(4)
リンク内には、早めに午後の練習を再開させた霖と鈴憧の姿があった。マスターの
「も、もうちょいゆっくりで頼むぜ、鈴」
「その口調どこで手に入れたのよ」
「ん、昨日観た映画。カーチェイスがもの凄かったんだよぉ」
「ふうーん」
雑談を交えながら、二人は小さすぎる一歩を進み続ける。気付けば周囲にはジュニアクラブであろう子供たちの活気が、意気揚々と氷の上を滑っていた。そこには子供用ではあるが同じ補助具を使用している幼い女の子の姿もある。滑れずとも歩く速度は霖よりも達者で、ものの数分で方向転換まで器用にコツを掴み始めていた。
「子供の適応力って凄いね。もうあんなに成長しているとは」
そう言いながら、霖は舞から貸してもらったシューズでカチカチと氷を擦る。
基本的に一般スケートリンクではスピード靴での滑走を禁止している施設が多い。しかしここ盛岡アイスリンクでは、トゥガードの装着を条件に滑ることを許可されている。見栄えが悪くて付けたがらない人もいると聞くが、スピードのような他スケートとは速さの異なる競技では、狭い一般リンクで安全を考慮されるのは仕方のないことなのだろう。そう鈴憧は思いながら、下を向いて強張りながら足を動かす霖に返事を返す。
「それは霖が気を張りすぎてるからだよ。もっと力抜いてリラックスしなきゃ。この間履いたフィギュア用の靴よりバランスは取り易いんだよ?」
「わ、分かってるんだけどさ、ハイヒールとは勝手が違うんだよ」
「絶対ハイヒールなんて履いたことないくせに」
「バレました? へへへ」
「もう。ふざける余裕があるなら私、自分の練習行くからね!」
「あ、ダメダメもうちょっとだけ付き合って! 鈴の教え方が分かりづらいだけだと思うから」
「素直さは百点満点か、おい」
自分が毒を吐いたことなど微塵も思わず、健気に白い歯を寄越して見せるその愛嬌の塊に、鈴憧はたまらず五度目の説明会を開いた。
初心者がスケートを始める際、まず正しい姿勢を身に付けることから始めなければならない。それは靴やエッジに差異のあるフィギュア・ホッケー・カーリング等のどれもに共通して言える考えだ。基本立ちの姿勢は軽く背筋を伸ばし、両手は腰の高さの斜め前に出す。そして爪先をVの字にして膝と足首を曲げ、中腰で立つ。この時できれば下を見ないことがポイントで、視線は正面と床を8:2の割合に保つと良い。顎を引き、やや目線は上に。そうすることで不安心から下を見て重心のことを忘れるということも減らすことができ、一気に脚がぐらついて平衡感覚が定まらなくなってしまうという事態も軽減される。下を見ず軸足に腰を乗せるようにして足踏みすることが出来れば、自ずと前に滑り出すことができるのだ。
「わ、わ、わ」
「そーそー、そんな感じだよ。滑ろうとして歩くんじゃなくて、氷に乗るように掴んでれば良いから」
「う、うんっ」
徐々に徐々に、前に進む速度が速くなっている気がする。しかし子供たちがスイスイと曲がったり回転したりしている姿を横目にすると、絶望的な危機感みたいなものを抱かずにはいられない。
霖はてくてくと基本を踏み鳴らしながら彼女に問い掛けた。
「で、でもさ、あんなにグングン機敏に曲がったりステップ踏んだりって、一生出来る気しないんだよねぇ」
「それはそもそも競技が違うんだから気にしなくたって良いよ。前にも言ったでしょ? スピードの刃はフィギュアとかとは別物だって」
「う〜んでも、別物ったって、その違いすら分かってないんだもん。私」
「違いが分かれば滑れるってもんでもないよ。体に感覚を掴ませるしかないんだから」
「で、でもさでもさ、分かれば考え方が変わる気がするんだよ。あんパンだと思って食べたのに、中身が豚肉とかだったら今後の太り方が変わってくるじゃん」
「太ること前提に食べたら何喰ったって太れるでしょ、それ」
「でも太るスピードは変わってくると思うよ?」
「まさか太りたいの?」
「もお、そーじゃなくって、しがらみは消えるよね。ってこと!」
「なんの」
「こう滑ってみたいなっていう『欲望』の! 分っかんないかなぁ〜。ふわぁ〜いだよ、ふわぁ〜い」
霖は聞き分けの悪い彼女に向かい、「なぜ?」の英語訳を顔も交えて示して見せる。眉を
鈴憧はグッと霖を
「ちょっと止まって。なんとなくだけど言いたいことは理解してあげたから」
「え? ああ、うん」
霖は慌てて爪先をV字に保って立ち止まる。本来であれば『イの字』ストップと呼ばれる止まり方が基本なのだが、それを教えるにはまだ早い。
