(3)





 午前の練習が終わり、昼休憩に入った。キーボードと睨めっこをしていた妙崎を中心に、四人は横並びに弁当を持ち寄り膝掛けを被せた。


「わぁ〜、ふかふかで暖か〜い!」

「でしょ〜? 去年のクリスマスプレゼントなのよ、これ」


 独りで黙々と事務仕事をこなしていたことに退屈していたのか、部員がモゾモゾと暖をとりに来た嬉しさに妙崎は歓喜の笑みを滲ませる。彼氏からですか? しかし霖のその問いが聞こえた途端寄せていた肩をズズンと落とし、情緒不安定というようにその笑みは崩壊を喫してしまった。


「そーよ……でも二ヶ月前に別れたの……」

「わーお、忘れ形見だ」


 霖は躊躇なく、ポンと手を合わせて呟く。隣に座っていた鈴憧に無言でももを叩かれ、それでようやく自身の口元を押さえていた。


 妙崎鳴子めいこ。二十三歳、独身。この春東京から赴任してきた新人教師の彼女の担当教科は『社会』だ。膝上に置かれたそれは昼食用の弁当などではなく、薄型の白いノートパソコンとメモ帳。画面に映し出されたサイト内には時事問題がずらりと取り上げられており、傍らに広げられていたメモ帳には、要点だけをまとめた文章がぎっしりと詰め込まれていた。

 趣味は、飼っている猫の生態をぼーっと観察しながらお酒を飲むこと、らしい。ビールよりも焼酎派。熱燗であれば尚良し、と気持ちを切り替えた妙崎はスンと鼻を鳴らす。


「妙ちゃん、お酒の話されても私たち分かんないからさ、別で頼むよ」


 二つ目のサンドウィッチをアルミの敷かれたタッパーから取り出した舞が口を開く。レタス、トマト、チーズ、アボカド、ハム。小振りな四角形のその中身は几帳面に容器の中で賑わい、行儀良く食べる姿からは育ちの良さがうかがえる。


「──え? これ愛宕さん自分で作ったの!?」

「そんなに驚くこと? これくらい誰だって作れるよ、切るだけなんだから」

「その〝切る〟って作業が難しいんじゃない。いったい何時に起きて作ったの」

「早朝ランニングの後だから、えーっと……七時くらいかな」

「何時間で?」

「一時間もかかんないよ。妙ちゃんも食べる? ──あ、志絢それタッパーの底にマヨネーズ貼ってあるから、良かったら使って」


 紙皿に取り分けられたそれを両手で丁寧に差し出しながら、舞は志絢の分にと持って来ていたもう一つのタッパーを見て声を掛ける。志絢は底に貼られていた小分けの弁当用マヨネーズ袋を剥がし、「サンキュー」と切り口を破いていた。配慮の行き届いた舞のギャップに、霖と鈴憧は思わず同時に瞬きする。


「……ねぇあれ、さっきの舞先輩と違う人だよね? 双子のお姉さんとか、めちゃくちゃ良く似た別人だよねきっと」

「いや、あれはどう見ても愛宕先輩だと思う。あれが本当の先輩?」

「いやいや、あれが先輩だったらさっきの人は誰。同胞だと思ってたのに、めっちゃ女子力高いじゃん」

「先輩を勝手に同胞呼びするのは失礼だと思うけど、気持ちは分かるよ、霖」


 ひそひそ、ひそひそ、と二人はありえない光景に目を疑う。互いに手伝い程度なら料理をたしなむことはあるが、誰かに振る舞うためのものとなると話は別だ。それに、舞のようにあんなに気配りできる性格も持ち合わせてはいない。

 卵焼きのみを箸に突き刺して頬張る霖と、相変わらずミニトマトを挟めない鈴憧。不審な視線を落とす後輩二人に対して、舞は紙皿に取り分けた自身のそれを目の前に屈んで差し出した。


