第2話 日常-1
いつもの朝。いつものホーム。流星の通学路、もとい電車が来た。
前から三両目。扉を潜って右手の角から一つ空けた席。そこが流星の定位置だ。
今日も
流れる景色に飽きて左隣に視線を移せば、そこには金髪ショートの女子高生。
橙色のカーディガンと、首元を赤いリボンで締めたワイシャツ。学校指定のブレザーは着ていない。
太腿を半分以上もさらけ出した短いスカートで足を組み、音漏れしまくっているイヤホンを耳に嵌め、手すりに頬杖つきながらスマホをいじってる。
この、これでもか、というくらい学校の指定に中指をぶっ立てている女子高生は、幼馴染の朝日山風香だ。
中学時代は、地味な三つ編み眼鏡っ子だったはずの彼女。
進学と共に高校デビューを果たし、いまや隣に座るのが恐いくらいの存在へと変貌した。
変わらないのは巨大に実った胸くらい。纏っている雰囲気は血に飢えた野犬のそれだ。
そんな彼女が、なぜ毎日のように隣に座るのかはわからない。
近くに座ったからといって、滅多に会話があるわけでもないのに。
「……さっきからじろじろ見てるけど、なに?」
「ふぁっ!? い、いやぁ? 別にぃ?」
その「滅多」が唐突に訪れて、慌てて彼女の胸元から目を逸らした。
音楽に集中しているのかと思いきや、風香はいつのまにか薄目を開けていた。
「なんであんたそんなによそよそしいわけ?」
「いや、別に……」
「その、別に、っていうのやめてよ」
「べ、別にいいだろ……口癖なんだから」
「はぁ……呆れた」
心底呆れたように呟く風香。
再び襖の奥を覗くように、恐る恐る彼女に視線を向ける。
今度こそ完全に目を閉じているとわかり、安堵する。
改めて見ると、彼女の横顔は向かいの窓の景色よりもずっと興味深かった。
通った鼻筋と、上向きに伸びた睫毛。成長期特有の赤みを帯びていた頬も今では白く滑らかで、どこか垢ぬけた印象を受ける。
電車が、駅に到着した。
人の入れ替わりと共に流入する空気に乗って、柑橘系の甘い香りが漂ってくる。
彼女の香りが鼻孔をくすぐり、じん、と脳が痺れるような感覚に陥る。
目の前に立つ老婆のシップと線香の香りがなければ、正気を保てそうにないほどの刺激だ。
嬉し恥ずかしい反面、居心地の悪さが半端じゃなかった。
(彼氏とか、いるんだろうか……)
下世話な疑問が浮かんだその時――――、カーブに差し掛かった電車が大きく傾いた。
老婆がよろめく。枯れ枝のような腕で吊革を掴み、苦しそうな表情をしている。
「あの、替わりましょうか?」
席を立つ流星。老婆は糸のように細い瞳を瞬かせて、やがてにっこりと微笑んだ。
「あら、ありがとう」
老婆はうやうやしく頭を下げて席を譲り受けると、手提げ鞄を膝に置いた。
それから「これはお礼よ」といって、鞄から白い帯が巻かれた札束を取り出したのだった。
「ええええ!? いやこんなにもえらえないっすよ!」
突如差し出された大金に戸惑う流星。けれども老婆は「いいからいいから」、と強引にブレザーの胸ポケットに押し込んでくる。
「流星ったらなんて優しいの! 素敵!」
隣に座っていた風香が勢いよく立ち上がり、流星の首に腕を回してくる。
むぎゅう、と大きな胸が押し付けられる。
「おわっ!」
「好き好き! 大好きだよ、流星!」
ちゅっちゅっ、と頬にキスの連打。
乗客たちが立ち上がり一斉に拍手喝采。雨あられ。
「でへへへへへへへ……」
流星がだらしなく口元を緩ませていると、「あんた、なににやにやしてんの……?」という冷めた声が耳朶を打った――――。
我に返って正面を見ると、カーディガンのポケットに片手を突っこんだまま吊革を握る風香が立っていた。
「あ、あれ!?」
スタンディングオベーションしていた乗客は、みんな静かに座っている。
老婆は、なぜか隣にいた。小さなみかんをよぼよぼの口でしゃぶってる。
「あんたまさか……また妄想してたの?」
「い、いや、そんなわけないだろ! つーかお前、なんで立ってんの?」
流星が本気で尋ねると、彼女は心底呆れたようにため息をついた。
「な、なんだよ……」
「譲ったのよ、席」
「あ、そっか」
だから隣が老婆になっていたのか、と手を打ち鳴らして納得する流星。
「そっかじゃないよまったく……あんたが代わりなさいよ馬鹿」
「べ、別に、ここ優先席じゃないし……」
「キモ」
風香の鋭い一言が胸に刺さって悶えていると、電車が目的地に到着した。
「……変わっちゃったね、流星……」
彼女はか細い声で呟き、足早にホームへ降りた。
「変わったのはどっちだよ……」
流星ものろのろと立ち上がり、ついていく。
風香は肩を怒らせて歩き去り、改札を通るころにはもう、影も形も見えなくなっていた。
「俺だって譲ろうと思ってたのに……はぁ……」
朝からげんなりしつつ、流星は学校へと向かう。
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