心の隙間に

 瞼を開けると夕陽色に染められた小さな教室の中に飛鳥はいた。

 目を引っ張られた。

 静かな空間の中心で、画用紙に向かい鉛筆をはしらせるその後ろ姿に。

 抑えていた涙と感情が溢れだし「夏帆!」そう強く叫んだ。

 影の色調が薄い人物が振り返る。

 「あ、あす……か、飛鳥!」

 なぜここにいる、とでも言いげな顔で夏帆は手に持っていた鉛筆の先を向けてきた。

 飛鳥は彼女を逃さないように走り抱きしめ声にならない声でいった。

「なにしてんのよ。早くかえるよ」

 夏帆の匂いが鼻に抜けると、安堵感が身体を巡り飛鳥は嗚咽し泣き喚く。

「ちょっと飛鳥、落ち着いて!」

 背中に手を回し若干苦しそうに夏帆が答え「やっぱりここ、夢ではなかったんだ」

 言いたいことは沢山あった。しかし今はそんな時間もない。

 飛鳥は涙を拭い「夏帆、ここからでないといけない。やばいのが来てるの」

「やばいの? それって、もちろん……」

 黙って頷く飛鳥。

 あとどのくらいの距離だろうか。だがもう近いことは確かだ。その証拠にさっきから不自然に軋む音が増えている。

「でもさ、ここからどうやって抜けるの。私気づいたらここに居たんだよね」

 眉間を軽く寄せあい手に顎をのせ夏帆はいった。

それに対し飛鳥は、「ここにきた方法と同じことをすれば戻れるかもしれない。夏帆、手を出してくれる。そして目を閉じて深く呼吸を繰り返して」

 あれがくる前に逃げなければならない。でなければ……。

「わかった。飛鳥に委ねる」

 夏帆が両手を差し出し目を閉じる。

 その手を取り意識を集中しようとした、瞬間。

 何かの領域に踏み込んだ、そんな忌みた感覚に陥った。 

 震えた手に気づいたのだろう「飛鳥?」瞼を閉じたまま首を傾げる。

 握った手に緊張が走る。

 来た。来てしまった。

 近づいてきていたとはいえ、まだ距離はあったのに。

 範囲が広い、あれ単体でこれなのか。

 飛鳥は次第に呼吸を乱しはじめると、夏帆が肩を掴み何か言っている。だがその言葉も飛鳥には分からない。

 分かるのは斜め背後、引戸の前で立っているあれは普通ではないということ、それだけだ。

 糸で操られたように身震いの絶えない身体が捻られる。

 『みろ』とでも言いたいのか。

 立っている。引戸に両手をかけ、前屈みに顔をべったりとはりつけ立っている。

 人の型を成した、人ならざる黒い霧。

 あの大蛇が赤子のように思えてしまうほどあれは異質だ。

 どうすればいい、飛鳥は胃がきりきりと痛むのを感じ思索していると

「いっかいめ」

 感情を持ちあわせていない無の声。悪意も善意も、そして心さえもない吐きそうになる声が教室全体に反響する。

 飛鳥は意識が飛びそうになるのを必死に堪え、手元にあたった鉛筆の先を親指に強くあてがい痛みで保たせた。

 一回目、どういうことだ。

 何のことだ、何をいっている、分からない。

「分かっている」

 飛鳥の背中に底力のあるそれでいて儚げな声が広がる。

 顔を後ろへ向けると、そこには引き戸の向こうを鋭く睨み差す夏帆がいた。

 まるで誰かと入れ替わったかのような眼と雰囲気。そしてどことなく漂う気品の高さ。

 暫く圧が押し合う無音の時間が流れ、その沈黙を黒い霧が破りだす。

 黒い霧は引き戸にかけていた手を降ろし、のそりと踵を返し歩き出した。

 飛鳥の意識が遠のいていく。元きた道をなぞらされるように、複雑な線を描くように。


「飛鳥! 飛鳥!!」

 肩の激しい揺れと慌てふためいた声で、飛鳥は薄っすらと目を開ける。

「起きた! ねえ、水無瀬さん起きたよ!」

「そうね。起きたわね」

 霞んだ視界に眩しい光と二つの影。その霞が徐々にとれると飛鳥は胃から声を出すように「か、ほ……夏帆」

 ずきずきと痛む頭に片方の顔を歪ませがら、飛鳥は上半身をゆっくりと起こした。枯れ葉の破ける音が耳にいたい。

「飛鳥、無理しなくていいよ」

 不安そうに夏帆が飛鳥の顔を覗き込むと、祈吏は張り詰めた何かが抜けたように「力の使い過ぎね、きっと」

「そうじゃないの。いや、確かにそれもあるとは思うんだけれど」

 飛鳥は首筋の前側を伸ばし深く息を吐いて間を置いて続けた。

 「夏帆、さっきのこと覚えてる?」

 その質問に記憶を引き出そうとしているのか、こめかみを指で擦り回すと「それがね、何となくは覚えているんだけれど……どこか古い教室で絵を描いていて、それで飛鳥が急にきて……そこからが」

「記憶にない?」

 面目ないといった顔を向け後頭部をさする夏帆に「いや、その方が良い。むしろ思い出すのは危険かもしれない」

 色々と気になることは残る、けれども夏帆はここにいる。それがなによりだ。

「どうやって助けたの。よく連れ出して来れたわね」

 祈吏は飛鳥の目線に合わせるようしゃがみ、首を傾げ聞いた。それに対して飛鳥は慎重に言葉を取りだすように答えた。

「夏帆と同調すると言えばいいのかな。それか中に入り込む。中々、言葉にするのは難しいな。ただ上手くいったのは星雲のお陰、星雲がいなかったら絶対に無理だった」

 その立役者である星雲の姿はみあたらない。祈吏は「そうなの」と納得したように飛鳥の顔を綺麗な目でじっと見た。

「あの、ごめんなさい。私ってそんなに酷かったの?」

 夏帆が弱々しい声で二人の顔を見ながら言うと、祈吏は淡々とした口調で「危険なんてものではなかったわ。こうしてここに居ることが不思議なくらいにね」

 その言葉に夏帆は「そ、そうなの」、と固い言葉を出した。

 飛鳥は目を見開き驚いた声で「もしかして、私がお見舞いに行ったことも?」

「お、おみまい」中空をぼうっと見つめ後頭部をさすりながら答える夏帆。

「ここまで記憶にないならむしろ安心ね」

 そう言って祈吏は立ちあがり「さあ、色々話したいでしょうけどもう帰りましょう。大倉さん、送っていくわ。土は出来るだけ落としといてね」

 飛鳥は頷き月灯りのない空を見上げた。

 不安と恐怖と絶望に溶けあう夜の色はどこへ行ってしまったのか、微かな名残りも感じない。そして、それと入れ替わるように自身の中へと代え難い彩色の光が入りこみ、美しい世界を映しだす。

 なぜか、今夜はあたたかい。

 飛鳥は白い吐息が消えゆくのを見ながらそう思った。



 

 

 

 



 

 


 

 

 




 





 

 


 

 



 

 

 

 

 


 

 



 


 

 

 

 



 

 

 

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