「二人とも、午前練お疲れ。これ良かったら食べない? 志絢の分も用意したら、ちょっと作り過ぎちゃって。……ん? どうかした?」


 丸メガネの奥にある双眸そうぼうはどう見ても幼い。志絢から聞いていた舞の身長は正式なもので一四九・七センチ。最初その小柄な体躯に似合わぬ体力自慢な一面を目の当たりにした時は正直驚いて、「長距離では絶対に勝てない」と鈴憧は霖に弱音を漏らしたことがある。陸上の短距離走なら鈴憧の方が数段速い。けれど3000m・5000mになると、全くと言って良いほど歯が立たない。それどころか、舞は長距離ランニング後でもすぐに次の練習に取り掛かる。どこにそんな体力があるのだろうか。人並外れた筋肉があるわけでもなさそうだし、どちらかと言えば霖のように華奢な背丈をしているのに。


 ……不思議でならない。粛々と、二人はサンドウィッチを頬張った。


「ん! 美味し……!」

「うーんまっ!」

「えっへへ、ありがと!」


 鈴憧が口にしたそれはたまごサンドだった。黄色の中に隠れて転がる甘い果肉の正体を聞けば、軽く塩茹でしたリンゴだという。とろとろとほぐれる食感の中にシャキリと弾ける甘酸っぱい果汁の飛沫。サクフワな食パンの身は表面だけ炙られており、香ばしさが鼻から抜ける。

 一方で、霖の具材はチーズケーキ風フルーツサンドだった。濃厚なクリームチーズの味にレモンの酸味。こま切れされて見え隠れする黄緑色のキウイと、鮮やかなブルーベリージャムのグラデーション。味わえば味わうほど愉快に頬が溶け落ち、ニンマリ鼻腔が満たされる。なんて豊かな味わいだろうか!


 霖はものの数秒ですべて完食し、食べかけの弁当を鈴憧にスライドさせてうなった。


「うんま過ぎました! 舞先輩、先輩は本当に舞先輩ですか!」

「んえ? どったの久季ちゃん」

「だってだって、こんなのパパッと作れるなんて、私の想像してた先輩と違い過ぎます!」

「それは私が童顔だからって小馬鹿にしてる? 幼さで言ったら、久季ちゃんと私はゴブリンゴブリンだよ?」

「そーじゃないんです! 先輩は私より小さいから、てっきり私以上の女子力は持ってないもんだと思ってたんですよ!」

「嫌味かそれは」

「ち、違います! 本心です!」

「お前な……」


 軽く憤る舞をよそに、どうぞどうぞ、と霖が今度は鈴憧に発言の場を与え始めた。紙皿に向かい手を合わせながら「ごちそうさまでした」と呟いていた鈴憧だったが、その招きにやや気後れして踏み込む。


「す、すごく美味しかったです。ありがとうございました」

「ううん全然。お粗末様でした」

「驚きました。先輩は料理が得意なんですね」

「うーん、得意ってほどでもないけど、家がパン屋さんだからさ、小さい頃から馴染みがあるってだけだよ」

「それでもすごいと思います。ヘタなお店に行くより、先輩に注文した方がよっぽど幸せです」

「あっはは。無料だし?」


 冗談で言ったつもりの金銭的発言だった。けれど鈴憧はそれを真に受けてガサゴソとバックの中からペンギン財布を取り出し始めた。


「いくらですか。すみません今手持ちが五千円しかなくて、何十回払いまでなら分割できますか」

「いやいやいやいやいやいやいやいや、冗談冗談っ。取らないよ、お金なんてっ」

「じゃあせめて等価交換を。あ、エッジの研磨とかどうですか。安平やすひらさんっていう知り合いがいるんですけど、顧客になってもらえませんか。凄腕なので絶対満足してもらえると思います。私持ちで三十回分でも良いですか」

「ちょ、待って待って! 私そんな頻繁に研磨とか行くレベルじゃないからっ!」

「でも三十回はこの先行きますよね。死ぬまでスケート続けますもんね。あ、そう考えたら三十回じゃ足りないかもですね。分かりました、一生分でどうですか。私今日のサンドウィッチのために生涯働きます。それくらい美味しかったです。あ、等価交換って考えはどうですか。知り合いに安平さんって人がいるんですけどこれがまた凄腕で──」


