氷河

『氷河』へ案内するというジニアの呼びかけで我に返った。


 長い間オーロラに見惚れていたはずが、あっという間。


「次はこの層の端付近までいくので少々明るくなりますよ」


 ユグドラシルを背にジニアと歩みを進めた。


 雪がどんどん少なくなり、ちょっとずつ明るくなっていくけれど、草は一向に増えなかった。


 増えるどころかどんどん減っていき、ほの暗い世界で広がる灰色の地面と、頭上で不気味に感じるユグドラシルの枝があるばかり。


 他の層で見上げた時は不気味だとも何とも思わなかったのに。


「そろそろかな」


 ジニアの言葉が灰色の世界で色を伴って響き渡る。


 なにがそろそろなのかと首をかしげていると、今まで歩いていた道を直角に、右に向かって進路を変えた。


 なにかが目印になっていたのかな?


 不思議に思い、きょろきょろと周りを見てみたがなんにも見当たらない。


 勘で曲がったのならすごいな。


 曲がったきっかけを考えていると、灰色だった世界は純白とターコイズブルー――ほんのり緑がかった明るい青色の世界へと移り変わった。


「わあ……すごい!」


 思わず声を上げてしまうほど美しい河が目の前に広がっていた。


 今まで見てきた層のどの河よりも雄大だ。120mほどの幅だろうか。


 川の縁は雪と氷によって穢れのない純白に染まっている。


 河はターコイズブルーで美しい。


 薄暗い世界でこの河だけがキラキラ輝いているかのように色鮮やかだ。いや、間違いなくここだけ明るく光っている。


 ゆっくりと流氷が流れていっているのも見える!


「流氷なんて初めて見たよ」


 目を輝かせながらはしゃいでいると、ジニアが河の流れる先をそっと指さした。


「よければ見に行きませんか?」


 断るはずもなかった。


 流氷を見ながら河沿いを一緒に歩いていると、そっと肩を叩いたジニアが人差し指を顔の前に立てて口を開いた。


「この層の端へ向かっているので前を見て歩きましょう。落っこちちゃいますよ」


 いつもと違って微笑みがなく、真剣な表情だった。


 それだけ思ってくれているんだな。


 心が温かくなる。たとえそれが勘違いでも構わない。


 ジニアにゆっくりと頷き、しっかり前を見据えて歩きはじめるといつものように微笑んでくれたのがなんとなくわかった。




 河をたどり『冬の層』の端までくると、目の前には広大な海が広がっていた。


 今いる層の果ては薄暗いけれど、海の広がるあちら側は日の光を受けてキラキラと輝いていて眩しい。思わず目を細めてしまう。


「すごい! もしかして河の水も流氷も海に全部流れ落ちていってるの?」


 返事を待たずに真下をみると、立ち眩みをおこしてしまいそうになった。


 さっとジニアが支えてくれて大事には至らなかったが、好奇心に駆られて後先考えず動いた自分に怒りたい。


「大丈夫ですか?」


 怒るでもなく、真剣な顔で心配してくれているのが余計に申し訳ない。


「ごめんなさい。つい気になっちゃって……」


 しょんぼりしているとジニアはからっと笑ってくれた。


「僕もそういうことしちゃったんですよ。つい気になりますよね」


 そう言ってくれると心がふんわりと軽くなるのが本当に不思議だった。かといって、軽率すぎたことを忘れたりなんかしないとも。


 一瞬でも見えた景色は素晴らしかった!


 次は眩暈が起きても大丈夫なように、匍匐ほふくしながらそうっと下を覗き込む。


 ジニアも同じように腹這いになって覗き込んでいるのが心をくすぐった。


 冬の層の真下がちょうど河口になっていて、あんなに大きかった氷塊があっという間に遠く小さくなっていくのを見ていると気が遠のいていくように思えた。


 河口は氷塊が積み重なり、真上から見ると真っ白な三角州になっている。


 横から見たら氷山になってるんだろうなあ。


 それにしても、太陽の位置的に照らされてもおかしくないユグドラシルの真下が真っ暗闇なのに対し、流れる川と海だけは光り輝いているのが不思議でならなかった。冬の層の氷河もそう。


 何か理由があるのだろうか?


