(3)





「──着いたぁーッ!」


 迎えた合宿当日、朝九時十七分。妙崎の車から降りた我先上がりの霖の歓喜が、舞のはらわたを煮えさせた。


「たーにが『着いたーッ』だ! 久季ちゃんのせいで一時間も予定が狂ったじゃんか!」

「カモン! だってだって、それは今日が楽しみすぎて夜更かししたのが原因ですよ? 私のせいじゃないもん!」

「んだもしたん! お前のせいじゃないなら誰が夜更かししたんだコンニャロー! 道中黙って聞いてりゃ『夜は絶対花火しましょう』だの『枕投げしましょう』だの『怖いから連れションしましょう』だの可愛いことばっか抜かしやがって!」

「ててて……手羽先! いーじゃないですか可愛いなら! それに夜のトイレが怖いって最初言い出したの舞先輩じゃないですか!」

「かか、かー……角砂糖! だからって連れションを楽しみの候補に入れる女子高生スピードスケート部員がどこにいるってんだよ! どう考えても可愛すぎるだろう!」

「うんこーッ!」

「てめコンニャロッ!」

「うんこうんこうんこうんこうんこーッ!」


 しりとり繋ぎの押し問答。綾里駅から合宿先である『青少年会館』に着くまでの約二時間、二人はずっとこの調子だ。続いた志絢と鈴憧が、オレンジ色の看板下に降車してバックドアをゆっくり開けながらその争いを遠目で見る。


「なあ鹿住、やっぱお前の友達って小学生だろ」

「くふふ。それを言うなら先輩の友達だって」


 思わず含んだ鈴憧は、志絢の手からスケーティングボードの入った布を二つ預かった。朝っぱらから鬱陶しい。イヤホンしてても一睡も出来なかった。そう小言を吐いてため息を漏らす志絢に、鈴憧は小さく相槌を打つ。


「先輩いつも何聴いてるんですか? ランニングの時もイヤホンしてますけど」

「別になんだって良いだろ、普通のだよ普通の。それより久季の奴が忘れてったからこれも持ってって」

「あ、はい」


 質問を流され、首掛け用のストラップ付きスマホを受け取る。スマホのカバーは淡いピンク。表に返して画面を見ても、古い機種なのに新品同様のようだった。一見すると保護フィルムが貼ってあることすら分からないほど擦り傷ひとつ見受けられない。物を大事にしているのは良いことだが、未だに「うんこうんこ」と吠え続けている霖からは想像もできない一面だ。

 バタンとバックドアが閉まった。志絢が二つのボストンバッグを肩に提げて歩き出す。


「惜しげも無く『うんこ』って連呼できるアイツもアイツだけど、あんな会話式しりとりでずっと言い合える舞も舞だな。よく飽きないもんだよ」

「ふふ、そーですね。それに普通あそこは『うんこ』じゃなくて『うんち』ですもんね。『うんこ』はないですよ。くふふ」

「……」


 おいおいお前もかよ。その言葉が舌先まで張り付いたが、志絢は驚きのあまり外へ吐き出せなかった。まともなのは私だけだったのか……。代わりに出たものは怪訝けげんなため息とやるせなさ。横目に見てみた運転席の妙崎の様子はというと、シートに珈琲をびっちゃり溢しててんやわんやに嘆いていた。

 そうして謝罪ついでのチェックインを済ませた四人は、二階にある宿泊部屋へと案内された。畳和室に荷物を置き、各々が少しの間足をばす。霖は一直線に日当たり良好な障子窓を開け放ち、首にスマホストラップを掛けに来た鈴憧へおごそかにペコリとはにかんだ。


「広いしあったかいね、ここ!」

「うん、確かに。でも、四人じゃちょっと余っちゃうね」


 十五畳のこの部屋は、定員が八名と倍はある。壁に備え付けられた液晶テレビ。畳の上で日差しを浴びるキャラメル色の艶やかなテーブル。その上Wi‐Fiも通っているとのことだったので、万が一でも暇になることはなさそうだった。霖は直射日光の栄養を体内に吸収しようと、うつ伏せにだらりと横たわって目を閉じる。


「絶対寝ないでよね。十時から練習なんだから」

「うん、もちろん寝ないよぉ〜。ちょっと日向ぼっこするだけぇ〜」


 ホントかな……。その表情はとても気持ちよさそうに崩れている。鈴憧はまるで幼子をあやすように見つめ、あ、と思い出したように志絢へ問い掛けた。


「甲塚先輩、そういえばこの間、ジュニアの女の子が先輩のこと『沢峰さわみね』って言ってたんですけど、聞き覚えのある苗字ですか?」


 志絢は咥えようとしていた歯ブラシを直前で止め、「ああ」と答えた。運動前の志絢の黒髪は、いつもストレートに背中へ流れている。それが随分と大人びて見えるから格好良い。


「中学までは沢峰だったんだよ私。そこで横たわってる久季と同じで、二年前に親が離婚したんだ。なんで」

「あ、いえ。じゃあ沢峰志絢って、先輩のことなんですか?」

「ああ。だからなんで」

「い、いえ、別に」


 ──お姉さんって、もしかしてプロの人!