 饒舌じょうぜつに無表情な眼差しで同じ台詞を繰り返す鈴憧に、舞はあわあわなりながら元いた座席に飛び込む。誰もいなくなった正面に向かってひたすら安平の名前を連呼し続ける彼女を見ながら、霖はというと呑気にお茶を啜っていた。


「ね、ねぇ志絢ってば。あの一年二人ちょっと怖いんだけど私。なんか分かんないけど、鹿住ちゃんのネジぶっ飛んじゃったっ」

「ん? あー、ほっとけばそのうち戻るだろ。はいこれ、美味かった。ご馳走さん」

「あ、ねぇちょっと志絢! どこ行くの!」

「外でストレッチしてくる。午後練はもっと重心落として滑るつもりだからさ」


 汗拭きタオルとスポーツドリンクだけを持って歩き始めた彼女の背中に、「もう!」と片頬を膨らませながら舞は空のタッパーを片付ける。そこへ志絢と先程まで世間話をしていた妙崎が、膨れる舞に問い掛けた。


「愛宕さん、ちょっと良い?」

「ん、なに妙ちゃん」

「甲塚さんのことなんだけど、膝、もう治ったんだって?」


 リュックの中にタッパーを仕舞い込んでいた舞の手が、その言葉を聞いて一瞬ピタリと止まった。その横顔は、垂れ下がった波打つ髪の毛に隠れて良く見えない。


「志絢が言ったんですか? 治った。って」

「ええ。まだちょっと痛みが走る時はあるみたいだけど、十一月の大会には間に合いそうって」

「そっか……」


 曖昧な反応をされ、妙崎はもう一度尋ねてみた。本当なの? 舞の視線は依然リュックの中に落とされたままだ。心配で覗き込んで見たものの、真一文字の口の形が緩むことはなく、「大丈夫だよ、きっと……」と独り言のように呟いただけだった。


 志絢は中学三年の秋、練習中の転倒で左膝の半月板を損傷した。以来、強く踏み込んだり負荷の掛かる運動をすると、『ロッキング現象』という症状が現れてしまうようになってしまった。突然の激しい痛みと共に膝がロックされたようにある角度から動かなくなり、膝関節に挟まってしまった半月板のせいで、自力で歩くことさえままならなくなってしまう厄介な怪我。自然に治ることはない。だから当時すぐに病院で手術を受けて、欠けた半月板や断裂してしまった箇所を除去し、縫合ほうごうできる部分は縫合もし、今でも定期的にリハビリに通っている。しかし半月板には血流が少なく縫合してもくっつかない場所が多くあるため、完全に、とまでは至らなかった。

 スケートを続けていけば、また再発する恐れは遅かれ早かれやって来る。治ったと思い込んでいても、ロッキングを起こした事実が消えるわけじゃない。今は大丈夫でもまた突然痛みに襲われて動けなくなってしまうかもしれない。そんなトラウマがあるせいで、志絢は全力で走ることが出来なくなった。志絢は今でも、膝に大きな爆弾を抱えたまま……なのだ。


「志絢は私の憧れだから……天才だから、怪我になんか負けないよ」


 唇を噛むように囁いた舞の左手首には、志絢と同じ二色のミサンガが通されている。織りなす糸は黄色と紫。舞が互いに向けて選んだ、決心の色だった。


 ──ねえ志絢! 私たちでさ、スピードスケートの世界を塗り替えてやろうよ!──


 そう約束した頃はもっと綺麗な模様だったのに、いつの間にか色褪せてしまった。志絢は間違いなく天才だったんだ。怪我さえなければ、もしかすると今頃は日本の国旗を背負って立つほどの、逸材だったはずなんだ。





 舞が志絢の様子を見に施設の外へ出ると、彼女は広間の植木に隠れるように腰を下ろして膝の周りをマッサージしていた。横に腰掛けた舞に気付いて、その顔はゆっくりと仰がれる。


「心配そうな顔しなくても良いっての。似合わないぞ」

「うるさい。私は外の空気吸いに来ただけだよ」


 そう言って舞は、サイトを開いたまま置かれていたスマホの画面を見る。そこには何度も見たことのある、とある見出しの取材記事が映されていた。



 【──次世代氷上のスプリントクィーン誕生! 中川なかがわ椿つばき選手HR!──】

  北海道美深晴嵐びふかせいらん女学院、中川椿選手がこの冬驚異の高校記録を叩き出す!

