夏の話【短編小説】

たたミ

第1話




一九九九年 八月某日 〈俺の話〉




 前後左右、不規則に振れながら、めちゃめちゃに行ったり来たりを繰り返して俺を煽った奴が、数メートル先にある電信柱に派手にぶつかった。


 ぼとっと地面に落ちて、ジジジ…と体を震わせて短く鳴く。太陽の日差しが、ドーナツ型の凹みが付いたコンクリートの坂道に照り付ける。もやもやと陽炎が揺らめいているのが目に見えた。あの蝉は背中に大火傷を負ったに違いない。俺はなんだかいたたまれない気持ちになり、適当な木に引っ付けてやろうと思って自転車を降りた。蝉は、俺が近づいても全く動じない。


「フェイントかけて来るんちゃうやろな…」


 俺は蝉を恐る恐る突いてみた。だが動かない。何度か突いて、止めた。蝉の足は関節が曲がり、縮まっている。


 蝉は、電信柱にぶつかったのを最後に、あっけなく死んだのだ。


「クソっ」

 俺はポケットに死んだ蝉を入れて、学校に向かった。高校生活最後の夏休みだというのに、何故学校に行かなければいけないのだろう。強制補習なんて最低だ。しかし、来なければ留年するとまで言われたので行くしかない。俺ってそんなに成績悪かったっけ?いや、体調を崩して学校を休み過ぎてしまったせいかもしれない。とにかく、俺だけ高校四年生になるなんて笑えないので、何としてでも学校へ行かなければならないのだ。


 それにしても、何故坂道の上に高校を建てようと思ったのだろうか。毎朝、この坂道を登って学校に通うのには本当にうんざりする。俺がしょっちゅう体調を崩してしまう理由は、この坂道への嫌悪感からくる精神的なものに違いない。多分そうだ。俺は真夏の直射日光を全身で浴びながら、全力で自転車を漕いだ。


「きっつ!…明日から車で来よかな」


 なんとか坂道を登り切って、学校の門をくぐり、駐輪場に自転車を停めた。駐輪場のアスファルトの上には、干からびたミミズがへばり付いている。一体こいつらは何がしたかったんだろうか。何処を目指して地面を張っていたのだろう。俺には見当もつかない。俺はミミズを避けて中庭に向かう。中庭の大きな花壇の真ん中には、血のように真っ赤な百日紅が咲いている。俺はそこでポケットから蝉を取り出し、百日紅の木の下に埋めた。


「おーい、おはようさん!」


 蝉のお墓を作り終えると、誰かの声が聞こえた。顔を上げると、駐輪場から見える二階の渡り廊下の窓から、知らないおじいさんがこっちに向かって手を振っている。


「おはようございます」


「君、補習か!」


「えっ、そうですけど」


「ほなこっちこっち!上がっておいで!」


「はい?」


 知らないおじいさんは、俺を手招きして呼んでいる。あんな教師居たっけ?今日って国語と数学だよな?俺はてっきり、いつもの吉藤先生とか、タミコ先生が補習してくれると思っていた。夏休みだし、こういうこともあるのか?俺が覚えてないだけで、あのおじいさんとすれ違うくらいはしていたのかもしれない。他のクラス、もしくは他学年を教えている教師という可能性もある。俺は階段を上がる。おじいさんは、俺が来たのを確認してから、渡り廊下を進んだ。そして更に階段を上る。三階の教室を使うのか。と思いきや、おじいさんはまた階段を上がろうとした。 


「えっ、この学校三階までじゃないんすか?この階段上がったら屋上じゃなかったっけ?」


「屋上?何言うてるんや、暑くてボケてもうたか?」


 ボケているのはおじいさんの方では?と思いつつ、俺は仕方なく後について階段を上がった。そして、踊り場の角を曲がって上を見上げると、あったのだ。階段の先に扉が一つ。教室が一つ。


