると、大泉警部が入口の前にいた。どういうことなんだ。

「大泉警部、一体どういうことだ」

「古谷君、とりあえず落ち着きなさい。これから君に話す事は、とても重要だ」

「勿体ぶらずに早く教えてくれ」

「単刀直入に説明する。スクエアファイナンスに身元不明の手紙が届いた。どうやら、ここを襲撃するつもりらしい。万が一古谷君が巻き込まれたら組織犯罪対策課としても困るので、敢えてここまで来た」

「もしかして、それってチャイニーズマフィアの仕業か」

「残念ながら、それは分からない。しかし、脅迫文に書いてあった日本語がたどたどしいところから察する通り、恐らくスクエアファイナンスを襲撃しようとしているのは日本人ではないだろう」

 その話を受けて、僕は香港で四隅行雄が預かっていた現金が盗まれたこと、円愛梨が何者かに殺害されたことを説明した。

「なるほど。古谷君がスクエアファイナンスに潜入してからトラブル続きなのか。仮に一連の事件の犯人がチャイニーズマフィアだとしたら、山谷組との抗争は避けられない。神戸でアウトロー同士の抗争が勃発したら、ただでは済まされない」

「それは分かっている。だけど、正直言って僕はどうすればいいのか分からない。手詰まりだ」

「そんな君に、私の先輩からの言葉を古谷君に送ろう」

「先輩?」

「兵庫県警の組織犯罪対策課がまだ捜査四課だった時に、先輩が言っていた言葉だ。『為せば成る』という言葉は知っているか」

「もちろんだ」

「なら、話は早い。とにかく、『為せば成る』の精神で頑張ってほしい」

「ありがとう。少し気が楽になった」

 大泉警部とそんな話をしている時だった。無機質な音が鳴り響いていることに気づいた。こういう場合、たいていは時限爆弾であって、放っておくと爆発してしまう。僕は、音がする方へと向かった。音はどうやら消火栓の中から聞こえるようだ。僕は、消火栓の扉を開けた。

「こ、これは……」

 矢張り、僕の厭な予感は的中してしまった。消火栓のホースの下に、時限爆弾が設置されていた。タイマーは、残り15分。僕の手に負えるものでは無かったので、大泉警部に爆弾の件を伝えて爆弾処理班を呼ぶことにした。


「爆弾か……。まあ、今回は爆弾処理班に処理してもらうことにしたから良かったけど、山谷組がチャイニーズマフィアに狙われているのは事実だな。古谷君、チャイニーズマフィアと対決する覚悟は出来ているのか」

「もちろん、覚悟は出来ている。香港で1000万円が盗まれたこと。円愛梨が毒殺されたこと。そしてスクエアファイナンスに仕掛けられた爆弾。これらは全てチャイニーズマフィアによる山谷組への挑発で間違いない。最悪の場合、抗争の火蓋ひぶたが切って落とされることも視野に入れている」

「それで、抗争は防げるのか?」

「分からない。最悪のシナリオも想定済みだ」

「まあ、その時は古谷君を組織犯罪対策課の刑事として復帰させて、抗争を止めるつもりだ」

「正気か? 僕は兵庫県警を追放されている。今更復帰なんて望んでいない」

「それはどうかな?」

 大泉警部は、一体何を考えているんだ。兵庫県警から追放された僕をわざわざ復帰させるなんて、正気の沙汰ではない。

「まあ、私は本部に戻るよ。古谷君は引き続きスクエアファイナンスへの潜入捜査を頼む」

「了解した」


 爆弾騒ぎこそあったが、その日の業務は通常通り行われた。しかし、胸に引っかかるモノを覚えていたのは確かだ。

「古谷さん、元気ないですね。矢っ張り爆弾騒ぎが心配なんですか?」

「ああ、櫻木さんか。爆弾騒ぎはそんなに心配していないが、別のことが心配だ」

「別のこと?」

「いや、何でもない」

 いくら同僚だとしても、櫻木恵美子に香港の件を話すわけにはいかない。僕は、話を反らした。

「ところで、昨日は突然呼び出してすまなかったな」

「いいえ、大丈夫ですよ。ローストビーフ丼、美味しかったです」

「ありがとう。また、奢ってやるからな」

 とりあえず、話を反らした僕は送金処理を行った。それにしても、刑事がヤミ金で送金業務を行うとは滑稽こっけいな話だ。仮に組織犯罪対策課に戻れたとしても、僕にされた烙印らくいんは消えないだろう。その烙印を背負う覚悟は出来ている。

