第17話 束の間の交流
クェインツルの家は、パン屋がある一階の裏手に渡り廊下で繋がっている。
廊下は屋根と手すりがあるが、吹き抜けになっている。敷地面積は店を合わせると他の家より少し広いが、住居スペースとしては他の家よりも狭いくらいだ。二階建てにしてそれを補っていると言えるし、二階建てを選択し維持できるくらいに繁盛していることを表している。
廊下から見上げると、二階部分の窓が開け放たれている。クェインツルの部屋だ。彼とは、宿題するにも、遊ぶにも、話すにもほとんどレストランしか出入りしていなかったから、入ったことも数えるくらいだが、二階は彼の部屋と両親の寝室くらいなので覚えている。
「お邪魔します」
一階に誰がいるわけでもなく、返事があるわけでもない。
おじさんの言葉に従って、そのまま中に入っていく。階段を上がり、部屋の前に立ってヒートは固まった。この扉をノックをして、その後…。
なにも思いつかないまま立ち尽くす。このまま踵を返そうかとも思い始めた時、ガチャリと目の前のドアノブが動き、身を隠す間もなくクェインツルが部屋から顔を出した。
「……やぁ」
何とか、声が裏返りそうになるのを堪える。
「何やってんの?」
驚く様子を見せながらも、クェインツルはすぐにじっとりとした目でこちらを見る。
「おじさんに聞きたいことがあって、そしたら、パン二人分貰ったんだ。奥にいるから一緒にって」
嘘は言っていない。一緒にとは言われていないが。
「急に来ても、散らかってんだけど」
嫌そうにクェインツルは返す。垣間見えた部屋はそんな様子は見えなかったが、嫌そうなことに変わりない。ヒートは必死で口実を探す。
「な、なら、渡り廊下でどう? 外の風も気持ちいいよ?」
何も言わずに、クェインツルはヒートの横をするりと通り抜けた。あ…、と声が漏れるヒートに彼は無表情で振り返り、じっと見つめてため息をつく。
「トイレ。そっち行くから、食ったら帰れよ」
そう言うクェインツルに、ヒートはありがとうと声をかけるが、返事はなかった。
◇
思い付きで出た言葉だったが、渡り廊下は日陰になっており、通り抜ける風は心地よく、パンの香りも混ざり食欲を誘った。
ヒートはおじさんに渡されたパンを取り出し、袋に残した方をクェインツルに渡す。ん、と短く返す彼に笑顔を向け、手すりにもたれかかり、静かにしばしパンを食べた。
不思議と、この街にきてずっと二人の間に流れていた、あの気まずかった雰囲気は今はない。クェインツルがずっと張りつめていることに疲れてしまったのか、風が紛らわせてくれているのか、穏やかな時間に感じられた。
「……本当に、勉強してるんだな」
先に口を開いたのはクェインツルだった。そのことに驚き顔を向けると、彼の目はヒートのカバンを見ていた。
「驚いた? そうだね、そのために来たんだ。クェインツルと話した後、ヨフ神父や、学校の先生とも話して……今日役場の資料も見てきた」
「……そう」
「レポートまとめたら、読んでくれるかい?」
「いや、いい」
ポツリ、またポツリと、雫が落ちるような、花びらが落ちるような、呟きのような会話。お互い言葉を受け止めているのかも分からない。ただ、無言ではなかった。クェインツルはもうこちらを向いてはいない。
そんな彼に告げる。
「でも、事実は分かっても、知りたいその人の気持ちまでは……まだ分からないんだよ。クェインツル」
「……それは、お前がよそ者だからじゃないのか? ヒルルシャント」
たっぷりの沈黙のあと、そう彼は、刺すような口調で返した。
ヒルルシャント、自分ではない自分の名前。
クェインツルの前では、自分はヒートだった。
でも今は違うと、暗に彼は告げている。
ヒートはもう変わってしまったことを調べている。その過程までは分からないだろうと、彼は言っているのだろうか。
「なら……」
言ってほしかった。君のその変化の中での気持ちを、教えてくれても良かったじゃないか。
そう口に出しそうになって、抑える。
手紙だけでも繋がっていたあの頃に、自分は彼を救う言葉を持っていたのか、何かできたのか、ヒートは自問する。今でさえ、視線すら交わせないのにと。
目頭が熱くなるのを感じる。目線を上に向けると、突然目の前に黒い塊が現れた。
「危ない!」
横からの強い衝撃。突然のことに態勢を崩す。慌ててそちらを見ると、焦ったような顔でクェインツルが手を押さえていた。
「どうしたの?!」
その様相にヒートは声が大きくなる。クェインツルがこちらを確認する。
「お前、泣いて……どっか刺されたのか!?」
さらに慌てた様子になる彼に、状況把握が出来ず、ヒートは零れた涙をゴシゴシと腕で拭う。大丈夫と応え、立ち上がりあたりを見回す。クェインツルは刺されたと言った。彼の足元に、さっきの黒い塊と思わしきそれが落ちている。
「パチパチ蜂……?」
それは確かに、ヒートの知るパチパチ蜂に見える。しかし、サイズが明らかに大きかった。
「ああ、食用の規制が入ってから数が増えやすいのか、寿命が延びたのか、こういうデカくて気性が荒いのがたまにな」
クェインツルは説明しながら叩き落とした蜂を拾い、空になったパンの袋に入れる。
「とはいっても、この蜂ともずっと一緒に生活してきたからさ。駆除とか目くじら立てずに、蜜蜂の針なんて大して毒もないし、痛いだけなら追い払えばいいってみんな意にも介してないけどな」
そう苦笑しながら、彼は右の手の平ををさすっている。
「どうしたの? 見せて」
「何でもない」
その言葉は無視して、手首を掴む。親指の付け根のところが赤くなっていた。
「刺されたの?」
「慌てて振り払ったから、手すりにぶつけただけだ。お前こそ、突き飛ばしちまったけど、どっかぶつけてないか?」
「大丈夫、おばさんのところに行って手当てしよう」
「なんでだよ」
「だめ、冷やさなきゃ」
有無を言わさず、クェインツルの腕をつかみ、ヒートは手当てに向かう。彼も渋々だったが、大人しく付いてきた。
その時、クェインツルは言った。
「何を調べたかは知らないが、こういうこともあるんだ。ヒルルシャント」
「……そうだね」
「俺も変わったんだ。だから、放っておいてくれ」
変化は良いばかりじゃない。それはヒートにも分かっている。
変わったと言う彼は、自身が変われないからこそ、願うようにそう口にしたように思えた。
よそ者には分からない。そうかも知れない。
それでも……と、ヒートは口にする。
「それでも、また君は助けてくれたじゃないか」
「ばかじゃないのか、あれは誰だってそうする」
呆れるように、疲れたように、クェインツルは応える。
それでもと、ヒートは笑った。笑えたはずだ。
「それでも、だよ」
それからおばさんの所に移動して、手当をした。じゃあ、とヒートが別れを告げると、あぁと短くクェインツルは返事をした。
まだ、いまは届かない。けれど、ヒートはあの頃と変わらないクェインツルのぶっきらぼうな温かさを感じていた。
そう、まだいまは届かない。けれど、胸に灯ったひとつの想い。祭りの日、彼に伝えよう。そして見届ける。
ヒートはそう自分の意志を確かめるように、胸元で拳を握った。
いまは届かない。だから口にはしない。でもハッキリと言える。
クェインツル、君はいまでも友だちだと。
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