  若干十六歳の彼女は、今年二月に青森県八戸はちのへ市で開催された、

  世界ジュニアスピードスケート選手権大会にて、

  500m〝38秒19〟というタイムを記録し見事女王に輝いた!



 それは、去年の二月の記事だった。

 中川椿。当時高校一年生だった彼女は、それまでの高校記録である38秒22を上回るタイムで大会を制し、十六歳という若さでスピードスケート界屈指の有名選手となった。将来の金メダリストと注目されるようになった。


 そんな彼女と志絢は中学時代からライバル関係にあり、大会に出場しては周りから期待され、比べられ、『二人の天才』とメディアや雑誌に取り上げられるほどだった。試合結果は勝った負けたのシーソーゲーム。力強い滑りで魅せる志絢と、静かで流れるような滑りの椿。相反するスケートスタイルの二人は事ある毎に様々な謳い文句で例えられ、互いに将来が約束されていたはずだった。


 けれど志絢の怪我を機に、彼女へ注がれていた世間の期待度は見る見るうちに引いて行った。残ったものは『凋落ちょうらくの天才』という残酷なレッテルと、『孤高を得た天才』という椿に対しての強烈なキャッチコピーだけだった。地元である綾里りょうりの人たちやスケートに携わる多くの岩手県民は今でも志絢を信じて期待し、応援もしてくれている。それなのに志絢は期待に応えてあげられない自分の不甲斐なさを恨んでばかりで、こうしてよく独り、静かな場所で風に当たることが増えていったのだ。


「私が心配なんかしてると思う? 志絢のことを」

「いつもしてるだろ」

「それは素行の話でしょ。スケートに関しては、一切心配なんかしてないんだから」

「お前は本当に、また私が追い越せると思ってんのか? 椿の奴を」


 スマホの画面を切った志絢が、木陰から立ち上がった。舞は見上げたまま微笑む。


「当然だよ。今は飛び越えるための助走期間、なんでしょ?」


 いつの間にか射し込んでいた木漏れ日と、そよ風の間にある彼女の視線が前髪を掻き上げる。呆れたように吐いたため息の隙間からは確かに笑った声がして、男っぽいその仕草や容姿が木の葉の波を一瞬間だけ退けた。


「私は天才なんかじゃないからな? 天才であり続けようとしてただけの、ただの私だ。舞が思ってるほどすごくなかったんだよ」

「それだって、志絢が私の憧れであることには変わりないよ。だって志絢は、私のことを救ってくれたヒーローだもん。私が中学で陸上部に入った時も、その陸上部が嫌になってスケート部に戻って来た時も、何も言わずに迎え入れてくれたのは志絢だけだったし」

「それは追い返す理由も権利もなかったからだ。それに戻るも何も、最初からスケート部との兼部だったじゃんか。感謝される覚えもなければヒーローでもないっつーの」

「だけど嬉しかったんだよ。周りからハブられてた私に、変わらず接してくれてさ」


 小一から続けているスケートだったが、舞は体力作りも兼ねて中二の春、陸上部での活動も始めた。体力だけは自信があった。入部初日から部内でも一番キツイと言われていたインターバルトレーニングを、舞は常に先頭を切って走っていた。毎日筋肉痛に悩まされたが、家ではしっかりと湯船に浸かり、マッサージをし、ご飯をいっぱい食べて早寝早起きを徹底した。朝練の数時間前から自主的な運動も欠かさなかった。プロアスリートの練習プロセスを研究し、ハードワークにならないように充分な休息もおこたらなかった。