鈴憧は近くで滑っていた男の子を呼びつけて、「エッジの裏をこの補助具のお姉ちゃんに見せてあげてくれないかな? 私が後ろから支えててあげるから」とお願いし始めた。少年は綺麗なお姉さんに頼まれたのが嬉しかったのか、照れたように頬を赤らめて片足を上げる。
「霖、この子のエッジの幅は何ミリだと思う?」
「え? エッジの幅?」
「そ。ブレードの長さじゃなくて、接地面の底の幅」
「う〜ん……」
霖は少年の上げた足裏に顔を近付け思惑に耽る。あまり近付き過ぎると危ないので、それなりに距離を置いて。
「私たちのより結構平べったいよね? 5ミリとか?」
「惜しい。ねえボク、この幅は何ミリ?」
「よ、よん」
指のジェスチャーを加えながら照れたように答えたその子に、彼女は「下ろして良いよ」と優しく微笑む。そうして男の子から手を離した彼女は、次は自身の片足の底を見せてきた。
「じゃあ、はいこれ。何ミリ?」
スラリと長く前へ伸ばされた脚の先端に向かい、少年が霖のところへ滑り寄る。片足を上げながらピクリとも揺れないその姿勢を見て、二人は「おぉ〜」と下から上へと視線を
「私の顔は見なくて良いんだよ。底を見ろ底を」
「あはは、ごめんごめん。え〜っとぉ……」
霖は目を細めて幅の値を目測する。
「1ミリ、とか?」
「せーかい」
少年がOKサインを作ってくれたので、霖は「よし!」と顔に力を入れた。そしてまた、脚を下ろした鈴憧は男の子を膝元に招き入れる。
次に出された問題は、同時に見比べてみる、というものだった。体重を預けながら底を見せる少年と、それを支えながら底を見せる鈴憧の不思議な組み合わせ。周囲には気になって駆け付けて来た数名のジュニアの子たちまで集まっていた。
「見比べてみてどお? 違い分かる?」
「うーん……、この子の爪先にはギザギザみたいなのがあって、鈴にはない」
「うん。他には?」
「んーっと、……」
「──けんじくんのにはミゾがあるよ、ペンギンお姉ちゃん!」
「え? 溝? ペンギン?」
突然割り込んできた回答に、霖は真横を向いて発声源を確かめた。そこにはピンクの手袋とニット帽を被って指を差している、可愛らしい女の子の表情があった。さっきまで霖同様に補助具を使用していた女の子だ。もう独り立ちするまでに成長している。
少女は少年の方に寄り、エッジに指先をトンと当てる。
「ここ見えない? けんじくんのエッジにミゾがあるの。こっちのキレイなお姉さんの方にはないよ!」
教えられた霖は二人のそれを見返した。なぜか鈴憧がひとり、笑いを我慢している。おそらく霖がペンギンと例えられたことだろう。久しぶりに動物が顔を出してきたので、遂々ツボを
確かに少女が指摘した通り、少年のエッジには溝があった。対して鈴憧のそれには溝がなく、霖の回答したギザギザも爪先にない。あとは以前教えてもらった長さを回答に加えたところで、二足のシューズはゆっくりと着氷した。
「ありがとね、けんじくん。それから……」
「はいはい! わたし『ミサ』って言います!」
少女が右手を挙げながらスイと脚にしがみ付く。鈴憧は少し驚きながら、柔和な笑みで迎え入れた。
「うん。ミサちゃんもありがとね。もう滑れるようになったの?」
「はい! お姉さんって、もしかしてプロの人!」
「え、プロ? 違うよ?」
「そおなの? だってさっき、志絢選手と滑ってた!」
「?」
鈴憧と霖は顔を見合わせた。聞き間違いだろうか。まるで志絢を有名人だとでも思っているかのような口ぶりに、二人は同時に少女を捉え直す。何かの誤解じゃないかな? 言うと少女は不満気に眉間を縮めて首を振った。
「絶対志絢選手だった! わたし雑誌で何回も見たことあるもん!」
「雑誌? 甲塚先輩が?」
「……こーづか? 誰それ。さっきお姉ちゃんと滑ってたのは沢峰選手だよ? 500mと1000mの」
「さわみね? 私と一緒にいた人は、甲塚志絢さんって人だよ?」
「ん〜?」
「?」
プロスケーターの中に、志絢とよく似た同名の人がいるということなのか、まったく会話が噛み合わない。霖はもちろん鈴憧もプロの選手に詳しくはなかったので、勘違いだと答えるしかなかった。少女は困惑し、納得はしていなかった。細々とした小首を傾げて薄い皺を眉間に集め、必死に記憶を釣り上げている。ここに志絢本人がいれば良かったのだが、外へ出て行ったきり戻っている様子もない。
「わたしの見間違い? ううん、そんなはずない。でも……なんでこーづか?」
少女は独り言に頭を抱え、不可解なすれ違いになす術なく肩を竦める。自分の見間違いだった、と最終的に判断を下してはいたが、去って行く後ろ姿はモヤモヤを背負っている様子だった。
