Phase 05 流血

 円愛梨の殺害現場に向かうと、捜査一課がホトケの写真を撮影していた。円愛梨だったモノは、口から血を吐いて白目をいていた。

「この匂いは……アーモンドだな。死因は青酸カリの服用か」

「あっ、古谷さん。確かに、アーモンドの匂いがしますね」

「仁美か。僕を呼び寄せてしまって申し訳ないな」

「いいんですよ。古谷さんが組織犯罪対策課の刑事だって誰も知らないでしょうし」

「テーブルに、何か怪しいものはないか」

「缶コーヒーが置いてあります。そこに毒を塗って殺害したという可能性は考えられそうですね」

「そうだな。捜査一課にはその可能性を伝えておけ」

「分かりました」

 それにしても、円愛梨はどうして殺害されたのだろうか。四隅行雄の言葉が本当だとしたら、僕が犯人として疑われてもおかしくない。仮に四隅行雄が香港での資金洗浄を終えて日本に帰宅したら、僕は「円愛梨殺し」の犯人として抹殺されるだろう。僕はこの件に関して紛れもなく無実である。そんな事を思っていると、スマホから着信が入ってきた。着信の主は、四隅行雄だった。

「古谷さん、今大丈夫か」

「どうしたんだ」

「山崎重工業から回収した1000万円が現地のマフィアに強奪された」

「一体どういうことだ」

「空港から降りてスーツケースを運搬しているときだった。見慣れないスーツの男性が突然チャカを出してきた。俺はソイツが香港マフィアだと気付かなかった。そしてそのまま現金を強奪された。当然、俺は無一文だ」

「僕にどうしろと」

「どうにもできない。俺が何とかする。この事は社員には漏らさないでくれ」

「分かった」

 そして、そのまま電話は切れた。円愛梨の殺害と強奪された1000万円の間に、何か共通点はあるのだろうか。正直分からなかった。

「古谷さん、誰からの電話だったんですか?」

「仁美にこれを漏らすわけにはいかない」

「ですよね。聞いた私が馬鹿でした」

「それはともかく、なぜ円愛梨は毒殺される必要があったのかが分からない」

「そんな事、私にも分からないです。そういえば、円さんは借金を背負っていたらしいですね」

「ああ、そうだ。3000万円の借金を背負っていた。もしかしたら、円愛梨は自ら命を絶った可能性もある」

「つまり、自死ですか?」

「そうだ」

「でも、わざわざ毒をんで死ぬ理由が見当たらないです」

「それはそうだが……」

「私は、この事件は他殺だと断定します。上司の刑事さんにもそうやって伝えちゃいましたし」

「万が一違ったらどうするんだ」

「その時は、私が責任を取ります」

「勝手にしろ」

 相変わらず、仁美の考えが僕には分からない。普通、人間は絶望的な状況に陥ったら、自ら命を絶つことを選択する。それは、僕の母親が暴走族に犯されて妊娠が発覚した時もそうだった。借金の取り立てに追われるぐらいなら、死んだほうがマシだ。しかし、仁美が言う通り、自死としては不自然な点があるのも事実だ。微かなアーモンドの匂い、つまり青酸カリの匂いがそれを物語っている。矢張り、この死体は他殺なのだろうか。

「このホトケはとりあえず捜査一課で回収します。あなたは部外者でしょう」

「そうだな。僕は確かに部外者だ」

「だから、これ以上この事件に関わらないで欲しい」

「くっ……」

 正直、僕は声が出せなかった。確かに、捜査一課と組織犯罪対策課の間にはとてつもなく分厚い壁がある。兵庫県警の中でも、組織犯罪対策課は「危険な部署」として知られているのだ。組織犯罪対策課というのは、所謂「マル暴」と呼ばれる捜査四課にルーツを持っている。兵庫県は、「山谷組」という日本最大の暴力団を抱えている。故に、ヤクザ絡みの案件を担当することが多いのは紛れもない事実だ。一応、僕はとある事件で組織犯罪対策課から「追放」されている状態だが、一応大泉警部の恩赦で潜入捜査官として働いている。それに、四隅行雄を逮捕できたら僕は兵庫県警に復帰できる。目の前にある「欲望」に対して、僕は目を輝かせていたのかもしれない。


 とりあえず、スクエアファイナンスに戻った僕は、現在の状況を整理することにした。四隅行雄は香港でマフィアの襲撃に遭い無一文。円愛梨はラブホテルで何者かに殺害された。正直、何がなんだか分からない。もしかしたら、円愛梨を殺害したのはスクエアファイナンスの関係者なのだろうか。そんな事を考えても仕方がないので、僕は四隅行雄から受け取った「やることリスト」に目を通した。「やることリスト」に書いてあったタスクは、庶務からマネーロンダリングまで多岐に渡っていた。社長がいない間に、これらのタスクを全てこなすことは出来るのだろうか。

「古谷さん、元気ないですね」

 どうやら、櫻木恵美子には僕の顔色が悪く見えたようだ。僕は、恵美子に返事をする。

「そんな事はない。疲れているだけだ」

「ただの疲れだったらいいんですけどね。最近色々と物騒ですし、古谷さんも気をつけてくださいね」

「ああ、分かっている」

 テンプレート的な返事を返して、僕はパソコンのデスクに向かって送金用のソフトウェアを立ち上げた。無機質な黒い画面に、パスワードの入力画面が表示されている。

「えーっと、パスワードは……これだな」

 四隅行雄からもらったメモに書いてあったパスワードを入力すると、送金履歴の一覧が表示された。メガバンクから地元の地銀、そして海外の銀行まで、送金履歴には多数の銀行が表示されていた。気になる点があると言えば、山崎重工業の他に下島食品という会社の出入金履歴が記載されていたことか。下島食品も、神戸に本社を置く企業だ。仮にこの2社が本当にマネーロンダリングを行っていたとしたら、神戸どころか日本を揺るがす経済事件になることは確かだ。ヤクザという黒い泥は、どこまでこの神戸を汚染していくのだろうか。僕が嘘を吐いて受け取った100万円も、もしかしたら黒い泥で汚染された金なのかもしれない。

 それにしても、四隅行雄が心配だ。彼は「俺で何とかする」と言っていたが、本当に1000万円は取り返せるのだろうか。もしも取り返せなかったら、僕の責任になってしまう。最悪の場合、殉職も辞さない。色々考えても仕方がないので、僕は喫煙室で煙草に火を点けた。禁煙と言われて久しいが、矢張り煙草は考えをまとめるのに最適だ。例の1000万円は四隅行雄が取り返すとして、問題は愛梨殺しの犯人だ。僕は探偵じゃないから何も分からないのだけれど、恐らく犯人はスクエアファイナンスの社員で間違いない。となると、犯人は限られてくるか。櫻木恵美子が犯人だとは考えたくないが、もしも彼女が四隅行雄のもう一人の愛人だとしたら、殺害の動機は十分にある。一度、彼女の素行を調べてみようか。


 そんな事を思いつつ、僕は事務所へと戻った。

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