「まじか!階段上ったら屋上やと思ってた」


「ワシ以外、この教室使わんもんなー」


「へえ」


 その教室は第二美術室と書いてあった。中に入ると、ほんのり油絵の具の匂いがした。何故、学校に美術室が二部屋もあるのだろうか。教室の窓は開いていて、風でふんわりとカーテンが揺れている。エアコンは付いていないが、風通りが良いので充分涼しい。俺は壁に設置されている扇風機をつけて、汗でべとべとする体を制汗シートで拭いた。


「君、名前は?」


「夏野です」


「夏野、いうんか!ワシはナツオ、いうんや!」


 おじいさんは嬉しそうにくしゃっと笑った。その笑顔を見ると、何故か心がほっとして、緊張感がするりと解けた。


「じゃーナツオ先生って呼びますね」


「ところで、それ何や?」


「制汗シートです。拭いたらスースーするやつ。使います?」


「ええの?ほな、一枚使わしてもらおかな」


 ナツオ先生は物珍しそうに制汗シートを一枚取り出し、首やら腕やらを拭いた。


「ほんまや、スースーするなあ。これええやないか、ありがとう」


「いいえ。…ところでナツオ先生って、何の先生なんですか?」


「ワシは美術や、やから夏野君には今から美術をしてもらうでー」


「えっ!まじで言ってます?俺もう帰っていいすか?」


「わははっ、冗談や。まあ美術教師なのはほんまやねんけどなー…今日は数学と国語のプリントを貰ってるから、夏野君はそれをやらなあかんらしいぞ」


「なんやーびっくりした!でも俺、プリント渡されても多分できないっすよ?」


「やからワシが居るんや」


「ナツオ先生、数学とか国語もできるんですか?」


「夏野君の為に予習してきたから大丈夫や」


「ほんまかい、ありがとうございます」


「七十歳なめたらあかんで」


「七十歳!元気っすねー、こんな暑い中来てもらっちゃってすみません」


「気にせんでええよ、家居っても暇なだけやから」


「でもお盆っすよ?子どもとか孫とか遊びに来ないんですか?」


「ワシらには子どもができやんかったからなあ、居ったら今頃ちょうど夏野君くらいの孫が居ったかもな」


「ふうん、そうなんですね…まあ、居ってもうるさいだけっすよ」


 俺は、余計なことを言ってしまったと後悔した。ナツオ先生は何も気にしてない様子で、窓の外を見ている。その横顔がどこか寂しそうに見えて、俺は少し居心地が悪くなった。さっさと席に座り、適当にプリントを終わらして帰ろうと思った。


「わからん…」


 俺は、しばらくプリントと見つめ合った結果、一問も解けずにギブアップした。


「どれがわからんのや?…あれま、どれもわからんのかいな!えらい真剣な顔つきやな思ってたら、シャープペンシル持ってプリント睨みつけてただけかい!」


 ナツオ先生はまたくしゃっと笑った。目じりがしわくちゃになっている。あどけない優しい笑顔だった。俺はまたこの笑顔に救われた。


「これはな、この式をXに置き換えるんや…そしたらこれがこうなるやろ?ほんで…こうや」


「あー!なるほど…ナツオ先生すげえわかりやすい」


「そうかい?夏野君が賢いんやでえ、やればできる子なんちゃう?」


「そうなんっすよ、俺、やればできるタイプなんです」


 俺の脳みそは単純構造だ。ナツオ先生が少し褒めてくれたことにより、嬉しくなってどんどん問題を解いた。


 時々、窓から入ってくる風に乗って、ナツオ先生の匂いが香ってくる。柔軟剤の匂いだろうか、柑橘系の軽やかな匂いがする。そこにほんのり、俺があげた制汗シートの匂いが混ざる。いつも注意散漫な俺だが、何故か今は落ち着いて集中することが出来た。数学のプリントはかなりの量で、気づけば二時間も経っていた。


「もう無理…こんなに頭使ったの久しぶり」


「お疲れさん、アイス食べるか?」


「えっ!あるんすか?食べます!」


「奥の準備室に冷蔵庫があるねん、ちょっと待っとき」


 待っておけと言われたが、俺はなんとなくナツオ先生の後に付いていった。ナツオ先生は俺よりも小さくて背中が少し丸まっていた。すごい腰の高い位置までズボンをあげていて、シャツをインしている。そのスタイルがなんだか面白い。ナツ男先生は冷蔵庫を開けて、あずきバーを取り出し俺に渡した。美術室にはベランダのような場所があり、俺とナツ男先生はそこの掃き出し窓を開けて外に出た。俺たちはあずきバーに噛り付く。冷たくて硬くて、アイスなのにぱさぱさしている。そして、ほんの少し甘い。