 首を傾げながら観察し、精霊が絡んでいるのかもしれないと仮説を立てた。


『精霊と伝説』の内容を頭に浮かべる。


 光と闇の精霊が関係あるのだろうか。


 地上の闇、月の愛。


 手元の情報が少なくてそこから先への広がりを得られず、気のせいであるという可能性も視野に入れ始めていると、ジニアがゆっくりと立ち上がった。


「そろそろいきますか?」


 少し名残惜しいけれど、観察し続けたところでこれ以上は広げられなさそう。


 ジニアの問いに頷き、慎重に立ち上がり『氷河』を後にした。




 上昇用エレベーターは『氷河』からすぐ近くにあった。


 外と中で風が吹きすさび、デュエットしているような音色が響き渡る。


 ジニアは上層に戻るための準備を淡々と始めた。相変わらずの手際の良さに舌を巻く。手がかじかんでいないのだろうか。


 毎回思うことではあるが、ジニアは四次元ポケットでも持っているのではないか。


 例のラフレシアを取り出しているのを途中から見ていたが、一体どこにしまってどこから取り出しているのやら。


 嬉しいことに、今準備しているのは一個目。二個目からどう取り出しているのかじっと目を凝らして観察できるぞ。


 懐から綺麗に折りたたまれたラフレシアを取り出し、丁寧に広げていく。


 畳まれている状態ではかさばりそうなのに、しまっていたことなんてわかりもしないほどジニアの服は膨らんでいなかった。


「そこにしまってたんだ」


 思わず呟くと、ジニアはにんまりと微笑みながら頷いた。


「ヒロくん。まだ見てない場所がたくさん残ってしまいましたが、この領地をほんの少しご紹介できて僕は嬉しく思っています。いかがでしたか」


 少し考え込み、まだ見てない場所も気になりはしたが十分満足していたので微笑みながら頷いた。


「出発前に全部の層を見て回る時間を作ってもらえてすごく満足してるよ。本当にありがとう。また今度見て回る機会があったらそのときに見せてほしいな」


 楽しかった気持ちを全面に出して答えた。


「それは良かったです。僕は……」


 何かを話そうとしていたがすぐに口ごもってしまった。


 しばらく沈黙が降りる。


 静かな世界でジニアの作業する音だけが聞こえる。


 ラフレシアの準備がすべて終わり、手を止めると改まったように向き合った。


 ジニアが真剣そうな表情を浮かべてこちらを見ているので緊張が走る。


 心臓が高鳴る。手足が寒さ以外で震える。


 ジニアが一瞬視線をそらしたかと思えば、意を決したように息をつくと、再び目が合い、口を開いたのが見えた瞬間、モモが間の抜けたあくびをしながら起きた。


 すごくもどかしそうに、切なそうに顔を歪めたがすぐにいつもの微笑みを浮かべた。


「おはようございます、モモ」


 モモはひょっこりと顔を出し、うーんと背筋を伸ばして挨拶をした。


「おはよう」


 モモを見たら落ち着くかと思っていたけれど、心臓はまだ暴れていた。


 何を話したかったんだろう。それも今となっては聞きようがない。


 聞こうと思えば聞けるのかもしれないが、ジニアはもう話してくれない気がした。


「随分寝てた気がするのに、まだ入り口だったのね! 楽しみ!」


 ジニアと顔を見合わせて笑ってしまった。


 実はもう見て回ってしまった後で、これからもう戻るところなのだとジニアが丁寧に説明をする。


 きょとんとした顔でジニアを見つめていたモモが、顔を桃色に染めながら悲痛な叫びを上げてしょんぼりしてしまった。


「どーして起こしてくれなかったのー! 楽しみだったのに」


「ごめんね、モモちゃん。あんまり気持ちよさそうに寝てたから起こしづらくって……」


 心の底から謝った。


 モモの気持ちを知りもしないで、気持ちよさそうに寝ているからって素敵な景色を見る機会を奪ってしまったことが本当に申し訳なかった。


 すると、モモは背けっぱなしだった顔を少しだけこちらに向けて、また背けてしまった。


 後悔の気持ちから自然と顔が下を向く。


「そういうことなら仕方ないわ。気遣ってくれてありがとうね」


 勢いよく顔を上げてしまう言葉だった。


 モモは微笑んで許してくれていたのだ。


 まさか、こんな風に言ってもらえるなんて。


 心がじんわりと温かくなってくる。


「許してあげる代わりに、上に行くまで話を聞かせてほしいなあ」


 満面の笑みで、心が温かくなりながら思いっきり頷いた。




 ゆっくりふんわりと風に乗って上へ上へと浮かびながら、見てきた景色を色鮮やかに話した。


 モモは楽しそうに聞いてくれている。


 もうすぐこの領地ともお別れか。


 新しい世界に心が踊るとともに少し不安になるのだった。こんなにもすぐ別の場所へ移ったことなんて修学旅行くらいのものだ。


 あまりよくない思い出が脳裏によぎりかけたとき、ジニアの手が僕の手を優しく包んだ。


 いつの間にか俯いていた顔を上げてみると、僕がついてるからねと言って優しく微笑みかけてくれた。


 不意なことに心が温まり、安心した。


 安心するとどういうわけか涙が溢れてきそうになり、必死でこらえる。


 すごく胸が苦しい。


 ジニアにお礼を言いたいのに口元が震えてきて声がつっかえて出なかった。


 堪えていたはずの涙が溢れて止まらなくなり、ついには泣いてしまった。


 そんな様子を見て、驚くでもなく心配するでもなしに、ジニアはただ温かく微笑みながら頭を撫でてくれた。




 人前で泣いたのなんていつぶりだろう。泣くときはいつも隠れて泣いていたはずなのに。


 記憶をゆっくりと辿っていく。


 真の前で泣いてしまい、背中をさすりながらジニアのように頭を優しく撫でてくれたことを思い出した。


 つい最近の出来事のはずなのに遠い昔の思い出のように感じる。


「ジニアくんありがとう。もう大丈夫だから」


 思い出と一緒に真くんもどこか遠くへ行ってしまいそうで少し怖かった。


 怖くて現実の世界に戻りたい気持ちが強くなるが、ジニアとの時間もまだ過ごしていたい。


 心の中で葛藤していると、モモが話の続きを聞かせてほしそうにしていたので明るく微笑みながら口を開いた。

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