第2話



「おはようございます」


 俺は第二美術室の扉を開けながら挨拶をする。ナツオ先生は椅子に座っていて、俺が昨日描いた絵を見ていた。


「おはよう。夏野君の絵、乾いたら何個か持って帰ってもいいかな?」


「いいけど、昨日何描いたか正直あんま覚えてないんですよね…うわーこれとかめっちゃ雑やし、こんなん持って帰るんですか?」


「それがええねん、勢いがあって、美しいやん。この絵は、昨日の夏野君にしか描かれへん絵やしなあ」


「そう?ってか今日も絵描いていい?」


「昨日やり残した国語のプリントと、今日の分の日本史と世界史のプリントが終わってからな」


「クソみたいな気分」


 俺は、はやく絵を描きたかったので早速プリントに取り掛かる。国語のプリントは漢字や四字熟語、古典の単語の意味調べばかりで、スマホで検索しながらやる。日本史と世界史のプリントは穴埋め式で、ナツオ先生が用意してくれていた教科書や参考書から探して埋めていく。俺は穴埋めが嫌いだ。こんなことやっても記憶に残らないのに、何故か教師たちはこぞって穴埋めをさせたがる。だが、文句を言っていられる立場ではないので、黙ってやるしかない。こんなクソみたいなことをやらせてきた教師たちに、どっかの鳥が糞でもかけてくれないかなと思った。


 俺はふいにナツオ先生が気になって、ちらっと隣を見る。先生は小説か何かを読んでいた。準備室や職員室に戻らず、ずっと隣に居てくれることが何だか嬉しかった。他の教師だと、どっか行けよと思ってしまうはずなのに、ナツオ先生には思わない。ナツオ先生は、傍に居るようで居ないような、そんな感じがして居心地が良かった。


 俺は全てのプリントを終わらせてから、持って来たおにぎりを食べた。ナツオ先生もおにぎりを持ってきていた。そして、絵を描いた。ナツオ先生は、俺が助言を求めるといつも新しいことを教えてくれたり、少し変わった視点からコメントしてくれた。さすが、美術の先生だ。でも、助言を求めない限り一切口を出さない。俺は、人の作品にあれこれ口を出して、自分の作品にしてしまう美術教師がこの世で一番嫌いだった。だから、高校の選択授業では美術を取らず、アトリエに通っていた。でも、ナツオ先生に教えてもらえるなら、授業を取ればよかったなと少し後悔した。


「ナツオ先生、俺美術系の大学目指そうかな」


「ええやん、目指すことは誰でもできるんやから」


「絵を仕事にするってやっぱり狭き門ですかね」


「そうでもないよ、意外と色々あるで」


「ナツオ先生は、高校生の時から美術の先生になりたかったんですか?」


「いや、プロ野球選手になりたかった」


「ふははっ、嘘やん!野球してたんですか?」


「しとったよー、でも無理やん?明らかに無理やん?」


「いや、ナツオ先生の腕前知らんけど!」


「ほな、帰る前にちょっとキャッチボールでもするか?」


「軽くならいいっすよ、先生の身体が心配。腰とか肩とかばきばきいったりしないっすか?」


「知らん、この歳なってやったこと無いからな」


「うわ、こわっ、まじで無理せんとってくださいね、病院送りとか嫌ですよ」


「大丈夫大丈夫」


 俺とナツオ先生は、倉庫に置いてあるグローブと球を借りて、運動場の隅で少しだけキャッチボールをした。先生は本当にぴんぴんしていた。何日か遅れて激しい筋肉痛に襲われるんじゃないかと少し心配だが、今、楽しそうに笑っているから別にいいかと思った。 


 空が段々と茜色に染まっていく。俺たちは球が見えにくくなる前に切り上げて、ウォータークーラーの温くなった水を飲んだ。俺は、夕焼けと先生の後ろ姿を目に焼き付ける。また明日も会えるのに、なんだか寂しい気持ちになった。


「俺、英語なんて絶対使わんねんけど」


「使えたらかっこええでー?使われへんよりは絶対ええよ」


 次の日も、その次の日も、ナツオ先生は第二美術室に居た。俺は、物理の問題を解いたり、英語の単語や例文をノートに書き写し、日本語訳を書いたりした。それが終われば、絵を描いた。油絵だけではなく、デッサンも沢山描いた。こっそり、ナツオ先生の顔を描いたりもした。


