第9話 彼の言葉

 店を出てすぐのところに、クェインツルが壁を背にして立っていた。ジッとこちらを見ている。五歩もない距離。このままにしておくのは憚られて、ヒートは話しかけようと自分を奮い立たせた。


「久しぶり。メガネ、やめたんだね」


「……学校でだけかけてる」


 反応があったことに安堵したが、反応は冷ややかに思えた。レンズのない彼の瞳は大きいことを知る。でもそれはすぐに睨むように細められた。


「さっき……」


「憶えてないって言ったのは、悪かった。それだけ言おうと思ってな。だけど、早く街から出てけ」


 言葉を遮って、クェインツルはサッと壁から体を離し、店に入ろうとした。


「待って。おばさんが言ってた。街が変わったのを良く思ってないって」


 食い下がるように間に立ち、ヒートはクェインツルに対峙する。彼はかなり背が高くなっていて、ヒートは見上げる形になった。


「ああ、お前には関係ない。あの時はガキだったんだし。お前をどうこう言う気はない。いいから、早く出てけよ」


「良くない。僕だってこの街の今を知るって目的があって、この街に来たんだ。このまま出てはいけない。…気に入らない事があるなら先に聞きたい」


 必死に食い下がる。クェインツルは舌打ち一つ。ヒートの肩を掴んで横に払った。よろけて入り口までの道がひらく。


「……じゃあ、何で調べる必要があるんだ? 何で街が変わる必要があったんだ?」


 進もうとせずに、クェインツルはヒートに問いを投げ掛けた。


「僕はまだ学者の駆け出しにもなれてないけど…。調べることで、この街の人が自分の街のことをもっと知ることができる。それに他の多様な文化を広く知ってもらうことができる。それに街は何もしなくても変わったよ。変わらないものなんてない」


「それを信じろと?」


「事実だよ。あの時父さんがやったことも、僕がこれからやろうとしてることも。手を加えることじゃない。父さんが、僕がやっている学問は、調査・記録・保存・解明が目的であって、変化させる手助けはしない」


「……もういい、解った。解らないことが解った。話したくない」


 クェインツルはまた店へ体を向けた。


「クェインツル!」


「もういい! なら呼ばれない名前になんの意味があるか教えろよ。なぁ、ヒルルシャント!」


 強い口調。けれどクェインツルは、感情を籠めない瞳をヒートに向ける。

 この地方では珍しい、ジットリとした風がヒートの頬を撫で緊張させる。


 呼ばれない名前の意味。彼は確かにそう言い、ヒートをヒルルシャントと呼んだ。変化の途中にあるこの街で、いったいクェインツルは何を感じているのかヒートには解らない。

 ただ立ち尽くすしかなかった。


「待って…」


 ヒートはそれでも言葉を紡ぐ。その様子に、クェインツルは苛立たしげに舌打ちをした。


「手紙、返事来なくなって、心配していたんだ。会えて良かった」


「っ! なんだよそれ」


 驚いたように目を見開き、彼は扉の向こうに入っていった。

 結局チナツが店から出てくるまで、店の扉にクェインツルの残像を見つめていた。パンのいい匂いがチナツが開いた店の扉から届く。

 会えて良かった。手紙を返さなくなったのは彼からなのに、心からそう思った。

 当時自分だけで会いに行くには、まだヒートは子どもだった。そのままになっていた後悔が、八年で薄れた感覚が、また湧き上がるのを感じる。

 ヒートは店の中までクェインツルを追い掛けたい衝動に駆られたが、今は意味がないと抑えた。

 ここには居られないから、チナツとそのまま教会に向かおうかと思った。


 でも、空は夕暮れにはまだ早い。


「学校に寄って行きたいんだけど……いいかな?」


 ヒートはただ、知りたいと思った。民俗学も、ここに暮らす友人についても。

 チナツは快く承諾した。


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