第16話 友人の父
クェインツルの父親、ヒートはほとんど話したことはない。クェインツルも親父と呼んでいて、名前も覚えていない。ヒートは、彼のことが苦手だった。
蜂の巣の一階はパン屋になっていて、壁沿いと中央に設置台があり、トレイ毎に種類を揃えてパンが並べてあり、香ばしい匂いが店中に広がっている。
パンの形に独特のものはない。宝商店で小麦は外から仕入れていると言っていたから、パンもそこから伝わったものなのだろう。
よくよく見れば、このパン屋も会計は支払用のトレイに入れる形式になっている。
「こんにちわ」
販売ブースの奥に小口があり、そこに焼き窯が設置してある。近くに行き、ヒートが声を掛けると、見上げるほどの体躯の男性が屈みながら小口をくぐって出てきた。クェインツルの父親である。
彼はヒートを見やると、なんだ? と短く口にした。
「聞きたいことがあるんですが、いいですか?」
「……少しなら」
石窯を確認し、彼は頷いた。ヒートの彼に対して覚えている印象は、その巨躯に対する威圧感と無口だということだけだった。
ただ、彼が少しと言ったのなら少しなんだろう。そう感じた。
「クェインツルの改名の同意、おじさんが書いたんですか?」
要件だけ伝える。その問いに、彼は頷いた。
「どうして?」
「なにがだ?」
「クェインツルが悩んでいること、知っていたんじゃないんですか?」
「知っていたから、許可したんだ」
おじさんの反応は短い。質問の仕方が悪いのか考えていると、彼はそのまま言葉を繋げた。
「アイツは、賢いからな。俺たち親や大人から言われたことなんてもう考えて、それでもいまの答えしか出せなかった。なら好きにさせようと思ってな」
「それで良いんですか?」
「それはお前に言わないといけないのか?」
「……いえ」
少し苛立たしげに、おじさんは語気を強めた。ヒートが言葉をなくしておじさんを見つめ返すと、彼はため息をついた。
ちらりと釜を見やり、その後パンを四つ袋に入れた。
「気になるなら奥にいるから直接聞けばいい。友人なら何か違うかも知れん。昼飯もこれをついでに持っていってやってくれ」
おじさんはそうヒートにパンを手渡す時、最後に言った。
「考えてつけた名前を変えられて、何も思わない親はいないよ」
その顔は、クェインツルによく似ていた。無骨な印象ではない、思慮深く、そしてぶっきらぼうで優しい、憂いを帯びた笑み。
「すみません」
「いや、そうやってまっすぐ聞けるのは、親父さん譲りの良いところなんだろう。大事にしなさい、ヒート」
表情は変わらないが、口調は穏やかに。おじさんはまた石窯に戻っていった。
彼は名前を呼んだ。ほとんど二階に居て、会話もなかったヒートの名を。クェインツルの友人として。
「お前がいま来たことは、お天道様の導きかな」
ヒートの背に呟かれた、友人の父としてのその言葉を、ヒートは確か聞いた。
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