親友
「終わったわね」
その声に飛鳥は目を開け、震える左手を右手で必死に抑えた。
祈吏が発したあの言葉、黒い炎、そして、あの、音。
最後の絶叫を通り越した大蛇の声が頭から離れず、何度もこだまする。
「あとは彼女だけ」
髪を耳にかけ、一瞬何かを考えるような仕草を取ると祈吏が下へと降りていき、それにつづいた。
葛藤という足枷が足をのろくさせ、死んだようにうつ伏せで横たわる彼女の元まで随分と長く感じた。
「入りこむ穴があったのかも。心のどこかに」
ライトで照らした夏帆の顔を見ながら祈吏がいった。
「心の……どこかに」
「そう。奥に染み込んでしまうほどの深い穴がね」
飛鳥は倒れるようにしゃがみむと彼女の身体を仰向けにして、優しく身体を揺すりはじめた。寂しい感触を掌で感じながら「夏帆、夏帆」顔を近づけ呼びかける。まるで反応がない。
焦ったように手の力と声が次第に強くなってくると、「宮路さん」無駄だと言いたげな顔を祈吏が向けた。
「もう手遅れ。あれを対処しても彼女があちらに飛んだこと、その事実に変わりはない。彼女は助からない」
言葉にならない声が腹の奥から出てきて、心臓を握り締められたように苦しくなる。ここに居るのに、ここに居ない。触れているのに、触れられない。
後悔と過ごした日々の思い出が入り乱れるように交錯し、飛鳥は大粒の涙を流し続けた。
もうお願いだから、私から大切な人を、取らないで。もうお願いだから。お願いだがら。
母の次は、親友なのか。また私にあの悲しみを味わわさせるのか。
行き場のない怒りと憎しみが込み上げ、心の中で誰かを激しく罵り、飛鳥の顔を複雑に歪ませる。
彼女の存在を確かめるよう、そしてこの世から離させぬように、冷たく冷え切った手を両の手で握りしめ、嗚咽しながら見つめ続けた。
刹那、涙で溢れ霞んだ視界の端に赤い光がチラチラと映り込む。
手を握り締めたまま袖で涙を拭い目をやると、そこには星雲が綺麗に佇んでいた。
飛鳥を凝視する星雲の意味深な目、何かを伝えようとしている。
「星雲……」まるで絶望の底から助けを懇願するかのように、飛鳥は星雲の名を呼んだ。
すると、星雲は翼を柔らかく飛び広げ、飛鳥の視線の高さにあわせてとまった。
「星雲、あなた」
祈吏は驚いたようにいうと、星雲が大きく鳴いた。凛とした澄み渡る声だった。飛鳥はすぐに変化に気づいた。この乱れきった空間と波動、その調和が整いはじめ、更に額の中心奥から心地の良い温もりが現れた。
「あれをしろってこと……だよね。星雲」
先ほどまでの絶望の顔から一変して、穏やかな表情を浮かべている。それは自分でもはっきりと分かるほどだった。
息を整え、瞼を閉じ額の中心へと意識を向ける。整った空間と波動の巡りは飛鳥の集中を深いところまで運んでいき、星雲への感謝の心が更にそれを助長させる。
飛鳥の意識がゆっくりと夏帆の中へと浸透していく。やがて、先が見えない灰色の二重螺旋の階段がみえたかと思うと、何かに乗っているかのように急激なはやさで駆け降りはじめた。夏帆の意識と混じりあう感覚、それと同時に鮮明な映像が頭の中に映し出される。
「何て名前がいいかな」
「女の子だからね。昔から夏という文字はいれたい想いがあったんだ」
お腹を大事そうにさする女性と、その横であたたかい目を送る男性の姿。
そこで映像は途切れるように消え、また別の映像が。
「お母さん、お母さん! 見て見て! ほら、金賞! どう、凄いでしょ」
何かをぐつぐつ煮込む音に、まな板を叩く包丁の音。
台所に立つ女性は手を止めずに「夏帆の絵が凄いことなんてお母さんが一番知ってるよ。それより今日は夏帆の好きなハンバーグだよ。お父さんも早く帰ってくるってさ。三人で食べよう」
幸せな感情、忘れられない思い出。それらは飛鳥の一部となり心に刻まれ充足感に包まれる。
「夏帆、これ……。ねえ、もう先生に言おうよ! このままだとあの人ら!」
夕日が差し込む教室の中、黒縁の眼鏡をかけた背の低い女子が怒りで声を震わせている。
「大丈夫。もう、大丈夫だから」
「何が大丈夫なの! エスカレートする一方だよ」
「辞めるよ、私。美術部」
自分の中でさらさらと落ちていく音がした。それは黒い砂のようなもので、何か得体の知れない虫がよって集り喰べてられていく。
「お母さん、友達ができた! それがね、凄いんだよ。名前は飛鳥ちゃんって言うんだけれど、その子見た瞬間に絶対仲良くなりたい、いや、なれる! って分かったの。もうね、鳥肌が立ったよ」
どこかに空いてしまった深穴を癒す月灯り。神秘的で高貴な、今まで見たこともない綺麗な光り。
また場面が切り替わる。今度は体育館への通路脇で夏帆と対面する三人の女子生徒。
「大倉さん、宮路さんと仲良いよね」
「やめといた方がいいと思うな」
「どういうこと。なんであんた達に言われないといけないの」
「絶対に宮路さんには言わないでね。あの人何しでかすか分からないから。あのね。彼女、大倉さんのことを周りによく言ってるのよ。意味分かるでしょ?」
「そうそう。もう私達もえげつないと思ってさ。ほっとけなくて。どんな内容かは本人の前だから言いたくないけど……付き合うのやめた方がいいよ、絶対」
夏帆は手に持っていた鞄で、背の高い真ん中にいる女の顔を叩きつけるように殴った。鈍く重い音が響き女は顔から鼻血を垂らす。
「あのさ。よくそんなこと平気で言えるよね。人を貶めとうとして何がしたいの。飛鳥は絶対にそんなこと言わないし、あんた達みたいに心が汚れてなんかいないんだよ。可哀想なほどつまんねえ人生だな」
自分を救いだしてくれた真に大切な人、それを守りたいという純粋な想い。
(ねえ、夏帆。今度は私があなたを助けるばんだね)
螺旋の階段が終わりを告げたように、突如、謎の眼が立ち塞がる。
深い黒緑の四白眼、それは飛鳥の身体よりも遥かに高くそびえ、よく見ると太さが疎の木の根のようなものが何かを掴むように生えている。
飛鳥は辺りを見まわした。この眼以外には何もない暗がりで、そのことを認識すると四白眼の中央下、一番太い根へと左手を伸ばし触れた。それは無意識下におけるもので、自分の意思とは全く違うものであった。
「きゃははは」
「ねえ、ここ」
子供の楽しげな声が耳へと届き、飛鳥の意識は繋がった。
灰に包まれたような雲、それを嫌うように重暗く建つ古い木造校舎。何もない運動場では三人の着物を着た子供がお手玉のようなものを回している。
「学校か」
飛鳥は今みている異様な光景に慌てさせぬよう呟いた。
真っ直ぐ先に進み校舎の玄関に恐る恐る入る。
味気のない木部だらけの中は涼しげで、何も入っていない下駄箱と晩秋を感じさせるイチョウの絵だけが置かれていた。
ミシッと頼りのない音を立てる廊下。年季の入った木の壁、匂い。
どこか郷愁を強く感じながら、右奥にあった階段を上りはじめると、一人の男性が低い足音を立て降りてきた。紺の作務衣を着た白髪の皺が寄せ合った老人。
「こ、こんにちは」
飛鳥は思わず声を掛けてしまった。それも明らかに動揺をした声で。
老人は飛鳥と一瞬だけ目を合わせ、すれ違いざま
「はやく帰りなさい」
そう一言だけ、意味ある重みを載せて返してきた。
飛鳥は立ち止まった。何かが変わったような気がしたからだ。
ゆっくりと後ろを振り返る。
すると先ほどの老人は居らずそればかりか、あれだけ感じていた郷愁も嘘のように消え、まるで廃校舎のように暗い雰囲気が漂っている。
背すじをさっと触られたように鳥肌が走り、まだ半分もある階段を急いで駆け上がった。
薄暗い廊下の窓を覗き込むと、先ほど歩いてきた運動場が見えた。
しかし、何か妙な違和感を感じる。
ああ、そうか。あの三人の子供が居ないのだ。
いや……違う。
何かがこちらに向かってきている。遥か遠くから、物凄い勢いで、何かが迫ってきている。
目が離せない、離すことが、
––リン、リン!––
強く透みわたる鈴の音。その音でハッとし飛鳥はその場から逃げるように走りだす。
(やばい、あんなのが来たら……!)
––リン、リン、リン––
今度は廊下の突き当たり、右に折れた位置から聞こえてくる。
『こっち』と教えてくれるように、鈴を鳴らしてくれるのは今日導いてくれたあの馬なのだろう。
けれどあの時とは違う。鈴の音の中にただ事ではない、警告を乗せて伝えようとしている。
飛鳥は廊下を右に曲がって、行き止まりの壁の前で立ち止まる。
黒いシミが浮き出た壁に、弾ませた息を吹きかけ呼吸をする飛鳥。
(そうじゃない。ここは本当は、行き止まりなんかじゃない)
飛鳥は幻覚とその先にある本当の姿を同時に捉えていた。
身体を押し潰す重みは着々と増している。迷っている時間はない。
飛鳥は瞼を閉じ、左手から壁の中へと潜っていった。
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