第3話 ヒルルシャント

 八年前の、この街に引っ越して来た日のことは、いまでも風景の色、音声までハッキリと思い出せる。

 この街に初めて訪れたとき、家族で町長の家に挨拶に行った。ヒートの年齢が九歳であると伝えると、すぐに隣の教会に案内された。


 教会の中は天井までが吹き抜けになっていて、建物の左右に二階までの階段があり、祭壇側をよけるようにコの字型で通路が設けてある。礼拝時に人が多い時の行き来や、二階で歌えるようにかもしれないが、昇るのがためらわれるほど古い。

 足音が消えない布みたいに薄い絨毯が敷かれ、正面には十字架と教壇、ステンドグラス。ステンドグラスは正面の丸窓一枚で、あとは普通のガラス戸だった。


 町長は神父となにやら相談し、ヒート達をイスに座らせて待たせた。相談が終わると神父はヒートを教壇の前に呼んだ。一度裏に行き、神父はタライに水を入れて持ってきていた。修道女も二人増えていた。


「服を脱いでもらいます」


 神父はサラリとそう告げた。二人の修道女がヒートの衣服を脱がそうと近づいてしゃがみ、手を伸ばしてきた。驚いて両親のもとに飛んで逃げると、今度は両親ごと呼ばれた。


「この街で暮らす前に、お二人のお子さんはまだ十歳に満たないので、儀式を行わないといけません」


 そう両親に切り出した神父の言い分は幼い頃はサッパリ解らなかったが、成長してから父親が教えてくれたのでもう理解している。あの時神父は、両親にこの街の風習についてこう説明した。


 古来より、人は生まれてすぐが最も清く、故に弱い。

 数十年前までは、まだ生まれた赤ん坊が全て成人を迎えられるわけではなく、その割合も低かった。

 その育たなかった子どもは邪なモノに魂を喰われてしまうからだと思われていた。

 なのでこの街では生まれてすぐに聖水の産湯で身を清められる。その産湯には名付けられる名前を綴った紙が溶かされる。


「聖水と命名により、この世への最初の抵抗力を身につける」


 という文句で、出産の立ち会いには、夫や親族の他に医師と神官が同席する。ヒートは成長してはいるが、十歳に満たないので名前の洗礼を受けないといけないと神父は告げた。


「真名を溶かした聖水で体を拭い、ヒート君を清めます」


 そう説明を締めると、再び修道女たちがヒートの服を脱がしにかかった。あまりのことに泣いてぐるぐると教会内を走って逃げた。古い階段にも昇り、ぎぃぎぃと音を立てるのも構わず。だがしばらくして疲れたヒートは、絶対しないといけないことだと父に説得され最後は抵抗しなかった。


 全裸にされ、聖水を浸した白い布で全身を丁寧に拭われたあと、服を着る間もなく神父は呪文のような祈りのような言葉を口にしはじめた。ひとしきり言葉を並べると、神父は額に汗を浮かべながら、


「ようこそ、君」


 そう笑顔をつくった。


 この街では生まれたときつけられる名前は、長く複雑で呼びにくいものが良いとされている。ヒートはこの時十歳に満たないという理由だけで、ヒートではなくヒルルシャントという名前をつけられたのだ。


 そのことが嫌でしばらく抵抗したが、一人の意見よりも街の風習の方が強かった。両親からもなだめられ、ヒートは一年間ヒルルシャントとここでは呼ばれ続けたのだった。


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