第5夜 デリヘルで働いていた時の話 1
これは私が自衛隊を辞めた後、某県の、仮にA市とでもしておきましょう。そのA市で営業していたデリヘルのスタッフとして働いていた時の話です。
ええ、そうです。
ま~た平成の時の話なんです。
「令和怪談」なんてタイトルでスイマセン。
当時、暇してぷらぷら地元の友人なんかとちょいちょい呑みになんか行ってた私に対し、久しぶりに再会した友人のK君が「短期でいいなら良い仕事があるんだけど……」と紹介してくれたのが今回の舞台となるデリヘル店だったのです。
K君もA市のデリヘルでボーイの仕事をしていたそうなのですが、何でも別の店舗でスタッフの方が病気で長期入院となって人手が足りないという事で私に話が回ってきたようなのです。
別の店舗といっても系列店とかそういうわけではなく、何の繋がりも無い、ただの同業他社という事ではありましたが、K君曰く「梶さんって人がメチャクチャ良い人だから」と私を安心させようとしていたのが印象的ではありました。
とりあえずK君から話を通してもらって、それから私も自分のスマホでその店舗に電話をしたのですが、私が「ザッシュと申しますが……」と切り出すと、向こうもすぐに「ああ、はい! Kさんから聞いてますよ。私、梶という者です」と中年男性の気さくな声が返ってきて、私は胸をホッと撫で下ろしたのを憶えています。
K君は梶さんの事を「良い人だから」と言ってはいましたが、それでもやはり私の中ではK君の事も風俗店勤務のアンダーグラウンドな世界の人だと思っていたのでその言葉もある程度は割り引いて考えていたのですが、電話で聞いた梶さんの声は気さくで、愛嬌もあって、しかも「電話代がかかるから今、こちらから折り返すね」という気配りもあって。
私も色々と職を転々としておりましたが、梶さんほど「良い人」というのは今になっても思い浮かびません。
そんなわけで胸の内にあった不安も無くなった私に梶さんは条件面など色々と丁寧に説明してくれて、とんとん拍子に話は進み、私も無職の身軽な身とあって電話した翌々日からの出勤が決まったのでした。
そして初出勤の日、某県の県庁所在地であるA市の駅の近くで待ち合わせした私の迎えに来てくれたのもまた梶さんでした。
季節は残暑厳しい9月の初め。
長身ながら痩せすぎの体躯は人に警戒心を抱かせるにはあまりに貧弱で、面長ながら整った顔だちに総白髪の頭髪は綺麗に刈り込まれていて渋い顔でもしていればロマンスグレーのイケオジといった風情だったのでしょうが梶さんは常にニコニコと人の良さを前面に押し出したような笑顔。
いや、もしかすると梶さんが仮に真面目な顔をしていようとその頬や鼻の頭が酔っぱらいのように赤くなっていたために三枚目にしか見えなかったかもしれません。
梶さんは別に前の日の酒が残った状態で仕事に出てるとかそういうわけではなく、皮膚が薄くて日光に負けちゃって夏はいつもこうだと言っておりましたが、いずれにしてもそんな赤ら顔が彼の親しみ易いキャラクターに寄与していたのは間違いありませんでした。
それから私は梶さんの運転する車で事務所の入っている古めのマンションに案内されて、それから「長旅で疲れたでしょ?」とコーヒーを頂いてから仕事の説明をして頂きました。
事務所でパソコンや紙のファイルとともに仕事の説明の段になって、私は梶さんの意外な一面を知る事になったのです。
彼の外見から、そしてコーヒーを頂きながらの雑談で彼は陽気で気さくな人物だというはもうこれ以上ないほどに分かっていたのですが、私はこういう人物は仕事に対してはなあなあで済ますタイプ。他人に優しいけれど、自分にも甘いタイプかと思っていたのですが、そうではなかったのです。
「あ、ザッシュ君はパソコンは使えるかな?」
「ええ。……はい、このくらいの入力でしたら大丈夫です」
パソコンデスクに座った私に梶さんが聞いてきた時、私は画面に表示されていた表計算ソフトのあちこちにカーソルを合わせてクリックし、そこに使われている関数などが自分でも分かるものだと確認しながら答えましたが、彼は私の様子をしっかりと見て、私が何をしているか理解して話を続けているようで、なんというか新人として彼の指導は安心できるものでした。
「ザッシュ君もデリヘルはよく使うっていうから分かるとは思うけど……」
事務所のパソコンデスクにはパソコン本体とマウスとキーボード、お客様から電話が入ってくる携帯電話、それからファイルに入れられた各種書類に2枚か3枚のバインダーに挟まれた当日の女の子たちの稼働や予約の状況を記した紙。
それらは梶さんの説明ですぐに理解できる合理的なもので、それらの形式を整えたのも梶さんだという事で、私はすぐに誤解に気付きました。
梶さんは人に優しいのも確かでしょうが、仕事は仕事でキッチリとするタイプの人だったのです。
毎日、バインダーに入れてデスクに置かれているキャストの稼働状況を記した紙もそう。
もちろん、同じものをパソコン上でも管理しておりましたが、お客様との電話の最中でもすぐに確認できるよう梶さんは毎日、営業開始前にプリントアウトしておいていたのです。
それから女性キャスト。
ええと、他の店舗は知らないのでヨソはどうなっているか知りませんが、そのデリヘル店では実際にお客様の元へ派遣されて接客する女性を「キャスト」、梶さんや私のような受付や女の子をお客様の元へと送りつける男性従業員を「スタッフ」もしくは「ボーイ」と呼んでおりました。
もっとも男性従業員を「ボーイ」と呼ぶのはオーナーだけだったのですが。
で、梶さんは事前に女性キャストたちにメールで新人スタッフが入るという事を周知していてくれたようですし、事務所を待機場所として使うキャストたちが出勤してくるたびに私の事を紹介してくれたのです。
その際に梶さんは胸元のポケットに入れてある手帳に、私の事を誰に紹介したか、まだ誰に紹介していないのかと几帳面にメモを取っているくらいで、私はその真摯さに感動し、風俗店の従業員に対してステレオタイプな先入観を持っていた事を恥じたくらいです。
オーナーなんかは「アンタに仕事憶えてもらわな自分が休み取れないからだろ~」なんて言ってカラカラ笑ってはおりましたが、私には彼の仕事に対する真摯さ真面目さはそれだけだとはどうしても思えませんでした。
さて、その店舗では男性スタッフは梶さんの他に1人が闘病のため長期入院、他にパソコンアレルギーを自称するドライバー専任の中年男性しかおりませんでした。
60手前の女性オーナーも暇なのか毎日のように事務所に来ておりましたが、彼女は自分の店だというのに(少なくとも表面的には)滅多に仕事はせず、いつもテレビで出勤前にレンタル店で借りてきたDVDを観ていたくらいで、誰もいなければ電話に出るくらいはしてくれるのですが、逆をいうと梶さんがいない時に私がトイレに入っている時ですら「電話、鳴ってるよ~」とソファーから動かないくらいなのです。
そんなわけで闘病中のスタッフが緊急入院してから梶さんは2週間以上も休みを取れていないらしく、そんな疲労の溜まった中でも仕事に手を抜かず、業界未経験の新人を邪険にせずに真摯に指導してくれた梶さんには今でも頭が下がる思いがします。
「梶さん、大変っスね」
「ははは。だからザッシュ君が来てくれて大助かりだよ」
「でも一時的にでも女性キャストを事務側に仕立てようってのは考えなかったんですか?」
「ん~……。どうだろね? 長期でならその手も良いと思うけど、短期でその人にはキャスト側に戻ってもらうわけでしょ?」
梶さんの話では、女性キャストが一時的にスタッフへ、お客様へキャストを割り振る側に回ってから、それからキャストの側に戻るとキャスト同士の人間関係が悪くなっちゃうんじゃないかという事でした。
梶さんが毎日、その日に出勤するキャストをまとめておく紙には1枚につきキャストが6名、それが曜日により出勤数の変動はありますがそれらを挟んでおくバインダーが2枚か3枚かというくらいですから、当然ですが出勤してきても1人もお客様が付かない、いわゆる「お茶引き」という状態だってありえるわけです。
キャストには保証額といって出勤してきたら最低でもこのくらいの一定の額を渡すようになっておりましたが、それでもお客様が付かなければ実入りは伸びません。
仮に一時的に女性キャストをスタッフとして使ってしまうと、お茶を引いてしまった方なんかが「私にわざと客を付けないで、自分と仲の良い子を優先しているんじゃないか」と邪推されて、そしてキャスト同士の関係に戻ったときに待機室がギスギスするんじゃないかという事です。
デリヘルというのはどこかから何か物を仕入れて、それを売るという商売ではなく、女性キャストの良し悪しこそ繁盛の決め手というわけで梶さんの気配り、配慮は特にキャストへの対応に向けられていたように思います。
そういえば梶さんはキャストの事を一度たりとも「女の子」とか呼んだ事がなかったように思うのも、彼なりのデリヘル業界哲学のようなものだったのでしょう。
……まあ、オーナーなんかは普通に「若い子だからしょうがないよ~」みたいなミスをしたキャストを小馬鹿にするような事を言っていたのですが。
さて、そうやって私は梶さんの熱心な指導もあり、すぐに仕事にも慣れ、4日後には梶さんも久しぶりの休みを取れるようになったほどです。
もちろんお金関係の事はさすがにオーナーにやってもらうように言い包めていたわけですが、それでもお世話になっている梶さんが休みを取れるようになって一安心というか仕事には真面目な梶さんに認められたようで嬉しかったというか。
そんなこんなで瞬く間に1週間ほど過ぎていった頃でしょうか?
私は仕事中、ここしばらく気になっていた事を梶さんに尋ねてみる事にしました。
事務所のパソコンデスクの右手側の壁面。そこのコルクボードにはA市と近隣の市町村の地図が張られ、ラブホテルやビジネスホテルなんかの情報が一目で分かるようになっていました。
それも電話しながら直感的に位置情報を把握し易いようにとの梶さんの配慮でありましたが、私にはどうにも腑に落ちない事があったのです。
デリヘルを利用した事がない方には分からないと思いますので説明いたしますと、デリヘルの料金は基本的には時間別のコース料金、他に指名料や各種オプション料金など。
他に遠い場所への派遣の場合には遠方出張料金なんてのもあります。
たとえば私が働いていた店舗の場合はA市内の場合は出張料金は無料。A市に隣接している市町村の場合に+1,000円を頂いておりました。
そして、これも大都会に住んでいる方には分からないかもしれないので説明しますが、A市のような地方都市の場合、ラブホテルは繁華街にあるようなものと民家もあまりないような僻地にあるようなものと二極化しているものなのです。
そして問題のホテルもB村との境界に近い雑木林の中にありました。
しかしB村に近いとはいえ、件のラブホテル「〇×(仮)」は住所的にはA市内。
店のシステム的には本来は出張料金は無料のハズ。
しかし、何故か「〇×ホテル」だけはA市内にあるというのに+1,000円の出張料金を頂くようになっていたのです。
私も最初は市内とはいえ、あまりにも遠い場所にあるからかとも思いましたが、B村近くには他にも数件のラブホテルがあって、中には〇×ホテルよりも遠い所もありました。
ですが追加料金を頂くようになっていたのは〇×ホテルだけ。
「ああ、ザッシュ君にはまだ言ってなかったっけ? ゴメン、ゴメン。……実はね、〇×ホテルは出るんだよ」
私がその事について聞くと、梶さんは両手を胸の前に出す古式めかしい幽霊のジェスチャーをしてみました。
さも暇な平日の日中の雑談とばかりに梶さんはいつもの人懐っこい笑顔を私に向けてはおりましたが、一瞬だけ彼の顔に険しい表情が浮かんだのを私は見逃しませんでした。
「何年前の事だったかなぁ~。あの〇×ホテルでホテトルのキャストさんが客に殺されるって事件があってね……」
「ホテトル? そりゃまた随分と古い……」
「あはは。そうだよね。ザッシュ君はホテトルって使った事ある?」
「1回だけ。盛岡駅近くのラブホ近辺の電柱に電話番号書いてた広告が張ってあったので。でもすぐに無くなった気がしますね」
「あ~、年代的にはそのくらいかな?」
ホテトルというのはデリヘルと同じく派遣型の風俗店ですが、「ホテル派遣のトルコ風呂」の略でホテトルという事からも分かるように、いわゆる本番行為を含む完全に違法な営業形態であり、適法のデリヘルに淘汰されるように消えた風俗店だと私は認識しておりました。
つまり梶さんの言う殺人事件はそれほど古いものだという事です。
「どうも僕も噂でしか知らないんだけど、その事件に店側にも落ち度があったようでね。それからデリヘルみたいな派遣型のお店のドライバーとかスタッフにだけ見える幽霊が出るようになったんだよ」
「まあ、幽霊にデリヘルとホテトルの区別を付けろって言う方が無理でしょうからね。でも殺人事件に店の落ち度ってどういう事です?」
「ああ、なんでも被害者となったキャストさんは犯人となった客にNGを出していたみたいなんだけど、それを忘れて派遣しちゃったみたいで……」
私もパソコンで管理しているお客様の電話番号のデータベースの中に「(キャストの名前)NG」だとか「(キャストの名前)90分以上はNG」と記載してあるのを見た事がありました。
デリヘル店のキャストからNGを食らうとなれば、読者諸兄の皆様は本番行為の強要なんてのを思い浮かべる方も多いかもしれません。
ですが、少なくとも私が努めていた店舗においてはそれはキャストがNGを出すというより、店として出禁という形にしておりました。
そんなわけで個々のキャストさんたちの判断で行うNGについては、例えば「店外デートの誘いがしつこい」だとか「体臭がどうにも受け付けない」とか、または今でいうガチ恋というヤツなんでしょうか? 「恋愛感情が重い」といったものもありました。
私の想像ではありますが件の殺人事件の犯人もいわゆるガチ恋勢のように思ったのです。
普通の生活では接点が無くてストーカーにはなれず、派遣型風俗店でしか被害者の女性との接点を持てなかったというのに、NGを食らってもう会えなくなったが果ての暴走。
どうせゲスの勘繰りに過ぎないとは分かっていましたが、どうも私にはそう思えてしまったのです。
「まあ、自分を殺した犯人が憎いという他にも、わざわざNG出してたヤバい客のところへ自分を送り届けた風俗店の人間も憎いってのも分かりますわな」
「そういうこったね。その幽霊さん、キャストやお客様たちには見えないのに、どうしてかデリヘルのドライバーには見えちゃうらしいんだ。後でK君にも聞いてみなよ、市内のデリヘルのスタッフなら皆知ってるよ」
殺人事件の犯人だけは「客」と呼び捨てにするのに、他のお客様には敬語を忘れないどころか、幽霊にまでさん付け。
これも梶さんらしい人柄を現しているようで、今、このエピソードを書いている時も頬が綻ぶのを止められません。
「それでさ。件の幽霊さん、今となっちゃ古臭いトレンディドラマに出てくるようなベージュのコートを着て、〇×ホテルの入り口、看板横に立っているらしいんだ。
私も梶さんが事務所にいる時で、専任のドライバーさんが出払っている時にはハンドルを握ってキャストさんを現場に送り届けるような事をしていたので、その近くには行った事があったのですが、〇×ホテルは国道沿いから曲がって少し入った先に入り口があるらしく、梶さんの話に出てくる入り口やら看板やらは見た事はありませんでしたが、彼の話を聞いて思わず明るい電灯の灯った看板と幽鬼のように佇む幽霊のコントラストを想像して背筋に寒いものが走ったものです。
「まあ、ホテトルとデリヘルという業種の違いこそあれど、その幽霊さんも節操ナシというわけじゃないらしく、キャストやお客様には何の悪さもしないみたいなんでね。そういうわけで〇×ホテルのお客様から依頼が入った時にはキャストさんにはタクシーを使って行ってもらう事にしてるんだ」
「なるほど。そういうわけで遠方出張料を頂いていると?」
「そうそう」
デリヘルのキャストを呼ぶお客様というのは2種類いらっしゃって、ホテルに入る前に電話を1本入れて意中のキャストは空いているか、空いているキャストはいるか確認してくださる方にはこちらから「〇×ホテルの場合は+1,000円かかるのですが、お近くの△□ホテルの場合は出張料はかかりません」とご案内する事もできるのですが、ホテルの部屋に入ってから電話をくださるお客様にはそのような事はできません。
それに先ほども書いたようにデリヘルはキャストの良し悪しが全て。
〇×ホテルからの依頼を断るようになって、その結果、お茶を引くキャストさんが出ては「この店は稼げない」と思われかねません。
そんなわけで+1,000円の出張料では往復のタクシー代にはどう考えても足りませんが、店の利益を減らしてでも断るような事はしていないとの事でした。
そこまで聞いて私は名案を、少なくとも私にとっては名案を思い付いたのです。
「自分、以前に霊能力者から極端に霊感が弱いって言われた事あるんで、今度、〇×ホテルから依頼があった時に都合が合えば自分が行きましょうか?」
「ええ、そうなのかい? ていうか、いるの? 霊能力者の知り合い」
「ええ。高校の時の同級生ですけど」
その提案は私なりに店、というかは梶さんに対する恩返しのつもりでした。
〇×ホテルまでの往復のタクシー料金は道路状況にもよりますが4、5千円といったところ。
ショートコースでは店の利益がふっとぶほどで、これが店の人員と自動車を使えればガソリン代だけで済むのですから、お世話になってる梶さんへの恩返しだと思えば容易いものです。
それに以前に知り合いの霊能力者から聞いた話では私に知覚できるような霊はよほど力が強いか、あるいは私個人に恨みを抱いているかの2択。
今回の場合はそのいずれにも当てはまらないような気がしたのです。
「ん~、ザッシュ君がそういうなら……。でも無理しちゃ駄目だよ?」
「分かってますって。なんなら送りの時に見えちゃったら、迎えの時はタクシーでも良いっスか?」
「ははは。オーケー、オーケー! ホント、そんくらいの気持ちでいいからね」
梶さんは珍しく渋い顔をしていましたが、私の軽い調子に乗せられちゃったのでしょう。
すぐに許可を出してくれました。
それから数日後の深夜。
確か土曜だったと記憶しております。
ついに件の〇×ホテルの部屋に入ったお客様から依頼があったのです。
「ザッシュ君、ホントに大丈夫? 夜だよ? 雨、降ってるよ?」
「大丈夫ですって。ホタルさんもそんなわけで帰りはタクシーってなるかもしれないっスけど、そん時はすいません」
「え、ええ……。私は大丈夫だけど、事故には気を付けてね」
出発前、梶さんはおろかお客様の元へと向かうキャストのホタルさんまで揃って不安な顔を浮かべておりましたが、私は今こそ自分は役に立つ男だと示す時だとばかりに意気揚々と出かけていきました。
時刻は零時近く。日中からしとしとと降り続ける雨のせいでヘッドライトを付けても視界は悪かったのですが、それでも私は自分では逆立ちしたって買えないオーナーの見栄だけで買ったようなアルファードのハンドルを握ってB村方面へと向かいます。
もっとも依頼の多い繁華街近くに事務所を構えればいいものを、これもオーナーのケチで少し離れた場所に事務所があったために車を出してすぐに信号も少なくなり、私にとってはかえって信号が多くて一方通行とかもある街中なんかよりもよほど運転しやすかったくらいだったのですが、やはり問題は〇×ホテルに付いてからでしょう。
「ホントに怖くないの……?」
「まあ、見えたらそん時はそん時っスかね? それに話を聞く限り、見えちゃうだけで悪さするってわけじゃなさそうですし」
「はあ……。呆れた。でも貴方、名前は何だっけ?」
「
「ザッシュ君ね。憶えておくわ」
出発前から何度も心配するような事を言っていたホタルさん。
彼女も別に普段から面倒見が良い女性というわけではないのです。
その証拠に私が働きはじめて2週間近くたったこの時になっても私の名前を憶えていなかったくらいなのですから。
やがて県道の両脇から民家の姿は消え、雑木林となり、B村付近へとさしかかりました。
私は〇×ホテルへの曲がり角を曲がってアルファードの速度を落としました。
それは道幅が狭くなっていたというのもありますが、万が一、幽霊を見てしまった時にハンドル操作を誤って事故を起こしてしまうリスクを減らすためでもありました。
「……どう? どう? 見える?」
「ん~? 入り口のとこの看板ってアレですよね? ……さっぱりです」
〇×ホテルの周囲は目隠しのフェンスが張られ、暖色系の電灯が灯った看板に照らされた入り口がポッカリと口を開けています。
ところが私の目にはさっぱり幽霊なんて見えません。
後席からは身を乗り出してきていたホタルさんが私の横顔を覗き込んできていて、むしろ私には鼻腔をくすぐるホタルさんの花のような香水の香りにドギマギしたくらいです。
「まあ、何も見えなければこんなもんか?」
「そっスね~。何の盛り上がりも無くて申し訳ないくらいですよ」
〇×ホテルはいわゆるモーテルタイプで、車庫付きの同型の小型住宅が敷地内にずらりと並んだタイプの施設でした。
私たちは軽口を叩きながらお客様に指定された部屋の前でホタルさんを降ろして一時待機。
室内に入ったホタルさんから電話で何分のコースに入るか連絡があってからアルファードを発進させて事務所へと戻りました。
事務所が入っていたマンションの駐車場に入ると、まだ雨が降っていたというのに梶さんが待っていました。
「ど、どうだった!?」
「いや、特に。ホント、何も無かったっス」
「いや~、心配したよ」
「それより店番はどうしたんスか?」
「オーナーにやってもらってるよ」
「ええ!? オーナーが!?」
正直、私にとっては幽霊が出るとかいう〇×ホテルに行ってきた事なんかよりもオーナーが店番してる事の方がよほどの珍事だったのですが、逆を言えばあのオーナーに店番をさせるほどの事態だったという事です。
「いや、そんな事よりもザッシュ君に何もなくて本当に良かった!」
梶さんはまるで我が事のように私の無事の帰還を喜んでくれ、それが私にはとても嬉しかったのです。
たとえ長身の梶さんが差した傘から垂れてきた雨が私に直撃していたとしても。
それから1時間半ほど経ってから今度はホタルさんを迎えに行ったわけなんですが、その時にも当然のように何も無く。
店番させられてぶつくさ言っていたオーナーも、タクシー代の引かれていない料金を見てからは顔をほくほくとさせて、その日の一件は終わりました。
さて、それからしばらくしてまた〇×ホテルからの依頼があった時、なんでか今度は梶さんが行きたいと言い出したのです。
「え? 梶さんは見えるんじゃないスか?」
「いやいや! ザッシュ君に見えなかったって事はもしかしてもう成仏したのかもしれないじゃん?」
「はあ……」
そう言ってキャストさんを連れて出かけていった梶さんでありましたが、彼からキャストを送り届けたという電話が入る事はなく、それからしばらくしてから慌ただしく事務所の鍵を開ける音がしたかと思うと、ドタバタという足音とともに梶さんが駆けこんできます。
「あっ、お疲れ様で~す! 連絡無かったんでし……」
「まだいるじゃねぇか!! この野郎ッッッ!!!!」
「ぶべらッ!?」
鬼気迫る表情の梶さんは思い切り拳を振り上げて私に殴りかかってきたのです。
さすがに人の良い梶さんだけあって、人を殴り慣れていないのでしょう。
というか私が咄嗟に顔面に飛んできた拳に姿勢を落として額で迎えうったためでしょうが、私は無傷で痛い思いをしただけなのに梶さんは手首を痛めてしまったくらいです。
ですが私は梶さんに殴られた意味に思い至って今さらながらに怖くなってきました。
手首を抑えてうずくまる梶さんに恨みなんて湧いてはきませんでした。
彼には短い間ではありましたが、ずっとお世話になっていましたし、彼の人間性については良く理解していました。
梶さんは私のそれまでの人生の中でも特上の特上。上澄みの中の上澄みといっていいほどの好人物なのです。
その彼が、私の中で善人日本代表とでもいうべき梶さんが、思わず錯乱して私に殴りかかってしまうほどのものを見てしまったのです。
それは梶さんに以前、聞いただけの怪異であったのでしょうか?
それなら梶さんもかつて見た事があったらしいのに?
一体、彼は何を見てしまったのでしょうか?
その後ですぐに気を取り直した梶さんは何も語ってはくれませんでした。
私はそれから2ヵ月ほどその店舗で働いていましたし、梶さんと飲みに行く事もありました。なのに〇×ホテルで梶さんが何を見たかについてはついぞ何も語ってくれなかったのです。
読者の皆様、お願いです。
今回、私が記したエピソードで何か思い至る事がありましたら感想欄ででも私に事の顛末を教えてほしいのです。
雑種犬の令和怪談 雑種犬 @ZASSYU-INU
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