鬼の灯
頼りのない金網フェンスが風で揺らされ辺りに音を響かせる。月明かりのない夜の暗さとともに消え掛かった街灯が飛鳥の心を惑わせた。血みどろのように黒いシミが掛かった橋の名板には黒薙橋と書かれており、その下には枯れ果てた花が添えてあった。
飛鳥は息を飲むように橋を見据えた。
橋の丁度真ん中で顔を大きく右に傾けたスーツ姿の男性が立っている。中年ぐらいだろうか。身体は細身だが酷く猫背でよろめくように揺れている。目が離せないでいると男性の動きがぴたりと一瞬止まった。
そして左足を一歩踏み出してフェンスの方へと近づいていく。子供でものぼれてしまいそうなフェンスに三回足を踏み外し、ようやく上半身が追い越すと男性は何の躊躇いもなく鉄棒の前まわりのように下へと落ちていった。
背後からから気配を感じた。だが飛鳥は後ろを振り向くことができなかった。
重い足どりで一歩ずつ硬い何かが地面を叩く音が聞こえていたからだ。飛鳥は目を右斜め下にむけ、手に滲んだ汗を握り潰した。
赤いワンピースの白いハイヒールをはいた脚が、押さえつけられた視野に踏み込む。脚はハイヒールと同化したかのように真っ白だった。それと同時に底気味の悪い女の鼻歌が頭のなかから聞こえ、飛鳥は揺さぶられるようによろめきながら地面に手をつき目を閉じた。
目を閉じていてもはっきりと視える。頭も首もない背の高い女性が不気味なほど綺麗な姿勢で橋の奥へと消えていく姿が。
ここはあまりにも多過ぎる。
自分にはまだ視えないだけで他にも数多くいるはずだ。飛鳥は近くに停めていたバイクのシートに腰を掛け肩をさすった。
黒薙橋。ここは奈良県のなかでも比較的有名な心霊スポットだ。しかし、そこまで危険な場所として知られているかと言えばそうではない。どちらかといえば安全な分類としてわけられている。どこかの動画配信者も尺を短くして、本命の所へとすぐに移動をしていたのを飛鳥は覚えていた。
「ならそこに行こう……奈良行こう」
飛鳥は呪文を唱えるかのように小さく囁いた。自分の吐いた白い息を見つめ母と交わした会話を想い起こす。
家の近くの公園で母と共に逆上がりの練習をした、ひぐらしが鳴く夕暮れ。幼い頃から母譲りの運動神経のお陰か五分も経たずしてできたことを覚えている。
まだ五歳だった。調子に乗った自分は連続して回りはじめ、母から「危険だよ。おりな」と注意されてもやめなかった。
やはりというべきか案の定、鉄棒から振り落とされるように尻から落ちて少し痛い思いをした。
「だから言ったでしょ、危険だよって。ま、でも今のはわざとかもね」
ハハハ、と口に手をあてて笑う母。
「わざと? わざとじゃないよ! まちがえたんだもん」
「そうだね。飛鳥がわざと失敗したとはお母さんも思ってないよ。そうじゃなくて、飛鳥の守り人がそうさせたのかもねってこと」
ズボンについた砂を母は優しくはらいながらそう言った。
「まもりびと?」
「そう守り人。飛鳥が生まれた時からずっと見守ってくれている人のことだよ」
飛鳥は今まで聞いたこともない言葉に目を輝かせた。
「じゃあ、そのまもりびとさんにありがとうっていわないと! まもりびとさん、ありがとうね」
小さな手を合わせ純粋無垢な声でそう言うと、心地の良いほんのり冷たい風が
飛鳥の顔を触れた。それは三秒もないほどの出来事だったが、飛鳥は確かに何かを感じ取っていた。
「おかあさん、いまね。あすかにかぜがふいたよ」
「飛鳥、それはきっと守り人さんがお返事してくれたんだよ……いい? これから先何か困ったことがあれば、守り人さんが答えてくれるかもしれない。それは本だったり誰かの口を借りたりだとかね」
その当時は言っていること全てを理解できるほどの年ではなかったし、理解できる年になってもよくは分からなかった。だが、あの時の母の言葉と風は、心の奥深くまで染み渡るように刻まれていた。
父は打たされていた。いや、言わされていた。文字が画面から湧きあがり強く呼び掛けるこの感覚を何と言葉にあらわせればよいのか。だが間違いなく守り人が教えてくれたのだ。
夏帆はあの映像に関して一つ重要な情報を抜き取っていた。それは、借りた相手が藤島だということ。三人でカフェに行き面識があったのだから、わざわざ地元の友達だという必要はない。
木山も同様だ。木山に関して言えば重要なことをすり替えている。本当は奈良であるにも関わらず京都だと言った。決して辿りつかれぬよう嘘をつく。もしくはせせら笑って遊んでいる。
眩しい光が辺りを照らした。振り向くと一台の車が飛鳥を見るようにとまっていた。後部座席から一人降りて、飛鳥の元へと歩いてくる。すぐに水無瀬祈史だと分かった。制服姿のままだった。
「遅くなってごめんなさい。何もなかった?」
「あ、うん。大丈夫。こんな遠くまで来てくれてありがとう」
飛鳥は上ずった声で言った。どうも祈史の前ではかたくなってしまう。
「別に気にすることないわ。電話でもいったけれど初めてだったの。星雲が私に特定の人物を助けてあげてほしい。そう伝えてきたのは」
祈史は橋の方へ向き続けていった。
「だから気になった。一体、宮路さんはどんな人なのか。なぜ星雲が伝えてきたのか。それに……」
「それに?」
「いや、今はまだいい。ごめんなさい忘れて」
ドアの開く音がした。見れば運転席から背の高い人物が降りて、飛鳥に向かって一礼した。
「祈史様、お気をつけて。何かあればすぐにお呼びください」
ほのかに皺がれた男性の声。だが、凛々しさと気品に溢れた声だった。
祈史はわずかに振り向いて頷いた。飛鳥はその光景にやはりと思った。しかし、ここで深くは聞かなかった。聞いてはならない、そんな雰囲気を彼女が発していたからだ。
「さあ行きましょう。時間がないわよ」
「うん。よろしくお願いします」
何もそこには居ないかのように橋を渡っていく祈史。自殺を繰り返す男性、橋の裏にへばりつく何か、頭上で飛び交う影。
それらが視えているはずなのに気にもとめはしない背中には一六の代とは思えぬほどの気高さがあった。
橋を渡りきると祈史はブレザーから何かを取り出して手首に嵌めた。カチッと爽快な音が鳴ると暴力的な光が暗闇を照らした。
「凄いね、そのLEDの懐中電灯の明るさ。腕時計式のがあるなんて知らなかった」
「仕事の関係上、どうしても夜に出ることが多いから。無理言って少し中身も弄ってあるの」
確かにこの明るさと広範囲さは市販の状態では売られていないだろう。
辺りを見回しながら道なりに進んでいく。すると祈史が急に足を止めた。
「ここね」
朽ちた木製の看板。そして山へと続いていく獣道が右側すぐ前に現れた。祈史は近づきライトをあて読み上げはじめた。
「地に、眠りたりとも……八岐の、鬼の灯……尚も消えぬ」
何かの祟りを鎮めているのだろうか。誰がこれを書いたのか、それは分からないが、あの映像と関係しているような気がした。
「水無瀬さん、ここって……」
「そうね。おそらく何かを封じていたんでしょうね。鬼の灯、というのが気になるところだけど」
祈史の瞳に悲しみの色がうつる。
「水無瀬さん、ここからは私の元を出来るだけ離れないで」
飛鳥が静かに頷くと、祈史は蛇のようにうねる傾斜の山道に足を慎重に踏み入れた。
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