 ──だってさっき、志絢選手と滑ってた!


 ミサという女の子が嬉々として言っていた台詞。それが脳裏に蘇った。合点がいった。そういうことか、と。


「聞いといて何もないなんてことないだろ。聞きたいことがあるなら聞け。別に隠しごとなんてないから」


 歯ブラシをパッと咥えて左右に動かすその様子からするに、本当に遠慮はしなくて良いみたいだ。舞もパックの牛乳を飲みながら爪先立ちをしているし、気遣う方が馬鹿馬鹿しい。


「あの、じゃあ『ミサ』って女の子のこと、知ってますか?」

「ミサ? 知らないけど」

「その子が私に向かって『プロの人ですか?』みたいなことを聞いて来たので、違うって答えたら、『だって志絢選手と一緒に滑ってた』って……。雑誌で先輩を見たことあるって言ってました。甲塚先輩って、有名人なんですか?」

「んなわけねーだろ。たまたま結果出した大会の、たまたま取り上げられた雑誌の一部に、たまたま私がいたんじゃないのか?」


 たまたま、たまたま、とその語だけをやたら強調して返す志絢に、舞がせきを切るように視界の大半に小柄模様を覗かせてきた。


「なんだ、鹿住ちゃん知ってると思ってた。部室に置いてあるスケート雑誌、あれ全部志絢が載ってるやつなんだよ? ちょっとだげ私も乗ってるけど」

「え、そうなんですか? 霖が読んでる姿以上のことは、私は内容含めて見たことなかったので」

「なら、久季ちゃんは知ってたんじゃないの? 志絢が全中500mと1000mの優勝者だったってこと」

「え。そうだったの霖?」


 振り返り、うたた寝気分の霖に問い掛ける。霖は必死で半目を開いて眠気に抵抗していたが、訳の分からない寝言をほざいて宙に指先を走らせていた。

 鈴憧は軽く舌打ちをして、先輩二人を再び見る。


「甲塚先輩って、やっぱり速い人だったんですね」

「やっぱり? ってことは、鹿住ちゃんは志絢が速いって気付いてたんだ」

「はい。ちょっとしたフォームの仕草とか足の運び方が、後ろから見ていて勉強になったので。一緒に滑ってる間、ずっとお尻ばっかり見てましたから」

「変態かお前は。やけに視線感じると思ったらそーゆーことだったのかよ」

「あっはは。鹿住ちゃん意外とイケる口だねぇ」

「ん、いま何か変なこと言いましたか私」


 純粋な真顔を向けられ、舞も志絢もクスリとなった。下手をすれば彼女の方が、霖よりもずっと天然のように思われる。うなじが見え隠れするくらいの、綺麗に切り揃えられた後ろ髪の先端が、時折風になびいて揺れ動く。明らかに体力を温存させて、慣らすようにA級に登って来た底知れぬ才能。舞と志絢は、日差しを背にした鈴憧の横顔を、ただ吸い込まれるように見つめていた。





「そろそろ体起こしなよ。ぼーっとしてると危ないんだからね」

「ひやぁ〜い……」


 リンクサイドで欠伸あくびを催す霖の返事に、鈴憧はシューズの紐を結んであげながら眉を傾ける。テキトーな返事だと分かってはいても、怒る気にさせてくれないのが、霖の良い所でもあり悪い所でもある気がする。ぶつけられないもどかしい怒りの矛先は決まって悪意のない無邪気な笑顔に掻き消され、「ほら、立って」「うん!」と手を握って練習に向かうのが通例になっていた。


 霖にやる気がないわけじゃないことは知っている。じゃあやる気があるのかと言われたら、そこもよく分からない所ではあるのだが……。けれど、霖は面接の時に言っていたらしい。滑れるようになりたいわけじゃないことや、上手くなりたいわけじゃないということを。霖は取得試験で圏外判定だった。本人はタイムが出た時あっけらかんとしていたが、正直鈴憧は悔しかった。霖と滑るのが、何よりも楽しいから。


「そんなんじゃバッジ一生取れないよ? それでも良いの」

「う〜ん、私は鈴たちの滑ってるとこ見られるだけで嬉しいからなぁ〜。ここでこうして三人と一緒にいられるだけで、すでに満足なんだもん」

「そんなこと言ってると、愛宕先輩に怒られちゃうよ? 常に覚悟を持って練習しろ、って言われたでしょ」

「覚悟かぁ〜……。そーは言ってもさ、応援するのだって、立派な覚悟だと思うんだよねぇ」


 カチ、カチ。カチ、カチ。リンクに上がった霖が、ゆっくりと後を追って滑り始めた。寝起きで余計な力が抜けている分、リラックスして危なげなく滑れている。


「応援って誰の」

「誰のって、みんなのことに決まってんじゃん。話の流れで分かるでしょ普通」


 分からなかったから聞いたんだけど……とは言えない。今まで自分は、応援とは無縁のスケートをしてきたから。だから不安でもあった。応援される側の人間にも、覚悟というものは必要なのだろうかと。


「おーい、鹿住ちゃんちょっと来てー」


 遠くの方から舞が手招きしていたので、鈴憧は霖の後ろに回り込み、その腰に手を置いて押し出すように少しだけ速度を上げた。迎えに来た志絢が、ふらつく霖の前に入って自分の腰を支え当てがう。まるで三人一組の、チームパシュートのように。テレビで観ていたものよりも不恰好でぎこちないが、こんな風に、いつか霖と大会に出られたら……。何気なく。本当にただ何気なくの気持ちで、ふとよぎったそんなイメージ。だけどその中に見えていたはずの霖の背中はすぐに消えてしまって、志絢、舞、自分……その三人だけのイメージで再構築されていった。どう頭を働かせても、それ以降は霖との景色を作れなかった。


 手前で止まった三人を見据みすえながら、舞が鈴憧に向けてのみ口を開く。


「鹿住ちゃん、準備運動はばっちし?」

「あ、はい。さっき済ませましたけど、」

「じゃあ、ちょっと今から500m競走しよっか。私と」

「え、愛宕先輩とですか」

「うん。もしかして志絢の方が良かった?」

「え、あ、いえ」

「軽いウォーミングアップのつもりで良いから。ね?」

「は、はい……」


 なんだか妙だ。あからさまに作り笑いを寄越している。

 舞は自身のイメージカラーである黄色ベースのレーシングスーツを装着していた。フードを被り、首元まで閉まったチャック。サングラスに両目を隠した姿からは、その競走がただのウォーミングアップでないことだけはすぐに分かった。スーツに覆われた舞の全身はやはり小柄で華奢だ。けれど、異様な存在感がスタート地点で集中し始めている。


「go to the start」


 スーツのフードを被った鈴憧が、サングラスの奥に瞳を隠してアウターレーンの位置に着くと、横で志絢が合図を出した。霖の手には二つのストップウォッチ。頑張れ、と小さく作られた拳を胸元へ。緊張と緩和の間で応援モードに入っている。


「ready──go!!」


 カチャ。氷面が強く蹴られ、視界の端から舞が現れた。低い。身長によるアドバンテージが、見事に体現されている。


 この人は間違いなく、本気でレースをしようとしている。……でもなんで……? 今朝の最初の練習メニューは屈伸滑走のはずだったんじゃ……。

 スタートに集中仕切れなかった鈴憧は、たまらず上体を低くして踏み込んだ。深く空気を吸い込み、グッと丹田たんでんに力を入れる。


 最初のコーナリング。身体が外へ外へと引っ張られるような鈍い遠心力に抵抗しながら、ラインぎりぎりを二人はキープし続ける。ここで減速したら追いつけなくなる。鈴憧は前を走る舞の背中を射程距離に捉えようと、曲がり終えて息を吐き出した。ここじゃない。次のコーナーに入る瞬間で、一気に加速しなきゃ。そう、無意識に思考を巡らせていた。勝ちたいと言うよりも、試されていると察したから。それがどういう理由でかまでは分からないが、全力で走らないといけない気がした。なぜか失望されるのが嫌だった。舞に。志絢に。霖に。三人に、自分の大好きなスケートを見て欲しいと思ったから。


 そうして二人のレーン位置が交差区域で入れ替わる。残り二〇〇メートルと少し。再び空気を吸い込み、鈴憧は呼吸を止めて集中した。もっと速く。もっと深く……。


 ──潜れ!


 ザザッ。突如響いた感じたことのない異質な足音。舞はインレーンを確かめた。鈴憧だ。彼女の背が、一瞬にして手の届かない位置にあった。一五〇メートル……一二〇メートル……一〇〇メートル……。追いつけない。遠のく彼女の鋭く尖った美しいフォームが、どんどんどんどん小さくなって行く。ああ……と舞は諦めにも似た笑みをこぼす。次元が、違いすぎる──。


「──久季、鹿住のタイムは!」

「あ、はい! 38秒ですッ!」

「は!? まじか!」


 ストップウォッチを掲げ見せて来た霖の報告に、志絢は思わず驚愕の声を上げた。記されたタイムは疑うまでもない、そこにははっきりと38秒39の数字が浮かび上がっている。これじゃあまるで、世界レベルだ。


「おいおい、アイツまじかよ……」


 ゴール後の余力でゆっくりとリンクを滑り続けている鈴憧を眺めながら、志絢はもうひとつのタイムを確認した。43秒27。舞の記録だ。いくら長距離型の舞とはいえ、このタイムでもA級基準には達している。二人は同じA級のはずだ。それなのに、実力差がありすぎる。AAA級……確実に、鈴憧はそのレベルに位置している。もしスタートダッシュで出遅れたロスがなかったらと考えたら、ゾッとするほど鳥肌が立った。


 中川なかがわ椿つばき。もしかするとアイツよりもすぐ近く……こんな近くに、本物の化け物がいるかも知れないなんて……──。


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