「いよいよ、明日が補習最終日やな」


「花火も行く日ですよ」


「そやったな」


「学校、車で来るけどいい?」


「駐車場いつも空いてるしええよ」


「…俺、ナツオ先生に補習してもらえて良かったです」


「ワシも夏野君と過ごせて楽しい思い出になったわ、ありがとうな」


 ナツオ先生はそう言って、くしゃっと笑った。そして手を差し伸べて来る。


「こちらこそ、ありがとうございました」


 俺はそう言って、ナツオ先生の手を握った。ナツオ先生の手は温かい。握手なんて久しぶりにしたので、少し照れくさかった。


「絵、描きや。夏野君は絵描く人やで」


「なんか最後のお別れみたいじゃないですか」


「ワシ、夏野君の絵大好きやし、描いてるナツ君の表情も大好きやねん」


「照れるわ、ありがと」


「じゃあ、気つけて帰りや」


「うん、ナツオ先生も気つけて!また明日!」


「また明日、待っとるでー」


 俺は学校を出ていつもの坂道を自転車で下る。何故か無性に音楽が聴きたくなって、坂道を下りきったところでイヤフォンを耳に付けた。ゆずの『さよならバス』が流れる。爽やかで明るい曲調に反して、寂しく切ない歌詞だった。その歌詞のせいだろうか。俺は自転車で帰り道を駆け抜けながら、早すぎる夏の終わりを感じていた。


「おい夏野ー!補習に車で来る奴がどこに居んねん!あほか!」


「あっ段野先生、おはようございます」


「おはようございますちゃうねん!お前やばいぞ」


「えー、駄目っすか?昨日ナツオ先生が許可してくれましたよ!」


「はあ?誰やそれ?」


「えっ?ほら…七十歳の小さいおじいさん先生…美術の!」


「七十歳?この学校、非常勤講師でも七十歳以上の人は多分居らんで?美術の先生はあの若い女の先生しか居らんし…」


「は?居るって!絶対居るって!」


「居らんて、お前怖いわー。めっちゃ嘘つくやん」

「嘘じゃないっすよ!ちょっと待って先生、一緒に第二美術室行きましょう、絶対居るから」


「第二美術室?そんなん無いと思うけどなあ」


「何言うてんすか、ほら行きますよ」


 段野先生は何を言っているんだろう。ナツオ先生とはあまり面識が無いのだろうか。嫌な汗が背中を伝う。俺は急ぎ足で第二美術室へ向かった。


「おい、何処行くん?そこ上がったら屋上やで」


「は?」


「夏野、お前やばいぞ」


「いやいや、段野先生の方がやばいっすよ」


 段野先生は階段を上がろうとしない。だが俺は構わず上がる。踊り場の角を曲がって上を見上げると…


「無い…」


「はははっ、あかんめっちゃおもろいやん。夏野最高やわ」


「は?何で無いん…絶対あってん!だって俺…昨日までずっとここに…」


「演技せんでいいって、俺もう行くで?しゃーないから車のことは見逃したるわー」


「待って、じゃあナツオ先生は?…職員室行くわ!今日も絶対来てるはずやねん!」


「…お前そこまでする?車のことはもう見逃すって言って…」


「花火大会行くって約束までしてん、俺たち」


 段野先生はそれに返事はしなかった。代わりに、俺のことをエイリアンを見るような目で見下ろした。無駄に背が高くてムカつく。段野先生は、さっきまでは俺を散々馬鹿にして笑っていたようだが、今度は気味悪がっているようだ。俺だって気味が悪い。昨日まであったはずの教室の扉は、屋上へ出る扉に変わっていて、封鎖されていたのだ。


