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 翌日家庭科室の一角では、黒テーブルの上でパソコンを起動した妙崎たえざきと、プリントを配り始めた舞を中心とした合宿についての詳細な打ち合わせが行われようとしていた。霖と鈴憧は配られたプリントに目を通し、手を叩いて注目を促す舞の方へと身体を向ける。


「それじゃあ御二方、これから合宿についてと日程を説明しますので、何かあればその都度質問してください。オーケー?」

「あのあの、志絢先輩がまだ来てません!」


 早速霖が言を差し込むと、舞は「志絢には昨日電話で説明したから今日は来ないよ」と答えた。どうやら志絢は用事があるとのことで先に帰宅したらしい。

 舞は続ける。


「えー、プリントに記載されている通り、合宿は十月の第三と第四週の土日、二回に分けて行います。場所は北海道の……と言いたいところだったんだけど、底辺の部にそんな余裕もお金もないので、県内で二泊三日間行うことになります。二回に分けてだから計四泊六日の計算ね。で、練習場所は岩手県営スケート場。宿泊先はスケート場から徒歩七分の位置にある『青少年会館』です。持ち物は各自練習に必要なものと、宿泊に必要だと思うものを用意して下さい。集合場所と当日の朝の流れをざっくり説明すると、綾里りょうり駅に朝六時半集合。そこから妙ちゃんの車に乗っておよそ二時間後に宿泊先に到着、チェックイン。そこからリンクに上がって練習するって感じだけど、ここまでに何か質問はあるかな? もし日程的にこの日参加できない等あれば言って下さい。合宿は強制ではないので」


 言い終えて、メガネのテンプルを指で摘んだ舞が二人を見る。霖が手を挙げて起立した。


「はいはいはいはい! 先輩、宿泊代はいくらかかりますか!」

「二回とも、一人当たり一五〇〇円づつ徴収したいかな。その他食事代とか諸々あるけど、その辺は部費でまかなうって感じ」

「え、それだけで泊まれるんですか!? なんとまあ!」

「あはは。でも、スケート場の練習に関しては部費は回せないから実費でお願いしてるんだけど、それでも良ければってとこかな。あ、それから合宿とは言ってもスケート場を貸し切ったりしてるわけじゃないから、運が悪ければ他のお客さんがたくさんいるかもしれないけど、そこら辺はご容赦願います」

「やったやった! 人生で初めてのお泊まりだ!」


 ソワソワと喜ぶ霖に対し、舞は「遊びじゃないからね!」と強調する。ニヒヒと席に座り直した霖を見届け、次いで鈴憧が手を挙げた。


愛宕あたご先輩、」

「うん、何?」

「あの……、合宿に対しての質問ではないんですけど、ちょっと良いですか?」

「うん。もちろん大丈夫だよ。なんでもござれ」


 鈴憧はプリントを机に下げた。チラと自身の指先を見る。


「昨日甲塚こうづか先輩に言われたんです。バッジテストを受けないか、って。……私、詳しいことが分からなくて」

「ってことは、鹿住ちゃんはバッジ持ってないってこと? 前はいつ取ったの?」

「一回も、取ったことありません。だからどういうものかも知らなくて」

「あぁ、そうだったね。そーいえば鹿住ちゃん、大会出たことないって言ってたもんね」


 はい、と鈴憧は頷く。霖は二人の顔を交互に見合わせ、静かに聞き役に徹した。


 舞が説明するに、バッジ取得には公認のバッジテスト競技会というものに参加する必要があるのだと言う。そのバッジテストでは、二種目の距離で規定されたタイムを上回った場合に級が認定され、例えば志絢が持つAA級になるには500mで42秒未満、かつ1000mで1分25秒未満であることが求められており、500mと1000mで記録したタイムを、バッジテスト規定で何級に相当するかプログラムに入力作成し、判定結果を出力する流れになっているのだとか。

 舞が説明をしながら板書したバッジテストの規定タイムは、次のようになっていた。



 【500m/1000m(女子)】

    E級 1分20秒00/2分58秒00

    D級 1分05秒00/2分16秒00

    C級 57秒00/2分00秒00

    B級 48秒00/1分40秒00

    A級 45秒00/1分32秒00

   AA級 42秒00/1分25秒00

  AAA級 39秒00/1分18秒00



 この他にも、1500m・3000m・5000mと距離があり、どの二種目でタイムを出すかは各自に選択権があるらしい。


 バッジテストを行う目的として、日本におけるスピードスケートの競技人口を広範囲に開拓し、優秀なスケーターを育成、スピードスケート競技記録の飛躍的な向上に寄与するとともに、各種競技会の円滑な運営を図ることが主軸にあるとされている。級は見ての通り初級・中級・上級と区分されており、最高位をAAA級、続く以下E級に至る七段階が制定されているのだ。


 また、B級以上の取得は日本スケート連盟に登録された競技者に限られており、有効期限を三年間(有効年度の六月末まで有効。取得年度はこれに含まれない)とし、有効期限内に更新手続きを取らなければ資格を喪失してしまうことになっている。


 合格基準は以上の通りだが、公式競技会またはバッジテスト競技会において、同一シーズン中に出されたタイムにより決定し、AA級までは二種目、AAA級においては一種目が基準に達した場合に合格となる。すでに岩手県スケート連盟と日本スケート連盟の両方に登録を済ませている鈴憧と霖の二人は、あとはテストを受けるのみとなっていた。


 ここまでを説明した舞は、指についたチョークの粉をパタと払い鈴憧を見た。


「多分、鹿住ちゃんならB級くらいは余裕で取れると思うよ。初めてだから緊張しちゃうかもだけど、陸上短距離では私より全然速いんだし」

「B級……。私、そんな速くないと思うんですけど」


 黒板に羅列された真ん中のタイムを見つめて鈴憧は答える。余裕で取れると思う。鹿住ちゃんなら。舞が何気なく口にした台詞に、素直に喜べないのはどうしてなのだろう。昨日志絢にも言われた。この間一緒に滑った時に感じたことがあると。


 ──お前、化け物だろ。


 黒々とした殺気のような何かを瞳に宿して見つめてきた志絢の、その言葉が何を意味していたのか正直その時は分からなかった。けれど、舞が言った言葉とそれを頭の中で繋ぎ合わせてみたら、自分が速いと言われているような気がして仕方ない。確かにこれまでは良い滑りができた時は嬉しいと思っていたし、もっと良い滑りができたらどうなるんだろうと思っていたけれど、それはあくまで自由に滑って来たから抱いていた感情で、二人の言葉の前提には「選手として」という期待が込められている。選手としての自分。競うためのスケート。その選択肢を作ってしまった私。嫌だとは言いづらい。記録を残したくないから大会には出られないなんて、今更言うには遅すぎる。「自分のせいで」という気持ちは、霖のおかげで消えてくれたと思っていたのに。


 私はこのまま本当に、スケートを続けてて良いのかな……。


「──それは私が保証するよ? 鈴には続けられる丈夫なカラダがあるんだから」

「え、」


 無意識に声に出してしまっていたらしい。鈴憧は、自分を見つめてニカリと笑う霖に驚く。


「だって鈴のスケートは綺麗だもん。見てると元気が湧いてくるし、私も頑張ろう! って、勇気も分けて貰える。う〜ん……なんか上手く言えないんだけどね、それって凄く凄いことな気がするんだよ。スケートは鈴にとって大切なもので、一番大切な鈴自身を作ってくれるもので、ずっと続けたら、もっともっと大切なものになるって私は思う。私はそーゆーのを誰かに与えられる人間にはなれないから、それを与えられる鈴は、すっごく凄いと思うんだよ」


 だから、続けて良いに決まってる。そう言い切ってニコリと笑った顔が不安になるほど透き通っていて、鈴憧はそっぽを向いて静かに鼻を啜った。普段は天真爛漫でおっちょこちょいな霖だが、たまに平気で痒いことをスラスラと言ってくる。それはいつもふとした時にやって来るから、ひどく心に突き刺さる。どういう表情をすれば良いのか分からなくなるから卑怯だとも思う。


 妙崎と目が合った。温かく笑んでいる。鈴憧は気恥ずかしさにもみあげを耳殻じかくへ撫で付け、そうして黒板に視線を預けた。


「あの、愛宕先輩。バッジテストの試験って、いつなんですか……?」

「うん、今年一回目は十月八日、九日にあるよ」

「え、それって直ぐじゃないですか。二週間もない……」

「うん。だから今日申し込んじゃおうと思って。ね、妙ちゃん」


 会話を振られた妙崎が、待ってましたと殊勝な頷きを見せた。カクンと落ちたその動作に引っ張られ、霖も腕組みついでに頷いた。


 そして鈴憧のバッジテスト取得試験は行われた。A級判定という結果だった。


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