星雲
山に足を踏み入れて、それはすぐに起こった。
暗い夜に溶け込んだ生ぬるい空気が、飛鳥の肌を舐めるように這いつくばる。
全身は不快な悪寒に満たされ、同時に何か生き物の腐敗臭が脳にこびりつかせるように鼻に抜ける。
立ち止まり、口を押さえ、吐き気に襲われていると祈史は凛とした声で。
「星雲」
その名前と共に、この地に相応しくない清らかな鳴き声が空気を浄化させるように響きわたる。どこからともなく上空に現れた星雲は、両翼を大きく一振りさせると、周囲を燃やし尽くさんばかりの焰で闇をそして飛鳥さえも飲み込んだ。
「楽になった……」
焰が消えると先ほどまでの悪寒も腐敗臭もなくなり、それどころかここに来た時よりも飛鳥の身と心は楽になっていた。
「星雲ありがとう。あのままだったら私危なかったかもしれない」
祈史の肩に止まった星雲にそう言うと、星雲は小さな野鳥が鳴いたような声で返事をした。
「本当にすごいわね。星雲、宮路さんのことが気に入ったの?」
僅かな微笑を浮かべている祈史の顔を星雲はじっと見つめた。
「どうしたの?何か言いたそうね」
「多分、驚いているんじゃないかな」
「え?」不意をつかれたような顔をする祈史。
「多分だけれどね。なんとなくそんな感じが伝わってきた。驚いたような、でも嬉しさも籠ったような……ごめん、上手く言葉に出来ないけれど」
「そう……」何か勘付いたように表情に暗い影を落とし、
「行きましょう」
まるで突き放すかのような声。踵を返すとまた、緩やかな傾斜を黙々と歩いていく。飛鳥には祈史の歩幅が先ほどより狭くなったような気がした。
しばらく歩き、獣道から道なき道へと移り変わると、祈史はようやく口を開いた。
「さて、どちらに行けばいいかしらね」
飛鳥は祈史の横に並んで覚悟を滲ませた声で「祠があるの。この先の上で」
「知ってるわ。あなたの中から視えてきたから。問題はどこにそれがあるのか。おそらくその男の人は、逃げたくても逃げれなかったのね」
そこまで分かっていたのかと飛鳥は目を見張った。
「映像の男性は……何でだよ、そう絶望したように言ってた」
「そうね。祠から逃げるように降りたはずなのに、また祠があらわれた。普通なら傾斜の感覚で気づくはずなのに自分が登っているのか降りているのか、それさえも分からなくなっていたはず」
木山は幻覚を見させられていたのだ。この鬱蒼とした山の中で逃げ惑う獲物を手繰り寄せるように。
「まあ、やり方は幾らでもあるわ。今回はこれにしときましょう」
祈史はそう言うと、素早い手つきで印のようなものをいくつか結び、地面にしゃがんで左手をついた。さっきまで笑うかのように吹いていた風が急に吹き止む。
「みえたわ。ここから真っ直ぐ、でも徐々に左に逸れていく。あとは星雲が案内してくれる」
「夏帆は? 大丈夫だったかな……」
聞くのを躊躇いそうになるほど喉から声を無理やり押し出した。
一呼吸置いて祈史が言う。「極めて危険な状態。でも、まだ取り返せれる」
取り返せれる。その言葉に安堵すると共に焦りも早まった。
「星雲お願い」
祈史に答えるかのように、彼女の頬に頭を軽く当てると、星雲は自分達の少しさき中空をゆっくりと飛んでいく。
後を追いながら顔を一周ぐるっと回して飛鳥は不思議に思った。
霊がみあたらない。ここには普通ならいるはずの霊がどこにもいないのだ。
飛鳥は綺麗な横顔を微動だにさせない祈史に投げかけるように聞いた。
「ねえ水無瀬さん、一つ聞いてもいいかな」
「なに」
「ここには霊がおかしなほど気配や姿もない。それが私には不思議で」
水無瀬は星雲を見上げたのか、それともその先を見たのか二間置いて言った。
「危険な所というのも数多くのパターンがあるけれど、その中でも主のような存在以外、霊が感じられないのはかなり危険な部類に入るわ」
「主……?」
「映像に映ってたでしょ。黒いモヤのような存在が」
飛鳥の頭の中に薄く黒いモヤの人影が浮かび上がる。そしてあの異質なまでの雰囲気を纏う祠。