外の景色を見下ろすと、夏空の下に真っ赤な百日紅が咲いていた。そして、やはり蝉が煩く鳴いている。


「ワシは蝉に生まれ変わりたい」


「急にどうしたんですか、ってかなんで?」


「一生懸命生きてる姿がかっこええ」


「ああ、確かに」


「夏だけを生きれるのもええ」


「ええー、俺は冬のがいい」


「なんでや?夏野って名前やのに」


「名前とか関係ないっすよ、夏は眩しすぎる。俺まで明るくならなあかんような感じがしてしんどいなってなります」


「夏野君は蝉の幼虫やな」


「土の中が好きって言いたいんですか?」


「まだ夏を知らんだけや」


「…そうなんですかね」


「蝉って土からいきなり外に飛び出した時、どんな気持ちになると思う?」


「え?わかんないっす」


「それをワシは体験したい」


「へえ…体験したらどうやったか俺に伝えに来て下さいね」


「ええよ、伝えに行ったら夏野君の周りを五回飛び回るから気づいてな」


「ふはっ、そっか蝉がいきなり来てもナツオ先生かどうかわからないですもんね」


「ワシは多分、赤い百日紅の木に留まって鳴くと思う」


「おっけ、夏になったら毎年赤い百日紅の木を探します」


「…それにしても、ここから見える百日紅は見事に真っ赤やなぁ」


「うん、珍しいっすよね。ここまで赤いのは」


「綺麗やなあ」


「綺麗ですね…」


 雲一つない真っ青な空の下に咲く百日紅を見ていると、心のもやもやが晴れていくような気がした。風が美術室に入り込み、壁に展示されている絵が捲れる音がする。太陽の日差しが、ベランダに干されている画材道具を照らした。


「ナツオ先生」


「なんや」


「絵、描いてもいい?」


「ここ美術室やし、いいんちゃう」


 俺はナツオ先生と一緒に、油絵の具や溶き油、筆やパレット、油壺や木炭などを準備した。必要なものは何でも揃っていて、さすが美術室だ。

 俺はイーゼルにキャンバスを立てかける。そして椅子に座る。こうしてキャンバスに向かい合うのは本当に久しぶりだった。最後に筆を握った日からもう二年も経っていたのだ。


「手震えてるぞ?大丈夫か?」


「あ、ほんまや」


「夏野君は絵を描く人やってんなあ。油絵好きか?」


「高校一年の夏以来、描いてないです。好きかどうかはよくわからん」


「そうか。…なんで描かんくなったんか聞いてもええか?」


「特に大した理由はないんですよね…ある日突然、あれ?なんで俺こんな報われへんことしてんねやろ?って創作意欲が無くなった。張りつめてた糸が、勝手にぷつんって切れたみたいな感じで…それ以来、何に対しても意欲が皆無になって、絵を描くことにも他の色んなことにも意味とか価値を感じれんくなったって感じっす…」


