第四章 だから今を、精一杯に

(1)





 夏が過ぎ去ろうとしていた。障子の開け放たれた縁側でのんびりくつろぐ二人の眼前には、薄暮はくぼに背を向け網上を見つめる熊の姿があった。炭煙の中でにこやかに食材を焼くその人物は、今か今かとよだれこらえて足踏みしている模様だ。


「ねえ。ながめのお父さんってさ、何してる人なの?」


 カラン、と氷を鳴らして麦茶をひと口含んだ鈴憧りんどうが尋ねる。漂う煙を両足でぶらぶらと蹴っていた霖は、その動きを静止させ片方のクロックスを手前にずり落として答えた。


「車の整備士だよ。今は船の整備の勉強もしてるみたい」

「へえー。職人さんだったんだ」

「そんな大層な人間じゃないよ。甲斐性なしがやっと危機感覚えたってだけだから」


 そう言うと、霖は軽くケンケンをして落としたクロックスに左足をめ込む。夕日が射してはちみつ色に染った庭先の白砂利は、舞い散る炭火のように刹那的な風情を宿している。年季の入った家屋の中からは自宅と同じ線香の匂い。目をつむって空気を大切に吸い込むと、海鮮のぐつぐつとした音に食欲を刺激されたのが分かった。


「へいお待ち! ホタテの素焼きでがんす」


 割り箸の添えられた皿の中央で、貝殻の中身がエキスを出して小躍りしている。小石浜こいしはま名物『こいはまホタテ』だ。


「ありがとうございます。わー、美味しそぉ〜」

「わっはっは。鈴ちゃんは何度も食べたことあるだろう」


 地元漁師たちが孫子供のように大切に育てる恋し浜ホタテは、他のホタテと比べ肉厚で味が濃いのが特徴だ。その上取れたてのものともなれば甘みも香りも極上で、醤油やバターなどを加えて焼かなくても、海水の塩分と滲み出るエキスだけで充分過ぎるほどの贅沢な味わいになる。妙崎たえざきのような酒好きならワインや焼酎のあてにするも良し。あるいは直接ワイン焼きや清酒焼きで楽しむのも美味な一品になるのだろう。


 鈴憧は配膳された出来立て新鮮なそれを目で楽しむと、割り箸の腹を摘まんで真っ二つに弾いた。


「いえいえ、意外と食べたりしないものですよ、地元の名産って。──ん、美味ひぃ!」

「かっはは。地元の漁師さんたちに感謝だな」

「そうみたいです。ふふ」


 口元を手で隠し、清らかな笑みを滑らせた鈴憧の隣では、鼻を押さえて齷齪あくせくと苦しそうに涙を浮かべる霖の奇行が揺れ動いていた。何してるの? 気になって尋ねてみたら、どうやら霖のは醤油わさびで焼いたものらしく、ツンと鼻の奥底をやられてしまったようだった。


「ねえ大丈夫?」

「も、もっ。ひーひひひ、ひーひひっひ!」


 苦悶のうめき声が縁側床をのたうち回る。父親が哄笑こうしょうとして言った。


「大丈夫だよ鈴ちゃん。悶絶してるように見えるが、霖はあのわさびの刺激が大好きらしいから」

「はい?」

「一番の好物なんだと。わさびが」

「へ、へぇ〜……」


 どう見てもそんな風には見えない。本当だとしたら、とてつもない狂気性だ。

 霖はガバと跳ね起きて彼女を見た。


「めっっっっっちゃ美味しいね! 恋し浜ホタテ!」

「どの面下げて言ってんのよ」


 目をしゃばしゃばさせて鼻の穴を拡げ、口角の垂れ下がった感想にそこはかとない突っ込みを入れてみる。潤んだ瞳に豚の鼻とパグの口。くふくふ、と可笑しすぎて天を仰いでしまった。