「こっから見て居るか?」


 段野先生にそう言われ、俺は職員室を見渡した。


「居ません…」


 タミコ先生が、段野先生と俺に気が付いてこっちに歩いてくる。


「おはようございます、誰か探してるの?」


「おはようございます、あの、ナツオ先生って来てますか?」


「ナツオ先生?ってあの美術の…ナツオ先生?」


「えっ!先生知ってるんですか!ほら!段野先生が知らんかっただけやん!うわー、良かったー」


「でも…ナツオ先生は来てないと思うよ」


「まだ来てないんや、いっつも俺より早いのに」


「いつも?…ていうか、なんで夏野君がナツオ先生のことを知ってるの?」


「え?なんでって、昨日まで補習見てくれてたんがナツオ先生やったんで…」


 タミコ先生の顔がみるみる青ざめていく。目をまんまるにして俺のことを見つめている。


「夏野君…ちなみにそのナツオ先生…どんな見た目でした?」


「えっと…小さくて、白髪頭で、笑った時目尻が皺だらけになって…くしゃくしゃで」


「…すごい…こんなことほんまにあるんや…」


「え?何が?」


「…夏野君、驚かずに聞いてね」


「はあ…」


「ナツオ先生は、四年前までこの学校で美術の教師をしてたんですよ。でも、もうお亡くなりになられてるんです」


「へえ…はあ?」


「だから、夏野君が会っていたナツオ先生というのは…多分、幽霊のようなものでしょうね」


「えっ」


「幽霊のようなって…幽霊って幽霊?」


「そうですね」


「…ちょっと意味わからんねんけど」


「そうでしょうね」


俺は全身の血の気が引いていくのを感じた。首筋につーっと冷汗が流れる。


「お前…まじか」


 隣に立っていた段野先生が、びっくりした顔で俺のことを見下ろしている。俺も多分、同じような顔をして先生のことを見上げているのだろう。しばらく二人でその場に立ち尽くしていた。その間にタミコ先生がぱたぱたとどこかに行って、何かを持って来た。


「五年前の写真やねんけど、この人で間違いない?」


「はい…ナツオ先生や」


 タミコ先生が見せてくれた写真のナツオ先生は、生徒たちに囲まれて笑っている。見ているだけで安心できてしまう、あのくしゃっとした笑顔だった。俺はこの笑顔が大好きだった。ナツオ先生と過ごしたのは、たったの四日間だけだったのに、俺の中でナツオ先生の存在がとても大きなものになっていた。


 昨日の帰り際に握手したときの、ナツオ先生の手の温もりを思い出して、胸がきゅうと締め付けられた。花火大会一緒に行くって言ったのに。また明日って、待っとるでって言ったのに。こんな急に居らんくなるなんてさすがに寂しすぎる。幽霊だったなんてそんなのあり得ないじゃないか。


 俺は職員室を飛び出して、第二美術室だった場所に向かう。そこにはやはり美術室はなかったが、あずきバーの棒と袋、ピザボックス、俺が描いた絵が散乱していた。間違いない。確かに俺たちはここに居たのだ。色んな感情が込み上げてきて、俺はその場にしゃがみ込んで泣いた。昨日まで隣に座っていたナツオ先生はもう居ない。元々居なかったのだ。



 俺は少しだけ泣いて、散らばった感情の整理をした後、散乱したゴミと絵を片付けた。そして、絵がいくつか無くなっていることに気が付いた。沢山描いていた為、何の絵が無くなっているのかはっきりとは分からなかったが、真っ赤な百日紅の絵、夕焼けを背中に浴びたナツオ先生の後ろ姿、夏蝉、小説を読むナツオ先生の横顔のデッサンが無いのは分かった。まさか、と思った。


「ん?これって…」


 最後に手に取った絵は、明らかに俺が描いた絵ではなかった。その絵は、生き生きした表情で筆を持つ俺だった。絵の右下の方にローマ字でナツオとサインがしてあった。また泣きそうになるのを堪え、まだ乾ききっていないその油絵を一番上に重ね、俺は階段を下りた。


「あっ、居った!夏野大丈夫か?」


「段野先生、大丈夫です」


「タミコ先生が、今日の補習はもういいって言うてたぞ。その代わり、ちゃんと家で夏休みの宿題してきてやってさ」


「了解」


「すごい荷物やな、それ全部絵?まさかあの階段のとこにあったん?」


「そうですよ、俺がナツオ先生と一緒に居るときに描いた絵です」


「まじか…運ぶの手伝うわ。お前車で来て正解やったな」


「ははっ、段野先生がそれ言います?」


「っていうかお前、絵上手いなあ。俺、夏野の担任やのに全然知らんかったわ」


「俺がなんも言ってなかったから。…進路、美術系の学校目指すことにします」


「おー!なんか俺嬉しいわ。いいやん、応援するで」


「あざっす」


「夏休み明けても、ちゃんと学校来いよ」


「はい」


「さすがに車では来んなよ」


「えっ!」


「えっ!ってなんやねん、こっちがえっ!やわ」


「ははっ」


「っていうか無免許ちゃうよな」


「ひどっ、学校に無免許運転で来るほど俺はイカれてないですよ」


 俺はゴミ捨て場に寄って要らないものを捨ててから、残った絵だけを車に積み込んだ。そして、段野先生に挨拶をして学校を出た。




帰り道、俺は交通事故を起こして、あっけなく死んだ。






続く





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夏の話【短編小説】 たたミ @mokumokukumo

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