「怖くなったか」


「…わからん」


「限界感じたか」


「…」


「ちょっと待っとれ」


 ナツオ先生はそう言って、準備室の中に入っていき、しばらくして色んなキャンバスや画用紙を抱えて出て来た。 


「この絵を見てどう思う?」


「え?…可愛い?」


「それだけか?」


「んー、正直、上手いとは思わないっす。けど…けど、なんか温かい感じがする。この柴犬に対する愛情が伝わる」


「そうやな。じゃあ、これは?」


「上手い…けどなんか寂しい感じがして、好きじゃないかも」


「ワシは好きやでこの寂しい感じが。じゃあ、これは?」


「うわ…なんか激しいな、ちぐはぐで、バランス悪くないですか?でも、俺は好きっすよ」


「ワシは、これようわからんくて怖い。あんまり見たくないわ。じゃあ、これは?」


「まだやるんですかこれ」


「これは?」


「…綺麗な女性」


「ワシの妻の若いときや、褒めてくれてありがとう」


「まじかよ!」


「まあ、そういうことや、絵とか人生とかは」


「は?」


「上手なものが良いわけじゃないやろ?一見ぐちゃぐちゃに塗りたくったように見える絵でも、傑作やと評価されることもあるし、意味のない絵に意味を見出す人もおる。どうせ好き勝手自由に解釈されるんやから、こっちも好き勝手自由に描けばいいんちゃう?意味とか価値とか無くてええねん、そういうのは人生が終わる時に気づくんや」


「…ナツオ先生、語りすぎです」


「わはは、すまんすまん。年取ったらこうなるんが嫌やなあ」


「でも、ありがと」


 俺は木炭を手に取り、頭の中にぼんやりと浮かんでいるいくつかの構図を、線を描いて具体化していく。ある程度アバウトに描けたら、筆を手に取り、暗部から油を塗っていく。次に中明部。影の部分に反射光を加える。そして明部。暗部の上から暗部、明部の上から明部を重ねて、色の深みを出していく。一番上にはハイライトを描き込む。俺は、色んな方法を試して、沢山の絵を描いてみた。まるで、今まで溜まっていた創作欲を、一気に吐き出しているかのようだった。俺は、今まで見ないふりをしていた絵に対する感情を受け入れた。やっぱり絵が好きだ。自分が本当に好きなものと向き合うことは怖い。でも、意味や価値は後からついてくるものだとナツオ先生は教えてくれた。きっと自信だってそうだ。


 今、俺は生きている心地がしている。久しぶりの感覚だった。『自分の人生を生きていないとき、人は死んでいる』といった誰かの言葉を思い出した。誰の言葉だったかは思い出せないが、俺は今まで死んでいたのかもしれないなと思った。


 そして、時間を忘れて絵に没頭してしまい、気が付けば外は薄暗くなっていた。


「えっ、やば何時?ってかナツオ先生のこと忘れてた…」


「やっと終わったかい?夏野君も一緒にピザ食べる?」


「えっ、十九時やん!ナツオ先生まじでごめん!俺のことなんてほっといて帰ってくれてもよかったのに!」


 俺はベランダで座ってピザを食べているナツオ先生の方へ行った。


「ワシ、夏野君が絵描きはじめてすぐに寝てもうてん。ほんでついさっき起きてな、なんかお腹空いたから近くにあるピザーラにピザ買いに行ってん。やから気にせんでええよ。ほれ、ピザお食べ」


「…ナツオ先生ほんまにありがと」


「どういたしまして」


「なんか、青春っぽいな。俺、学校でピザ食べるとかしてみたかったんっすよ」


「奇遇やな、ワシもしてみたかってん」


「ふはっ、ナツオ先生若いっすね」


「他にしてみたいことはないんか?」


「んー、花火見たいかなあ、でかいやつ」 


「奇遇やな、ワシも見たいねん」


「ほんまかよ!…じゃあさ、一緒に花火大会行く?金曜日に三重であるんですよ。俺が運転しますし」


「もう免許取れたんか!はやいなあ」


「俺四月生まれやから、ゴールデンウィークに合宿行って取りました」


「ほな連れてってもらおかな」


「おっけ、任せてください」


「普通、彼女と行くもんちゃうん?」


「余計なお世話です」


 俺とナツオ先生はピザを食べてから、散らかった美術室を片付けて教室を出た。夏休みの夜の学校は新鮮だ。静かな校舎の中に、ヒグラシの鳴き声が外から微かに聞こえてくる。夜とはいえ、やはり外は暑く、クーラーの付いていないあの第二美術室が、何故あんなにも涼しかったのか不思議だった。


「また明日、第二美術室で待っとるよー」


「はーい、ナツオ先生気をつけて帰ってくださいね」


「夏野君も」


 ナツオ先生が手を振るもんだから、俺も手を振り返す。そして学校を出て、坂道を下った。

 今日の夜風はやけに気持ちよく、夜空がいつもより美しく見えるような気がした。





続く



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