「力が強すぎるとね、他の霊が逃げるもしくは」
「もしくは……?」
「喰われる」
これは予想以上ね、祈史はそう呟くように吐いた。
瞬間、両の端にある木々がミシッと大きく音を立てた。
「気をつけてね、宮路さん。ここから領域の中みたいだから」
足裏から全身に伝わる地面を何かが這うような感覚。
それも膨れ上がった太い何かが、幾重にも別れて這い回るような。
祈史は歩みを止めず嘲笑うかのように口角だけをあげ、
「八岐の鬼の灯、ねえ。」
飛鳥はその笑みとも呼べない表情を見て、彼女の奥底にある、暗くて深い心根を感じ取っていた。
星雲が祈史の肩へと戻り「宮路さん」祈史は息一つ乱さずに飛鳥を呼ぶと
「あれ」
白く細長い指が中空を指し示す。その指と光の先には
「夏帆……夏帆!」
「だめ!」
低く凄みのある声が身体を後ろへと引っ張る。
振り向くと祈史が瞼を閉じたまま
「ねえ、隠れてないで出てきなさいよ。いるんでしょ。それとも、私が怖くて出てこれない?」
そう言うと、寂たる風が枯れ葉を舞い散らせ、カラカラと四方で擦れ合う音が鳴りはじめた。
泥々とした粘膜のような空気が肌に重く伝わり、横を見ると星雲は火で包み込まれたように赤く発光していた。
「マタ、キタノ、カ……?」
上空、それとも地面からなのか。透き通らない澱んだ声とものものしい気配。
「また? 何を勘違いしているのかしら。会うのはこれが初めて、そして最後」
祈史の周りに深い朱色の気のようなものが身体から漏れるように覆い、ゆっくりと踵を返す。その気に連られるように振りかえると、それはいた。
黒い粒子を掻き集めたように人の姿を形どった影のような何か。
全身から見えるのは唯一の赤深く充血した眼。
腐敗した異臭。
飛鳥は言いようのない忌まわしい感覚に捉われはじめていた。
「それは本来の姿じゃないでしょ。早く終わらせたいから出てきてくれる」
挑発的な声色。
それに反応したのだろうか。黒い影はサラサラと原型を崩すように堕ちていく。まるで砂時計のように。
落ちた黒い砂は瞬く間に地面へと還る。刹那、地を這っていた何かが急激な速さでそこへ集中した。
マ、マタ、ツッ、キィ……ノォオ
生き物のように動き廻る影が粗悪な言葉と重なるよう、飛鳥の視界に薄っすらとみえはじめた。
ツッ、ツレ……テ、カ、二、二ゲッ!
地面の中が蠢くように揺れる。これは錯覚なのか、それとも現実なのか。
「ああ、やっぱり」
顔を緊張させた飛鳥とは違い、祈史は落ち着いた表情でそれを見ていた。
「水無瀬さん、もしかしてあの看板に書かれていた八岐って……」
「おそらく八岐の大蛇のことを指していたんでしょうね。あれが伝説上のものかは別として」
薄かった影が次第に色味を帯びていく。
不規則な紋様を浮かべた赤黒の胴体、黒い鱗を纏った四つの顔、赤深く膨れ上がった蛇の目。
飛鳥が視てきた九歳までの、そして一六を迎えてからの中でも、異質な部類に入る。
「何故かは知らなけど、頭が四つしかないわね」
「八岐ではないってこと?」
「いいえ、間違いなく八つあったはずよ。今はまだ出てきていないのか、それとも……」
祈史は艶のある黒髪を撫でながら「星雲、一つだけでいい。頭をどれか潰して。あとの三つは私が捉える」
その一言に了解したとでも言うかのように、煇る火の粉を散らし上へと高く飛んでゆく星雲。
すると、大蛇は下へ沈むようにのそりと顔を沈ませていく。
逃げようとしているのか。
「地面へ消えた……宮路さん、私の側から離れないで」
違う。違う、よ。
「気配がまばら……本当に厄介ね」
う、しろ、か。
額の奥、底の底から何かが湧き上がる、激しい痛み。
声が聞こえる。訴え。それは頭の中。
く、る、くる、来る!
「ッ!水無瀬さん、後ろ!」
飛鳥は絶叫するように発した。
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