鈴憧が気を取り直して腰に手を置く。
「で、話を戻すけど、なんでフィギュア用とスピード用の刃は違うんだと思う? 簡単にで良いから言ってみて」
「ん〜……。なんで?」
「少しは考えなよ」
「だって同じスケートじゃん。そんな専門的なこと分かんないよ」
「自分で分かりたいって言ったくせに」
「そおだけどさあ……」
マスターの手摺に掴まりクネクネしながら頬を膨らませる霖に、鈴憧は静かに息を吐く。
「あのね、スピードはフィギュアとかホッケーと違って直進性に優れた作りになってるんだよ。どれだけ早くトップスピードを出せるか、どれだけそのトップスピードを維持することができるか。エッジの幅が極端に狭くて薄いのは、氷に刃を突き立ててより踏み込む力を強めるためなの。スケートの刃って各面に呼び方もあってね、外側の面を『アウトエッジ』接地面を『フラットエッジ』内側を『インエッジ』って言って、アウト、フラット、インって順番で足を身体の内から外へ押し出すように連動させて着氷させるのが基本フォームなの。片方が内に来たら外の片方で氷を蹴って促進させる。掴んで蹴る、掴んで蹴るって繰り返してスピードを出して行くんだよ」
鈴憧は説明しながらその場を滑って見せ、霖が軽く頷いたのを確認してからまた続きを再開させた。
「フィギュアのブレードには爪先にギザギザがあったでしょ? あれはジャンプのきっかけ作りに必要な役割をしてたり、氷面に引っ掛けて前に進んだり方向転換したりするためのものなの。スピードのブレードが長くて一直線なのに対して、フィギュアもホッケーも機動力とか俊敏性に特化した作りになってるから短いし、ブレードを横から見るとカーブもしてる。これはエッジ全体が一気に氷面に接しないように、部分的に場面場面で接地させる必要があるからなの。氷に接するエッジに溝があるのも、より自由度の高いスケーティングを実現させるためのものってわけ。分かった?」
マンツーマンの
「いや、私フィギュアとかに関してはやったこともないし調べたこともないからさ」
「それでも少しくらいなら違いは分かるもんでしょ。長くやって来てるんだから」
「スピード特化か自由度の高さくらいの違いしか知らなかったな。なんか、よりホッケーとかフィギュアやってる人が恐ろしく思えてきた……。私には無理だ」
「いいよ志絢はスピードだけでっ」
要するに、スピードの刃では演舞や小回りすることが、あまりにも不向きである、ということだ。
以上のことを踏まえた霖は補助具から両手を離し、
そうして、志絢が言った。
「なあ、そーいやさ。久季が練習で走ったりしてるとこあんま見ないんだけど、なんで?」
志絢は前々から感じていた素朴な疑問をどちらにともなく投げ掛けた。鈴憧は何故だか途端に不安になった。同じく不思議に思っていた舞が、小首を傾げて言葉を返す。
「うーん、単純にまだ体力が付いてないだけなんじゃないかな? ほら、『運動自体全くして来なかった』って久季ちゃん言ってたし」
「それにしたって少し走るくらいの体力ならあるだろ。ちゃんとランニングしてんのか、アイツ」
「一応息切れするくらいには頑張ってるよ? ちょっと心配だから、今度から私の自転車で外周させるつもりだけどね」
「ふ〜ん」
「まあまだ入って日も浅いしさ、気長に待とうよ。……って、私が言える立場じゃないんだけどね。あはは」
甘やかしすぎかな? 舞が頭を撫でながら付け加える。別に。と志絢はリンクを囲う塀に両肘を置いて前のめった。
「ちょっと気になったから聞いてみただけ。練習方針は舞に任せる」
「うん、了解」
何気なく交わされた先輩二人の会話。鈴憧は口を
よくよく思い返せば学校でだって霖は、体育の時も部活の時も、休憩を挟むことが多かった。チャイムが鳴ると必ず、真面目な顔をしてやりきれないため息みたいなものを静かに吐いているのもおかしいと思っていた。でも、霖はいつも明るい。だから気にする必要性も感じなかった……。
「ねえ鹿住ちゃん、鹿住ちゃんは何か知ってたりする? 同じクラスだよね」
「え、」
不意に半身を寄せて仰ぎ見てきた舞の言葉に、鈴憧は口ごもる。いえ……。そう否定的な前置きを咄嗟に呟いてはみたが、続く言葉が出てこなかった。
補助具を捨てた霖の四方には子供たちの応援が並走している。楽しそうにぎこちなくリンクを踏み鳴らしている。転ばなくなったその足取りは、けれど氷の上でも努めて走り出そうとはしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます