第3話
二〇二二年 八月某日 〈私の話〉
チョコレートが銀色の包装紙の中でドロドロになり、輪郭を無くしていた。赤いパッケージの板チョコレート。半分は食べていたらしく、残りの半分が溶けていたのだ。いつからこの鞄の中に入れっぱなしにしていたのか思い出せない。それどころか昨日の記憶も曖昧だ。何所かにぶつけたように全身が痛い。昨日何かしたっけ?いつも道り仕事に行って、何処にも寄らず帰ってきただけのはずだが…思い出そうとしても思い出せない。昨日の記憶がすっぽり抜けてしまったようだ。
「それにしても変な夢やったな…」
チョコレートが入っていた鞄から携帯を取り出し時間を見ると、まだ午前四時半だった。さっきまで見ていた夢は一体何だったんだろう。やけにリアルで、私はまるで夏野という高校生の夏休みを疑似体験しているようだった。泣いたのだろうか、枕が濡れている。なんだか気味が悪い。もう一度寝る気にもなれず、布団からもぞもぞと抜け出して、溶けたチョコレートを一応冷蔵庫に入れた。食べるかどうかは分からないが、何故か捨てることはできなかった。
私はそのまま洗面所に行って、顔を洗い歯を磨いた。やはり泣いたのだろう。目が腫れている。花に水をやろうと思った。カーテンを開けてベランダに出ると、空が濃い青色に染まっていた。遠くに見える山際がぼんやりと明るく見える。日の出前に発生するブルーアワーが、私の一番好きな時間帯だ。日の入り後にも発生するが、匂いが違う。朝のブルーアワーは朝の匂いとセットだ。私は、深く大きく呼吸をした。
「…もう起きたん?早ない?」
妹が後ろから話しかけて来た。
「そっちこそ早いやん。どしたん」
「トイレ」
「はよいき」
「うん…ってか空めっちゃええやん」
「綺麗よな」
「散歩行こや、気持ちよさそう」
「いいよ。言うと思った」
私がそう返事をすると、妹は颯爽とトイレに行ってから、洗面所で顔を洗って歯を磨いて出て来た。
「よし、行こか」
妹はそう言って、部屋着のまま靴を履き、全身に虫よけスプレーを振っている。私も虫よけスプレーを振って外に出た。家の近くには大和川が流れていて、私たちはよく川の土手を散歩する。土手から見る空は広い。夏草が生い茂っていて、そこに生温い風が吹きつける。土と草の匂い。もしかすると、この匂いも朝の匂いを構成している一部なのだろうか。
「夏やな」
唐突に思う。青い空に葉、空気、半袖、虫よけスプレー。その全てがあまりにも夏過ぎて、嬉し
くなる。空が徐々にオレンジに侵食されていく。朝焼けだ。これもまた良い。妹は、まだ八月だというのに『セプテンバーさん』を歌っている。サビしか知らないのだろう。ずっと同じところを繰り返している。
「あ、百日紅」
土手沿いを歩いていると、右側に小さな公園があり、そこに真っ赤な百日紅が咲いていた。
「サルスベリ?って何?」
「あの赤い花の木」
「あんたって花の名前とか知ってたんや」
「夢に出て来てん」
「へえ」
「あの木の横のベンチでちょっと休憩しやん?」
「いいよ、喉乾いたから自販機探してくるわ。待ってて」
「私のも買ってきて、麦茶」
「おっけ」
私は百日紅の横のベンチに座る。すると、ブンという音が耳をかすめた。ブン、ブン、ブン。音の正体は蝉だ。蝉は、ぐるぐると私の周りを飛び回っている。
「うわっ、何!」
私は慌てて立ち上がる。すると、その蝉が私のおでこにごつんとぶつかった。
「あ…」
その瞬間、私は不思議な感覚に陥った。鮮やかで切ない夏の記憶が、情景が、感情が流れ込んでくる。私であって、私ではない。夏野だ。これは夏野のものだ。
蝉がひっくり返って地面でバタバタしている。私はそっとその蝉を拾い上げる。ちょこんと大人しく掌に乗った蝉は、ミーンミーンと、気持ちよさそうに二回鳴いた。まるで私に挨拶をしているようだった。
どこか遠くから風が吹いてきて、柑橘系の軽やかな匂いがふわりと私の身体を包み込む。風は私の髪を揺らした。その時、何かがすとんと心に落ちる。
「ナツオ先生、久しぶりですね」
私は、無意識のうちにその名前を呼んでいた。現実感がまるでない。ふわふわした心地だ。しかし、やけに頭がすっきりしていて、一つだけ明確に分かったことがあった。
「私、夏野の生まれ変わりなんや」
蝉が羽を広げて飛び立った。またブンと、私の周りを回る。そして、真っ赤な百日紅の木に留まった。
「明日の花火大会、ナツオ先生も連れってってあげますね」
蝉はそれに返事をするように、ミーンミーンとまた鳴いて、私の肩に留まった。私は明日、三重の花火大会に友達同士六人で行くことになっていた。偶然とは思えないタイミングだ。夏野が果たせなかった約束を、私が代わりに果たそうと思った。
妹が、麦茶を二本持ってこちらに向かって歩いてくる。
「ありがと、自販機近くにあった?」
「うん、あったよ。百円貸しな」
「それくらい奢ってや」
「買ってきたったのに図々しいな…ってうわあああ!肩!肩!肩に蝉留まってんで!」
「ちょっと急にデカい声出さんといてや、びっくりするやん」
「えっ、えっ!噓ちゃうで、ほんまにおるで蝉が、肩に」
「わかってるって、この人は蝉のようで蝉じゃないねん」
「はあ?この人って…蝉やろ?それ」
「あ…そやな、蝉やな、蝉ってことにしよう。私、今日からこの蝉をペットにすることにしてん」
妹に、夢の話や生まれ変わりの話をしたところで、信じてもらえないだろう。一から説明するのも面倒くさいし、馬鹿にされるのも嫌なので、私は蝉をペットにするということにした。充分、馬鹿にされるだろう。
「えっやばっ、なんなんどしたん!ペットって家に持って帰る気?」
「うん。明日友達と花火大会行くねんけど、この蝉も一緒に連れてくことにしてん」
「大丈夫か?お茶飲み!熱中症やわ」
「熱中症ちゃうわ、正常や」
「どう考えても異常やろ」
「よく見て、可愛いから」
「…まあ確かに、ちょっと可愛いかも」
「やろ」
「ピカチュウみたい」
「ははっ、肩に乗ってるとこだけな」
「私の肩にも乗るかな?」
「乗るんちゃう?…ほら、お行き」
ブン。私の言葉を聞いて、蝉は妹の肩に留まった。
「うわあああ、すげえ。乗った!蝉の癖に知能やばない?人間の言葉わかってんちゃん?」
「ペットにしたくなる気持ちわかってくれた?」
「うん、ちょっとだけな。…でもさ、可哀そうちゃう?家に連れて帰るのって」
「そうかな?」
「うん、狭いし。蝉は外の方が生きやすいんちゃうかな、樹液吸わなあかんやろ?」
「確かにな。でも花火大会には絶対連れて行きたいねん。約束してたから」
「約束してた?」
「えっと…あ、そうや、明日の朝車でここ寄ることにするわ」
「うん、一日家に閉じ込めてるよりは良いんちゃうかな」
私は、蝉を妹の肩から百日紅の木に戻した。そして、蝉に向かって「また明日」と声をかけて公園を出た。いつの間にか完全に朝日が昇っていて、ひとかけらの雲も見当たらない晴天になっている。木々に生い茂る青々とした葉がキラキラしていて、地面に揺れる木漏れ日が綺麗だった。
「なんなん、なんで蝉も一緒に車乗ってるん!」
「なんか、ミライがペットにしたらしい」
「マジで言ってる?えぐいって」
「花火大会行く?って聞いたら行くって言ってん。やから連れて来た」
「わははっ、おかしいなー」
「でもなんか大人しくて可愛いな」
私たちは、六人乗りの車で三重県に向かっている。皆は蝉に興味津々のようだ。そりゃそうだろう。幸い、皆は蝉を受け入れてくれた。ちょっと嫌そうな顔をしている子も居たが…。運転席にミオ。助手席にナオ。真ん中にカンナとカホ。後ろにマナと私と蝉。蝉は虫かごに入っていて、私はその虫かごを膝の上に乗せている。
途中、木の近くに車を止めて樹液を吸わせたりもした。皆は、蝉が樹液を吸ってちゃんと車に戻ってくることに感心していた。ナオが「こいつ頭良すぎやろ、人間の生まれ変わりちゃん」と言った時は大きく頷いた。本当にそうだからだ。
花火大会専用駐車場までの道のりは、かなり渋滞していた。私たちはそこに行くのを諦めて途中にあったかっぱ寿司に車を止めた。夜はかっぱ寿司を食べて帰ることにしよう。
皆は蝉の存在にもう慣れていた。何時間も車の中で一緒だったし、急に鳴いたり飛んだりせず、虫かごの中に大人しくしているので安心したのだろう。たまに蝉に話しかけたりもしている。
花火が打ち上がる砂浜に着くと、既に沢山の人が居た。海の家で飲んだり食べたりしながら待機している人も居れば、三脚を立ててカメラを構えている人も居る。浴衣を着たカップルが幸せそうな顔をして寄り添い合っている傍で、子どもたちが砂でお城を作って遊んでいる。ここに居る人たち全員が花火大会の一部だ。皆が同じ目的で集まり、心を躍らせて待っている。そう思うと、この目に映る全ての光景が愛おしく見えた。
「あっ」
午後八時ぴったりに花火が打ち上がる。良く晴れた夜空に、大きく鮮やかな花火が炸裂した。ヒューーーという口笛のような音。バンッという爆発音。私は虫かごから蝉を出して、自分の頭の上に乗せた。ここからならきっとよく見えるはずだ。
「綺麗やなぁ」
「花火大会って時間ピッタリに始まるねんな」
「なー」
「蝉にも見えてるかな?」
「見えてるんちゃう?…あ!蝉の目キラキラしてる!」
「ははっ、嘘やん!ってか蝉見てんと花火見な!」
花火は次々に炸裂する。大輪の花を咲かせてはすぐ、消えていった。きらきらと火花が散る。散り際でさえ美しい花が羨ましい。別に長く咲かなくていい。この一瞬がいいのだ。
「うわーすごい」
「もうすぐ三十分経つで」
「多分これクライマックスやな」
「うん」
「儚いなー」
「涙出そう」
その時、私の頭の上に乗っていた蝉が突然鳴いた。ミーンミーンミーン。そして花火の方へ向かって勢いよく飛び立った。
「えっ!」
「何!」
「飛んでった!」
「ちょっとミライ立たんといてよ!見えへんやん!」
「落ち着けって」
「待って!そっち海やで!あかん!行ったらあかん!」
蝉は夏の夜の中に飛び込み、最後の花火と共に消えた。
皆は、ぽかんと口を開けていた。多分私も同じような表情をしているに違いない。周りの人たちは拍手をしている。花火の感動に包まれたこの砂浜の上で、私たちだけが静まり返っていた。
「…ぶはっ」
マナが噴き出すように笑った。それに釣られて皆も笑いだした。私も笑ってしまう。お腹を抱えて笑う。私たちは一気に騒がしくなった。その場に笑い転げる。
「あかん、おもろい」
「何やったんあの蝉!」
「あはははっ、無理っ、お腹痛い」
本当に面白かった。何がそこまで面白いのか分からないが、私たちはいつまでも笑っていた。長い、長い時間だった。
しばらく笑いあった後、私たちは車を止めているかっぱ寿司へ向かった。もう蝉の話題は出なかった。蒸し暑い夏の夜道を、雑談をしながらのんびり歩く。楽しい時間だった。
三重のかっぱ寿司は美味しかった。魚が新鮮で美味しいのか、疲労と空腹のおかげで美味しいのか、区別がつかない。だが、そんなことはどうでも良かった。
ふと、自分が、皆が、生きているのが嬉しくてたまらなくなった。ありがたいと思った。こんなことを皆に言うと、きっと笑われる。だから、心の中に留めておくことにした。
「なんか寂しいな」
三重から帰る車の中で、空っぽの虫かごを見たカホが言った。
「あの蝉、なんで海に飛んでったんやろう」
「なー」
「どうなったんやろ?」
「死んだんちゃう」
「そんな悲しいこと言わんといてや」
「なんなん、皆そんな蝉に愛着湧いてたん」
「うん、カンナは」
「ミオも、かなり」
「また会えるで、絶対」
「え?」
「何回も、何回も、生まれ変わって会いに来るよ」
「そうかな」
「うん。蝉かもしれんし、別の何かかもしれんけど、きっと夏になれば会える」
「夏になれば、か」
「なんかエモいな」
蝉は短命だ。ナツオ先生はそれを知っている。上手く言葉にはできないのだけれど、何故あの蝉があんな行動に出たのか、私には少しだけわかるような気がした。
それから、一か月経って、二か月経って、あの公園の百日紅が散った。地面が赤く染まっている。蝉の声は聞こえてこない。抜け殻だけがそこに落ちていた。
夏が終わった。どこかに、何かを忘れてきてしまったような感覚。別れ際に少し寂しくなるような気持ち。夏が終わるたびに切なくなるのは、もしかすると、夏野のせいかもしれない。この切なさは前世が関係しているのだ。きっとそうだと思った。夏の終わりに寂しくなる人は、皆、前世で何かあったのかもしれない。し、無かったかもしれない。
ただ、私は、あの花火に向かって海に飛んで行った蝉のように、夏野の分まで力いっぱい生きて行こうと思った。
そして何度も季節が過ぎ、夏が始まったり、終わったりを繰り返した。あれからあの蝉には一度も会っていない。もう、前世のこともあまり思い出さなくなっていた。それでも夏が来れば、私は赤い百日紅を見つけてはこうして立ち止まってしまうのだ。
ぽつん、ぽつんと、空から雨粒が落ちてきて、私の頬を濡らした。その直後、一気にザっと降って
きた。夕立だ。私は百日紅の横にあるバス停で、雨が上がるのを待つ。雨はアスファルトを濡らし
て、数分で上がった。夏の匂いがしていた。
終わり
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます