第3話 美羽のセカイ
家に着く頃には、太陽が傾いて、空も夕方の色に変わり始めていた。
「ただいまー」
わたしの家は、とあるアパートの一階部分だ。わたしが生まれる前からあるアパートだから、それなりに年季が入っている。ただ特に欠陥という欠陥もなく清潔感と部屋数もあるので、ありがたく結構いい生活を送らせていただいている。オーナーさんもいい人だし。
「あら、おかえり」
家には母さんがいた。今日はスーパーでのパートはお休みの日のようだ。買い物にでも行くのか、大きめのエコバッグ片手に玄関で靴を探していた。
「ただいま母さん。父さんは?」
「スーパーにお菓子買いに行ったわ。いつもはレジに私がいるから、行きにくいんですって」
困った人よね、と言う母さんは満面の笑みだ。わたしの両親は、時折こうして軽口を言いあったり冗談を飛ばし合ったりしてる。自分の親ながら仲のいい夫婦だなと微笑ましくなる。
だからわたしも、ちょいとばかり軽い話を始めた。いつもはこのまま部屋に行っちゃうところを。
「今日、野生のパンに会ったの。メロンパン。デパートでジェラート頼んで、持ち帰ってた」
それを聞いた母さんはあらあと笑う。
「うちのスーパーにも時々来るのよ、野生のホットドッグ。試食コーナーのウインナーがお目当てみたい」
「へえ……!」
母さんの口から野生パン目撃情報を聞くのは初めてだったけど、母さんの口ぶりは極めて自然だ。今日は晴れなんですってとか、日曜は焼き肉でもしよっかというのと同じように、なんてことないように生きたパンの話をした。
ついでに言うとホットドッグがウインナーをお求めになるのって、何というか、自然というべきなのかベタだなと思うべきなのか。
ちなみに中学のクラスメイトには、野生パンの写真をスマホで送りあってる人もいるらしい(学校内ではスマホの持ち込みはOKだけど使用は原則禁止だから、放課後学外でしているみたいだ)。
やっぱり野生のメロンパンで口がぽかんするのって、今時わたしくらいなんじゃないだろうか……。
「そのメロンパンさんの話、ゆっくり聞きたいわ。これから大喜さん捕まえるついでにスーパー行くから、晩ご飯の時にでも教えてちょうだい?」
「うん。いってらっしゃい」
スーパーに向かった母さんと入れ替わるようにして、わたしは部屋に上がった。
大喜は父さんの名前、ちなみに母さんの名前は久美。わたしの友達にはくるみという子がいるから、クミとクルミでよく言い間違えそうになる。
……あのメロンパンには名前、あるのかな。
ポークカレーとグリーンサラダのお夕飯を済ませた後、わたしはメロンパンのことを考えていた。
食後に入れたお砂糖もミルクもなしのブラックコーヒーは、インスタントだけどばっちりコーヒーの苦みがしていた。あのメロンパンの甘い鳴き声とは真逆だな。
結局母さんとメロンパンの話は、できなかった。
自室に戻ったわたしは、途端に目まいと疲労感でベッドに倒れ込んでしまったのだ。
特に珍しいことじゃない。外にいると音への警戒と緊張が家にいる時の三倍になってしまう。だから帰宅するとばったり眠り込んでしまうことがしばしばあった。
だからお夕飯も、母さんがわざわざ運んできてくれたのを部屋で食べた。お夕飯の時はテレビのバラエティー番組をBGMにする習慣がうちの食卓にはある。
ただでさえ騒がしいテレビ番組に、父さんの馬鹿笑いが重なってしまったらわたしの耳が壊れてしまう。具合悪い日限定で、だけどね。
そうじゃなく、みんなでご飯を一緒に食べてわたしもテレビで笑うことのほうがずっと多い。父さん母さんと一緒だから平気というのもある。
あの二人は、どんな暗ったいニュース速報が流れても笑い飛ばしてくれるから。
わたしが胸を張って友達といえるクラスメイトの浜松くるみは、うちの親とは違うタイプの子。だけどくるみはくるみなりのあり方で、わたしという女子中学生の心をほぐしてくれる優しい子だ。
彼女以外にもわたしの「音」のことをを理解してくれるクラスメイトは多い。
担任の先生があらかじめ説明してくれたからだ。似たように匂いや感触など、何らかの感覚が過敏な生徒を何人も受け持った経験のあるベテランで、おじさん教師ながら女子でも気楽に相談しやすい先生でいろいろ助けられている。
そう。わたしは生きにくさを抱えながらも、比較的恵まれた環境下、優しいセカイにいる。
……逆にいうと、このまま甘えていていいのか不安にもなってしまうのだ。
これから高校、大学、社会人と進んでいけば、どんどん谷崎美羽のセカイは変わっていく
ずっとこのまま甘えっぱなし、というわけにはいかない。
考えていたら頭が痛くなった。飲みかけのコーヒーカップをテーブルに置いて、再びベッドの上でぎゅっと体を丸める。
すると脳裏に、丸い体のメロンパンが浮かんだ。
あのメロンパンは、毎日ふにふにして生きてるのかな。あの子はどんなセカイに生きているんだろう。
彼らは味はわかるようだ。では音や色とか、幸せや不幸という感覚は、あの子たちにはあるのかないのか。店員さんとやり取りしてたし、まず言葉はわかるのかも。
気づいたら、頭の中はメロンパンでいっぱいになっていった。
これって、恋? なーんてね。
ちょっと気分が、明るくなった。
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