第4話 一番綺麗な形をあげる。
幸いにも電車は少し遅れているらしいが動いていた。雪は今も降り続いているものの、積もりそうにない。
ガランと空いた電車の中、手すりに掴まりながらあやねにLINEを送ったが返事はなかった。
揺れる電車の中、私は音楽も聞かずにただ流れる景色を見ていた。早く着いて、とそればかり願っていた。
駅のホームに見慣れた人影が見えて、慌てて電車を降りる。すぐにこちらに気付いたようで深雪が駆け寄ってきた。
「……電車、止まってなくてよかった」
深雪は私の顔を見るなり、ホッとしたような、泣き出しそうな顔になった。
「何かあったの?」
私は何か嫌味でも言ってやろうなんて思ってもいたが、すっかりそれどころではなくなってしまった。
「紗和子の家に行ったら、今日はいないって言われた。お母さんに……"デートかしら"なんて言われて……」
ホームの椅子は冷え切っていて、座っただけで体温を奪われそうだった。
「ごめん、でも深雪今年のバレンタインは何もしないっていうから……」
「何もしないなんて言ってない」
「言ったよ、"今年はいい"って」
気まぐれは今に始まったことではない。しかし、こんな風にムキになる深雪も珍しい。
「今年は……義理チョコを作らないって言ったの」
深雪はそう言って持ってきた紙袋を差し出した。
「これ、紗和子に」
「……なにこれ」
「作ったの、今年は一人で
深雪から受け取った紙袋はずっしりと重たかった。深雪の桜色の指先が小さく震えていた。それはきっと寒さのせいではなかった。
「ずっと好きだったから、紗和子のこと。15年間ずっとだよ」
「……岩井くんは? 金谷先生、佐野先生、関先輩、あとは……」
私は突然のことに頭がついていけなかった。
ーー深雪が私のことを好きなはずがない。
だって、私の知ってる野坂深雪は恋多き女だった。毎年誰かにチョコを渡して、ホワイトデーの倍返しを狙ってる。
「みんな義理だよ。だから私はいつも紗和子に一番綺麗な形を……ああ、なんで私泣いてるんだろう」
深雪の目からハラハラと涙が溢れた。マスカラが落ちちゃう、と呟いて深雪は空を見上げた。
「泣かないで、一番綺麗な形?」
「作ったチョコだよ、出来た中で一番綺麗な形を紗和子にあげたかったのに、いつもいらないって……」
深雪は泣きながら、私にもたれかかるように体重を掛けた。昔からの癖だ、映画を見てる時も、卒業式も、泣き顔を隠すように私の肩に顔を埋める。
「あれは……だって、一番出来の良いやつを本命に渡したいかと思って……」
ああ、私はなんて馬鹿だったんだろう。
思えば、深雪はいつも完成したチョコレートの中で一番形の良いものを私にくれようとしていた。
ほとんど全部割れてしまったハート型のチョコクッキーの中で、唯一一枚だけ無事だったクッキーを、彼女は私に差し出したんだ。
「いい加減、覚悟を決めたのに紗和子はいないし……デートだったらごめん」
「今更なによ、私は深雪の為に戻ってきたんだよ」
深雪の冷えた手に、恐る恐るそっと触れる。これまで何度も触れてきたはずなのに、どうして今日は怖いのだろう。
「……ごめんね、ずっと好きだったのは私の方だけだと思ってた」
いつの間にか私もつられて泣いていたらしい。深雪ももう片方の冷えた指先が私の頬に触れた。
柔らかい唇が僅かに重なった。彼女のリップクリームの香りと、香水の甘い香り。
それに混じって、焼き菓子の良い香りもする。
おそらく、深雪が一番得意な、私が一番大好きなガトーショコラの香りだった。
一番綺麗な形をあげる。 桐野 @kirino_m
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