 灰煙のもやが掛かった暮れの空は美しい。近く山林からは、季節外れのトラツグミの夕鳴きがのどかに響き渡っていた。





「──合宿をしますッ!」


 その翌日、勢いよく扉を開け、前触れもなくそう告げてきたまいの姿に、部室内はシンとした空気を横切らせた。休日の午後練を終えたばかりで帰り支度をしていた三人の目が見開かれている。紺色の二年生用のネクタイを締めた志絢しはるが、最初に言葉を返した。


「急にどーした。そんなの今までやったことなかったろ」

「試みたんだよ、今年はやるべきだなって! もう日程も抑えてある。ニヒヒ」

「決定事項なのか……。で、妙ちゃんはなんて?」

「もちろん、オッケーだってさ!」


 ウインクをしながら頬に小ぶりな丸を添えた舞が答えると、志絢はやや呆れつつも反論意見はなく、了承の息を吐き溢す。自分も質問を投げ掛けようと霖は瞳を輝かせ、ピシャリと手を挙げ「はいはいはいはい!」と当ててもらうのをせわしなく待っていた。


 舞が手のひらをはらりとスライドさせる。


「はいどーぞぉ、久季ひさき霖くん」

「はい! その合宿って、い、いつからですか!? どこでですか! こりゃあ魂消たまげた! なんでまた!?」


 血気盛んな怒涛の追い質問。スカートを履いて脱ぎかけの体操ズボンを床にズルズルと這わせて歩き始めた霖のえりを、鈴憧が咄嗟に掴んで引き止める。


「ちょっ、コケるコケる。危ないってばもう!」

「うげっぺ。な、急に引っ張んないでよ鈴! 喉もがすとこだったじゃん!」

「もがされるようなことするからでしょ! なによ『うげっぺ』って」

「まあまあ二人とも、少し落ち着いて。合宿の話に戻らせてもらっても、良いかな……?」


 眉尻をピクリと動かした舞が静粛性を促す。床に脱ぎ捨てたズボンを拾い上げた霖がそれを鈴憧の膝目掛けて投げつけた。彼女はそれを楽々掴み取り、裏地に返して後ろへ放り投げる。「わっ、」霖が予想外のお返しにビクンと飛び跳ねると、支度を終えた志絢が我関せずといった具合に椅子へ座った。……もがす……。その聞き慣れない言葉をただぽつねんと呟きながら。


 誰も真面目に聞こうとしない。まとまりがないというか個が強いというか……。舞は愕然がくぜんと額を押さえて困り果てたように項垂れるばかりだった。


「もういいや、今日はたえちゃんも用事で早めに帰っちゃったから、詳細は明日伝えるとして、……」


 そうして言葉を区切って志絢に目配せする。志絢は頷き、仲良く口喧嘩を続けていた鈴憧に呼び掛けた。


鹿住かすみ、ちょっとこのあと良いか?」

「え、私ですか」

「そ。確認したいことがあるから」

「はい、分かりました。って、──わ! 霖それ私のズッキーニっ」

「裏っ返した袋に詰め直してやるダヨ」

「ただ入れ直してるだけでしょそれ。アメかグミかの違いでしかないから」

「私グミ派だもん!」

「それは持つ人によるってば。帰り霖が持っててくれるの?」

「良いよ!」

「良いんだ……。喜ばせてもらっちゃったよ」


 校外のランニングしなに農家の老夫婦から頂いたズッキーニ。毎日遅くまで頑張っているのを見ていたらしく、元気を分けてもらっているお礼に、と四人に五本ずつ収穫してくれたのだ。舞の自転車を借りてコースの先を走っていた霖が呼び止められ、その老夫婦と一緒に鈴憧たちが来るまで農作業を手伝って手に入れた。なぜ霖が自転車に乗っていたのかというと、舞いわく、スピードスケートは競輪などのロードバイク競技と、使う筋肉が同じだからだという。現に国体選手やオリンピック選手などの強化合宿の際、必ずと言って良いほどにロードバイクトレーニングは取り入れられており、あるいは大会などでもレース前にフィットネスバイクで有酸素運動をしている選手もいるくらいだ。霖が乗っている自転車はスピンバイク同様前傾姿勢で漕ぐタイプになっており、これはスピードスケートのフォームと関係しているからなのだとか。最初は上手く乗れも漕げもできなかった霖であったが、今ではなんとか平坦な道でなら走行することが可能になっていた。


