僕の家族 (ルスside)

元の場所から逃げ出す場面。

親から虐待されていた時の回想。

親から暴力を振るわれる。家の外からは、時々楽しそうな女の人と子供の声が聞こえる。子供は女の人を「母さん」と呼んでいた。

あぁ、そんな親子の関係もあるんだな。

僕はその二人が羨ましくて仕方がなかった。

どうして僕は、親に愛されなかったんだろう?

僕の何がいけなかったんだろう?

必死に走り、やがて周りの景色は建物から山の中へと変化した。

ここまで来れば、きっとあの人たちは追ってこないだろう。でも僕はあそこから少しでも遠くに離れたくて、足を止めなかった。

やがて力尽きて倒れる。雪が痛いほどに冷たい。


このまましぬのかな。

いやだなあ。

でも、いたくなくなるのはいいな。

ぼくは…………。


目が覚めると、僕は知らない場所にいた。

あそことは違って、ふかふかのソファ。

暖炉の火がパチパチ鳴って、あったかい。

起き上がると、誰のかわからないコートがパサリと床に落ちた。

「あっ……。」

拾おうと動いた途端、ドアがガチャッと開いた。

思わずビクッと体が揺れた。

ドアから現れたのは、何やら色んな物を抱えた知らない女の人だった。

誰?

その人は笑って、そのまま僕の方に近づいてきた。

「気がついたのね、良かった。あなた、山奥で倒れていたのよ。」

いっぱい持ってるけどあれは何?この人は僕に何をするつもり?

警戒していると、女の人……イルニアは話し始めた。

どうやら僕はあのあと意識を失って、この人に拾われたようだ。

悪い人では、ないのかな?でもまだわからない。

突然服を脱げと言われてびっくりした。しかしその後の「あざ」という言葉に体が強張る。

他の人に体を触らせるのは嫌だな。この人は暴力を振るうつもりは無いみたいだけど、それでも少し怖い。

逆らったら怒るかな。言うことを聞けって怒鳴るかな。動けないでいると、イルニアは僕にタオルを差し出して優しく言った。

「自分で拭ける?」

なんで?怒らないの?この人の事よくわからない。

でも、自分でできるならその方がいいな。僕はタオルを受け取った。イルニアは服も用意してくれたみたいだった。

イルニアが見えなくなってから服を脱いで体をふく。タオルはすぐに汚くなって、何度か自分で洗った。お湯はすごく気持ちが良かった。用意してくれた服はかなりぶかぶかしていた。

着終わってすぐ、イルニアが現れた。なんだか美味しそう匂いがして、自分が空腹だってやっと気づいた。

イルニアがテーブルに並べていたのは料理だった。

いいなぁ、美味しそう。そういえば今日は朝から何も食べてなかったな。

イルニアは僕に薬を塗りに来た。怖かったけど、薬の塗り方はよく知らなかったから我慢した。強く握られたり引っ張られることは無かった。むしろ、すごく優しく触れてくれた。

薬を塗り終わり夕食にしようと言われて、戸惑った。

僕も食べていいの?本当に大丈夫?

テーブルから絶えずに漂ってくるいい匂い。

食べたい気持ちと、まだこの人を信じきれない気持ちがせめぎあう。

その時、ぐぅと僕のお腹が鳴った。

ドキリとした。元の場所みたいにうるさいって殴られる?だけどこの人はそんなことしなさそうだし……。

そう思っていたとき突然頭に手が乗せられ、びっくりして後ずさった。

さっきのは何?髪の毛を掴もうとしてた?

怯えて女の人の驚いた顔を見て、背筋が凍った。

あ、しまった……。不機嫌にさせた?今度こそ怒らせた?どうしよう、どうしよう。

「きゅ、急に撫でてごめんなさい。あなたを傷つけるつもりは無かったの。」

イルニアは焦って言った。

え……。撫で、て……?あれは、撫でてたの……?いつもと違う感触だったのは、そういうこと?

そっか、撫でられたんだ……。僕、撫でられたの初めてだな。

ちょっぴり嬉しかった。


テーブルの上には二人分のスープが並べられていた。


まだ湯気が出ていて温かい。スープに明かりが反射して、キラキラ輝いているみたいだった。

食べるのが楽しみなんて、いつぶりだろう。

イルニアが食べるのを見て、僕も食べ始める。

スープを一匙掬って、口に入れる。

おいしい。

あっさりした味。甘いニンジン。柔らかいキャベツ。ホクホクしたじゃがいも。

温かいスープが空っぽのお腹に染み渡る。

こんなにおいしいものを食べたのは初めて。

それからは食べるのに夢中だった。


食べ終わると体がぽかぽかしてきて、何だか心地よかった。そうしてそのまま……。


目が覚めると、知らないベッドの上だった。

あれ、僕、いつの間に寝てたんだろう。

カーテンの隙間から空が見えた。

もう朝か。

外の様子が気になってカーテンを開けてみる。ズキンと腕が痛んだけれど、昨日ほどじゃなかった。

……青い。

窓の向こうには、大きな空が広がっていた。その下は一面の森林だった。

僕は、真っ青な空に目を奪われた。

元の場所では外に出してもらえず、家の中が僕の世界の全てだった。外の情報といえば時折聞こえてくる声や音だけ。そこから逃げ出した時だって必死に走っていて空を気にする余裕なんて無かったし、そもそも雪が降って空は雲に覆われていた。だから、空がこんなに青いなんて知らなかった。

きれいだなぁ。ここに来てからは初めてのことばっかりだ。

しばらく空を眺めていると、ノックが聞こえた。イルニアだ。朝食ができたらしい。僕はイルニアのあとをついていった。


それから二週間くらい経った。

イルニアはあの人たちとは違っていつも僕に優しくしてくれる。初めの一週間くらいはまだどこか怯えが残っていたけれど、だんだん暮らしに慣れてくると自然に笑う回数が増えてきた気がした。ここの生活が楽しくなってきて、イルニアもそんな僕を見て嬉しそうに笑っていた。

……だから、いつの間にか勘違いしていたんだ。僕はずっとここで暮らすのだと。


イルニアから人里に戻るべきだと言われて、僕はショックを受けた。そして、やっと思い出した。僕は倒れていたところをイルニアに助けてもらった、ただの居候だと。ここに残る選択肢もあるとイルニアは言った。僕だってそうしたい。でも、迷惑じゃないだろうか。本当はイルニアは僕がいて嫌だったんじゃないだろうか。人里に戻ることを勧めるんだから、そうでしょう?だったら、僕はここを出た方がいいのかな?

ふと、捨てられるのだろうか、という考えが浮かんだ。

違う。そういうことじゃない。捨てるとかじゃなくて、僕がここにいさせてもらっていただけ。それなのに捨てられるだなんて感じるのは、ひどいじゃないか。

感情がぐちゃぐちゃで、よくわからなくなる。

色んな考えが浮かんでは消える。


嫌だな。……イルニアと離れるのは。


そう思った瞬間、はっとした。

あぁ、そっか。そうだったんだ。

僕はこの生活が送れなくなるのでも、捨てられるのでもなくて、イルニアと一緒にいられなくなるのが嫌だったんだ。

いつの間にかイルニアが大好きになっていたんだと、この時初めて気づいた。

「僕がここにいるのは嫌?」

イルニアにそう訊いてみた。

イルニアが嫌でなければ、僕はこの人とずっと一緒にいたいな。

「いいえ、嫌じゃないわ。むしろ、あなたといてとても楽しい。」

僕の好きな笑顔で、イルニアはそう言った。

「じゃあ、ここにいる。」

「本当にいいの?」

「うん」

「人間の社会から長い間離れすぎると、戻ったときに馴染みづらくなるかもしれないのよ?」

「それでも、僕はあなたといたい。」

僕はまっすぐイルニアを見た。

「わかったわ。これからも一緒に暮らしましょう。」

何だか、その声は少しほっとしたように聞こえた。

嬉しかった。

これで一緒にいられる。

「それから、私を『あなた』と呼ばなくていいのよ。イルニアって呼んでちょうだい。」

そう言ってイルニアは頭を優しく撫でてくれる。

「うん、わかった。」

急に、いつかの親子を思い出した。

イルニアはあの女の人みたいだな。そういえば、子供はその女の人をなんて呼んでたっけ。……あぁ、そうだ。たしか……


「かあさん。」


勇気を出して、そう呼んでみた。

どんな反応をされるかドキドキしたけど、イルニアは一瞬驚いて、ふわりと笑った。今まで見たどんな笑顔よりも嬉しそうだった。

イルニアはぎゅっと僕を抱きしめて、「えぇ、私はあなたのかあさんね。」って言った。かあさんは温かくて、いい匂いがした。

「かあさんも、僕に名前をつけて。」

かあさんは、いいの?と訊いた。

勿論。だって、僕のかあさんだもの。かあさんにつけてもらいたいな。


「ルス」


僕はハッと顔をあげた。

「あなたの名前は『ルス』よ。」

「……ルス。僕の名前は、ルス。」

僕の大切な名前。かあさんがつけてくれた、僕だけの名前。

「ありがとう、かあさん。」

僕はかあさんに抱きついた。

今までで一番、幸せだった。

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