第5話 日常-4

 自室に入り、勉強机の上にスクールバッグとプリントを置く。

 自室を出て一階に降り、キッチンへ。

 戸棚からカップ麺を取り出し、二階へ持っていく。


「ほら持ってきたぞ」


 床にカップ麺を置いて、扉をノックしながら呼びかける。すると扉が微かに開き、死体のように真っ白な細腕が、しゅばっ、と一瞬にしてカップ麺を攫って行った。


「妖怪かよ……」


 ありのまま思ったことを口にすると、扉の隙間から新たな紙が出てきた。


『おゆ』

「ふざけんな。そのくらい自分で用意しろ。お兄ちゃんはもうお前を甘やかしません!」


 扉に向かって怒鳴る。束の間の静寂の後、ぼりぼりと乾麺を貪る音が聞こえてきた。


「マジかよお前……」


 扉に手を当てて項垂れる。真ん中の少し下あたりの、渦を巻くように塗りつぶされた黒いインクが目に入る。


(ここ、なにが描いてあったんだっけ)


 記憶を探るも思い出せず、流星は自身の空腹を満たすためにキッチンに向かった。


 カップ麺にお湯を注ぎ、隣接する居間で食べ始める。


 麺を啜りながら、陽詩について考えを巡らせた。


 陽詩は、三つ年下の妹だ。今年の春に中学二年生になった。

 とはいえ、彼女は一度も中学校に通ったことがない。一年ほど前、陽詩がまだ小学六年生だった頃に母さんが死んで、以来彼女は変わってしまった。


 昔は絵を描くことが好きな普通の女の子だった。小学生の頃に美術コンクールで入賞した絵は、未だに我が家の居間に飾られている。タイトルは「海辺の灯台」。まんまだ。入賞経験がない流星に自慢するような、少々生意気でプライドが高いところもあった。


 いまは部屋の中で何をしているのかわからない。時々風呂場の床が濡れているので、たまに部屋から出ているようだが、流星や父さんが家にいるときは絶対に出てこない。

 以前、ネットゲームの請求書が届いたと父さんがぼやいていたので、たぶん、ゲーム三昧の日々を送っているのだろう。


 なにも変わってしまったのは、陽詩だけじゃない。母さんの死は、十七夜月家にとって、魂の土台を揺るがすような大事件だった。

 父さんは精神安定剤を常飲するようになったし、流星自身は妄想癖が一段と強くなった。


 この一年で、流星は理想と現実のギャップが大きくなったように感じていた。ああしたいこうしたいと考えても、結局いつも動くことができない。なにをすればいいのか、なにが間違っているのか、なにがわからないのかすらわからない。 

  

 それでもなんとか社会生活を送れている流星や父さんと比べて、陽詩の負った心の傷がかなり深いことは誰の目にも明らかだ。それでも、


「いいかげんにしろよあいつ。辛いのはみんな一緒だってのに……」


 ふつふつと怒りが湧き上がってくる。胸がもやもやして、頭がムカムカする。


「いくら母さんが好きだったからって……ああ、もう!」


 怒りは、すぐに優しくしてあげられない自分への自己嫌悪に変換された。

 心に傷を負った妹と、どう接すればいいのかわからない。母さんなら、きっと妙案を思いついて陽詩を引っ張り出していたことだろう。残念なことに、今の十七夜月家にはそんな気の利いたアイデアを思いつく人はいない。


「ああ、クソ。母さんのこと思い出しちまった」


 がりがりと後頭部を掻きむしる。

 壁に掛けられた時計を見る。

 時刻は十八時半。

 明日は土曜日。

 流星は大量のスープを残し、カップをテーブルに置いて立ち上がった。


 廊下に出るも、自室に続く階段を素通りして、一階北側の部屋を目指す。

 黒塗りの扉。真鍮製のドアノブ。他の部屋とは違う、厳かな扉の前で逡巡する。

 たっぷり十秒ほど考え、冷たい金色のドアノブに手をかけた。


 扉を開くと、微かに煙草の匂いがした。

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