 落着した部室に別れを告げ、駅への帰り道で霖が鈴憧に尋ねた。その両手には合わせて十本のズッキーニが、ガサガサと二つのポリ袋を揺らしている。


「ねえねえ鈴、さっき志絢先輩なんの用だったの?」

「ああ、あれは私がバッジ持ってるかの確認だった」

「ん? なにバッジって」

クラスのことみたい。それがないと出られない大会があるんだって」

「そおなの? 私は持ってるのかな? 聞かれなかったけど」

「百歩ゆずりすぎても持ってないよ、霖は」

「そっかあ……。じゃあ鈴はさ、ズッキーニみたいに親切な人から譲ってもらえるってこと?」

「だと良かったんだけどねぇ……」



 鈴憧は言いながら、点滅した信号を見て立ち止まる。彼女の横顔に視線を置いていた霖は、赤信号に気付かず出過ぎてしまった脚を引っ込めた。


「じゃあ、そーじゃないってこと? どーやって手に入れるの?」

「取得試験があるみたい。それを受けないか、だって」

「おぉ〜。なんかカッコイイね、そーゆーの」


 霖はポリ袋の持ち手を前で重ね、かかとを上下させて軽く前後に身体を揺すってみた。一人で歩いていれば、きっと左右確認をしてから信号無視して渡っていただろう。けれど彼女はその身に危険がないと分かっていても、例え誰かが渡っていたとしても、赤信号では必ず立ち止まる。前方から自転車に乗って斜めに渡って来る中年のサラリーマンと、静かに佇む彼女の姿。車両の交通量が少ない横断歩道は人を写す鏡みたいなものだと霖は思う。いちいち注意をしないところにもまた、彼女の性格が出ていて好きだった。


 そんなサラリーマンを気にも止めず、歩道の白線に視線を落とした鈴憧は、感心している霖に向かって問い掛けた。


「霖はさ、受けた方が良いと思う? その試験」

「え、だって受けないと大会出られないんでしょ? だったら受けないとじゃん」

「うん、それはそうなんだけどさ」

「もしかして嫌なの?」

「試験が嫌ってわけじゃないの。ただ……」

「ただ?」


 変なところで切られた言葉に、霖はきょとんと小首を傾げる。鈴憧が苦く笑みを隠した。


「ただね、バッジを取得しちゃったら、いよいよ大会に出ることになるんだなって……記録を残すことになるんだなって思ったら、少し抵抗があるんだよね」

「抵抗? なんで?」

「う〜ん……ちょっと色々と、ね」


 そう言って鈴憧は言い訳を探すように小さく手遊てすさむ。微笑の顔はやはりどこか暗晦あんかいとしていて不自然だった。


 霖には、彼女の言っていることがよく分からなかった。スピードスケートはその速さを競い合う競技のはずで、そのことは鈴憧自身から教えてもらったことだったから。それに、そもそもがおかしいような気がする。三歳から習い始めたのだったら、普通は大会に何度も出ていておかしくはないはずだ。ずっと独りで滑ってきた彼女のことを、今更ながら不思議に思う。

 目蓋を掠めた機微に触れないよう、霖は自然体を装って提案してみた。


「だったら試験だけでも受ければ? ひとまず大会のことは置いといて」


 信号が青に変わった。霖は再び歩き出す。


「うん……とりあえず明日、先輩たちに詳しく聞いてみる」

「そーだね。なんなら私も付いててあげるよ?」

「うん」


 遅れて渡り始めた鈴憧の影の形。手前に伸びたそれが足元に重なる。踏んで歩くのが勿体無いほど、霖の目には綺麗に映って見えていた。


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