第8話 東の横綱。


“犬が来た”


その日、開店後の朝一番に、ヒカルからラインが届く。


犬とは、異臭を放つ、ひかるの店の常連客のおっさんである。


ホールスタッフ達も、毛嫌いをしているが、ひどい異臭のため、俺も嫌いである。


だから、俺とかち合わないよう、ヒカルは俺に、犬、来店情報をくれていた。


そこで俺は、犬の居る、モーニングタイムは避け、ランチタイムに行くことにした…。



昼の0時〜1時過ぎまでの混雑時をやり過ごし、2時近くになってから店の扉を開く。


なぜ、その時間まで待ってから行ったのは、混雑時は、大変だから避ける…ってことも、理由のひとつだが、もう、ひとつの訳があった。


常連客の、阪口が毎日、昼の0時〜1時くらいまで、ランチを食っているからだ…。



阪口は、ホールスタッフ達の不人気ナンバー1を、犬と真っ二つに分けるほどの…西の横綱が犬ならば、東の横綱が阪口と呼ばれる常連客のこれまた、おっさんである。



店内に入る俺は、俺の為に空けてある、いつもの3番テーブルに着いた。


いつもと、従業員達の雰囲気が違う。


水とおしぼりを持ってくるヒカルに、俺は、さりげなく訊く。


お前は黙ったまま、顎で窓際のテーブルを指し示す。



げっ!!


阪口だ!!



 いや…俺としては、悪臭の無い阪口は、問題ないのだが、従業員達が、嫌悪感でピリピリしているのが伝わってくる。


これじゃ、楽しい会話も、ままならないから、俺は、阪口の居る時間は避けていたのだ。


そう、前に訊いたことがある。


ひかるは、阪口より、犬の方が生理的に受けつけない…が、カンちゃんは、違った…。

何よりも、カンちゃんは、この阪口を嫌っていた。


あの優しい、乙女の心を持ち、いつも汗を、ダラダラかいて、ニコニコしている巨漢のおにぃちゃんの、カンちゃんが、まるで親の敵の様な、険しい表情で、阪口を睨んでいる…。


俺とバカ話をしたいヒカルも、気を使って、黙っている。


俺は、阪口を観察することにした。


俺より、先に入店していた阪口に、ヒカルがランチの定食を運ぶ。


セットの、ナイフ、フォークで食い始める阪口…。


阪口はやはり、ぢぢぃである。


ハンバーグやフライは、切って、刺して口へ運べるが、ガチャガチャとうるさい。


次はライスだ。


ライスは、フォークの背に、ナイフで盛って、口に入れようとするのだが、必ず口に入る瞬間に、ポロリと落とす。


8回までは、落としても落としてもチャレンジしたが、9回目に失敗したとたんに、そのまま、ライスの皿に顔をつけて、直食いする。


脂ぎった小鼻の横に、飯粒をつけても、可愛くない。


ガチャガチャとうるさく、ポロポロとテーブルの上に…下にまでも、料理やご飯粒、付け合わせのサラダのカスまで、撒き散らし、非常に汚ならしい。


毎回、こんな調子じゃ…食べ物が大好きで、食べ物に感謝の気持ちを持っている、カンちゃんには、屈辱的な光景なのだろう。


だが、それたけなら我慢も出来るだろう…。


ガチャガチャ。


今度はフォークを落とした…。


ナイフ、フォークが使えないなら、箸もあるんだから、箸で食え!

俺だって、そう思った程のマナーの悪さだ…。


そして、落としたフォークをチラ見した阪口は、さらに、驚かす仕草をしでかした…。


カンちゃんを見て、一度、パチンと指を鳴らし、指先でカンちゃんを呼んだのである…。


笑いたいような、ムカつくような不思議な感情が、俺に生まれる。


カンちゃんは、怒りを押さえるために、ギュッと握りこぶしに力を込め、阪口の卓へ行く。


阪口は、落としたフォークを、顎で指し、カンちゃんに拾わせ、新たなフォークを運ばせた…。


そして、なんとか、ランチを平らげて、食後のコーヒーに手を伸ばす前に、阪口は、紙ナプキンを広げた。


そして、おもむろに、入れ歯をはずし、コップの水でゆすいでから、ナプキンの上に置く…。


げっ!!


食い物屋で、それをやっちゃいかんだろ!!


そう、これこそがカンちゃんを怒りに震わす原因なのだ!


コーヒーを飲み干し、新聞を少し読み、阪口は、席をたった…。


帰った…。


ようやく、店内が元に戻る…そう思ったのも、つかの間のことだった…。


阪口の卓へ、空の食器を下げに行ったカンちゃんは、卓の前で佇んでいる…。


テーブルの上には、広げたナプキンに、むき出しの入れ歯が、生臭く、忘れ置かれていたのだった…。

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