第8話 クェインツル
「メシ」
突然、低い声が背後から聞こえて体がビクッと反応した。
おばさんが、んっと反応して眉を片方上げると、
「おかえり、クール。アンタにお客さんだよ」
と、声の主に告げた。
振り向くと、背が高い青年が立っていた。
黒い髪。前髪が目にかかるくらい長い。アゴは細く、声の低さのわりに華奢な印象だ。
ヒートが見てきた彼の姿とはもう全然印象が違うけれど、どこか反抗的だが芯が強く感じられる雰囲気は、ヒートの記憶のままだった。
「ヒートちゃん、憶えてるだろう? 勉強でね、街を調べにってわざわざまた来てくれたんだ」
「……」
おばさんの言葉に、クェインツルは無反応だった。前髪の隙間からこちらを見ている目は黒く冷たい。
「憶えてない。帰れよ」
一言だけ告げて、彼はきびすを反して階段を降りていった。言葉がよく呑み込めず、反応できなかった。また三人に戻った空間が重い沈黙で満たされる。
「……ごめんね」
はじめに口を開いたのはおばさんだった。表情が暗い。けれど素早く反応して叱りそうな気性の彼女が落ち込んでいるということは、ある程度予想していたことなのかも知れない。
「クールは、憶えてるのよ。あなたのこと。引っ越したヒートちゃんから手紙が来る度に、何度も読んでたもの。忘れるわけないわ。
でもね、いま街の外の人が出入りするようになって、この街が変化するようになったことを良く思ってないの。理由は話してくれないんだけど…。
それでね、全くの筋違いなんだけど、あの子、あなたの家族が来たことがそもそものきっかけなんじゃないかって思ってるかも知れない。…黙っていてごめんね。でも、忘れてるわけがないのよ」
ごめんね。そうおばさんは繰り返した。さっきまでの覇気はなく、かける言葉が見つからない。気にしないで、それだけ告げて、ヒートは店を出ることにした。去り際にチナツに教会の宿舎について話すと、案内するから町長の家の前で待ち合わせをしようと提案してくれた。
「……アイツ、いつも暗いけど。ヒート君の家族を根に持つなんて女々しくてムカつくわね。気にすることないよ!」
小声で励ましてくれたことにチナツの優しさを感じたが、ヒートは曖昧にしか返事できなかった。
◇
八年前。転校生という言葉はよほど珍しいものだったのか、三十人程度の教室は担任の叱責を無視するほどにどよめいた。その雰囲気に気圧されて、ヒートは口を真一文字にぎゅと結んでいた。
「ヒルルシャント君だ。お父さんの都合で、一年だけこの学校で勉強することになった。まずは交流もかねて、ヒルルシャント君に空いている棚の場所などをいろいろ教えてあげてほしい。誰か…」
シン、と担任が言葉を切って教室を見渡すと、一瞬で空間が静まった。
ヒートが気圧されたように、他の生徒もよそ者であるヒートを警戒していたのだ。教室のどこにも、手を挙げている生徒は居なかった。嫌な沈黙が流れて、全員が目配せし合っている。
「席、替わって」
その時、教室の後ろの一角で声がした。何やら一人の男子生徒が、空き席の隣に位置している生徒に席を替わるよう交渉していた。すぐにそれは終わり、
「先生ここ、空いてる」
彼は空き席を視線で教師に示し、そう言った。
「クェインツルか。じゃあヒルルシャント君はあの子の隣に座ってね」
ヒートは流されるままに席に座る。
「外から来たヤツでも、名前は長いんだな」
淡々とした口調で、クェインツルは口を開いた。
ぶ厚いメガネが顔の半分を埋めている。レンズの上に前髪がかかっていた。睨まれているのかと思ったが、そうではないことは前髪をかき上げ、メガネを掛け直す仕草で知れた。
よろしくと手を伸ばしてきたので応じる。ぎゅっと口を結んでいたので、言葉は出なかった。
「それ、ホントの名前?」
彼が首を捻ったので、疑問を口にしたんだと分かった。首を横に振る。
「……ヒート」
固まった口をほぐしながら、それだけ伝えた。ふぅん、とクェインツルがレンズ越しにまたジッとこちらを見つめてくる。
「ホントに短いんだな」
「短いのかな? さっきはありがとう。クェ……クェ?」
「クェインツルだよ。よろしくヒート」
言えないヒートに、先ほどまでの淡々とした印象をかき消すほど、クェインツルは柔らかく笑った。これがクェインツルとの初めての出会いだった。それから一年は、彼とほとんどの時間を過ごした。
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