 やがて、業務終了時刻になった。午後5時である。それから直ぐに、僕は長友雅人の元へと向かった。今朝の爆弾騒ぎを伝えるためだ。

「古谷さん、急にどうしたんですか?」

「スクエアファイナンスのビルがある消火栓に、爆弾が仕掛けられていた」

「爆弾ですか。爆弾魔は分かるんですか?」

「僕の見立てで申し訳ないが、恐らく例のチャイニーズマフィアだろう」

「なるほど。仮に山谷組とチャイニーズマフィアが神戸で抗争をおっ始めたら、大変なことになりますね」

「確かに、大変なことになるな。一般市民が巻き込まれる可能性も高い」

「古谷さんなら、神戸で山谷組が分裂して抗争が起こったという話は知っていますよね」

「もちろんだ。その抗争は、一般市民も犠牲になっていると聞いた。確か、15年前に発生した北九州を拠点とするヤクザである近藤會こんどうかいによる抗争の犠牲者よりも多いらしいな」

「その通りです。流石ですね」

「これぐらい、組織犯罪対策課の常識だ」

「それで、本当にチャイニーズマフィアに立ち向かうんですか?」

「そのつもりだ」

 正直、雅人に全てを話している時の僕は不安だった。けれども、弱音を吐いている訳にはいかない。僕が組織犯罪対策課の刑事として四隅行雄を逮捕するには、チャイニーズマフィアとの対立は避けて通れない道である。そして、僕は雅人に聞いた。

「雅人、この作戦の成功率はどれぐらいだ」

「そりゃ、限りなく0パーセントに近いです。でも、古谷さんは0パーセントを100パーセントの可能性に引き上げられるって大泉さんから聞きました。だから、古谷さんなら大丈夫ですよ」

「そうか」

 雅人からの言葉を聞いて、僕は少し自信を取り戻した。この先どんな困難が待ち受けているか知らないけれども、少なくとも絶望的な現状よりはマシと思いたかった。


 それから、夜のサンキタ通りを歩いてみた。昔のサンキタ通りは「吹き溜まりの場所」と言われていたが、阪急による再開発のおかげもあって街にはおしゃれな店が立ち並ぶようになった。その中に、見覚えのある華奢な女性の後ろ姿が見えた。僕はその女性に声をかけた。

「仁美か」

「あっ、善太郎さん。こんなところで何してるんですか?」

「僕を下の名前で呼ぶな。それはともかく、大変なことになった」

「聞いています。あの毒殺事件は日本人の犯行じゃないそうですね」

「そうだ。大泉警部はチャイニーズマフィアの犯行であると見ている」

「半グレ集団よりも厄介なことになっちゃいましたね」

「そうだな。僕が係る事件の大半は半グレ集団絡みの事件が多かったが、チャイニーズマフィアを敵に回すのは恐らく初めてだ」

「善太郎さんなら大丈夫ですよ」

「そのセリフ、さっきも聞いたな」

「誰からですか?」

「長友雅人という情報屋だ。大泉警部の古い友人らしくて、神戸の裏社会に精通している。見かけによらず、いい人だ」

「私にも会わせて欲しいな」

「ダメだ」

「えーっ、ケチ」

「これは組織犯罪対策課の守秘義務だ」

「なら、仕方ないですね……」

 そんな話をしている時だった。消防車のサイレンの音が突如鳴り響いた。

「火事ですか? この時期は乾燥しますからね」

「いや、これはただの火事じゃない。なんだか、腐った卵の臭いがする」

「腐った卵って……もしかして硫化水素ガスですか!?」

「その通りだ。仁美、口を塞げ」

「分かりました……」

 煙は東門街の雑居ビルから出ていた。その雑居ビルは、山谷組がシノギとして経営している風俗店で構成されていた。僕は、消防団員に話しかけた。

「このビルの関係者だ。中はどうなっている」

「なんというか……酷いです」

「そうか。分かった」

 ビルは丸焦げになっていた。恐らく中にいた人は跡形もなく焼死しているだろう。それが何を指すかは、言うまでもなかった。

「善太郎さん、これってどういうことですか?」

「ああ、山谷組とチャイニーズマフィアによる全面抗争だ」


 その日から、僕は眠れない日々を過ごすことになった。

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