 そんな舞の姿勢は最初のうちは「頑張ってるね」「すごいね」と先輩たちから褒められていたのだが、次第に目障りに思われ始めるようになっていった。


『愛宕がいると練習メニューがキツイのばっかりになる』

『なんで私たちが後輩に合わせて気を遣わないといけないんですか?』


 そういった部員の苦情が顧問に殺到し、舞は舞の練習。他は他の練習。というように練習内容が分けられるようになり、それがまた、却って舞の周囲から人を遠ざけることになった。そういう部ではなかったのだ。情熱や努力や夢とは無縁の人たちだったのだ。それならそれで、自分だけ頑張って大会に出て、結果を残せば文句なんて言われなくなる。そう思いながら部に居続けた舞だったが、そもそもがスケートのためという身勝手な入部だったため、元々大会オーダーは三年生優先だった陸上部ではメンバーから外されてしまうこととなった。


 後輩に陰で笑われているのも知っていた。「頑張ってるのに可哀想」と笑われていた。そして個人一種目という参加規定があったにも関わらず、舞はそれさえも出場したいという気持ちを持てなくなっていった。自信がなくなったわけじゃない。むしろその逆だ。強すぎる想いが故に、こんな部で頑張っても、例え結果を残せたとしても何が嬉しいのだろうかと自らやる気をぎ落としてしまったのだ。


 そうして陸上部から逃げた舞を待ち受けていたものは、陸上部内から感染していたスケート部員たちの嘲笑だった。


『うーわ、もう戻って来た』

『ずっと陸上部に居れば良かったのに』

『必死な奴ってめんどくせぇ〜』


 完全に孤立していた。いや、元々よく思われていなかっただけなのかもしれない。良くも悪くも舞は周りを巻き込んでしまう性格だったため、やる気のない人を見ると衝突してしまう節があったから。

 そしてついに、限界を迎えてしまった舞はキレた。


『──お前らがどっか行けよ! やる気がないなら邪魔だから消えろッ!』


 自分の鞄を投げ付けて、泣きながら必死に怒った。それでも笑われた。笑われながら動画も撮られた。悔しすぎて死にたくなった。スケートさえもが嫌いになりかけた。そんな時、遅れてやって来た志絢がその鞄を拾い上げて、言ってくれたのだ。


『今までは傍観してたけどさ、やっぱ流石にキモイわお前ら。私からもお願いしたいんだけど、今すぐ消えてくれないか。もしそれが出来ないなら、二度と舞に近付くな。今度泣かしたら殺すぞ』


 砂を払い、鞄を肩の後ろへ提げて放たれた彼女の言葉は一瞬にして空気を変えた。淡々とした口調だった。なのに手を叩いて笑っていた先輩たちも、合わせるように笑うしかなかった後輩たちも、志絢に反論出来なかった。当然だ。彼女の言葉には、舞にはない重みがあったのだから。全国中学校スピードスケート競技大会500m・1000m優勝者の、甲塚志絢には。


 それから中学三年になった頃、新入部員が三名入って来た。三年になりようやく先輩たちの陰湿な圧力から解放されたかに思われたが、舞の練習方針、あるいは内容に付いて行けなくなった二年生が次々に辞めていき、新しく入った一年生たちも、最初は趣味や興味本位で来ていた練習に、とうとう来なくなってしまった。キツイ練習なのは当たり前のことだったはずだ。全国という目標を提示していたのだから、楽しい練習ばかりじゃないのは分かってくれているものだと信じていたのだ。しかし蓋を開けてみれば、一年部員から口を揃えてこう言われた。


『なんか想像してたのと違います──』


 数日後には、部員は舞と志絢の二人だけになっていた。自分のせいで部が部ではなくなってしまった。活動規定人数を満たせなくなった部は、すぐに廃部の処理までされてしまうこととなったのだった……。


 過去の悔しさを飲み込むと、舞は木陰の根っこから上へと登って行く、二匹の蟻の動線を指先でなぞりながら再び口を開いた。


「あの時あの場に志絢が来なかったらさ、私はきっと、スケートからも逃げてたと思う。だから感謝してるの、志絢には」


 蟻が指先を興味津々に追って来る。ぶつかりそうになったら二匹は右へ左へ立ち往生を繰り返し、また直線上へ。志絢は小さく丸まりながら蟻と戯れる舞を見つめ、ゆっくりではあったが歩き出した。


「別に逃げてもお前は戻って来ただろ、私が割って入らなくてもさ。それに私は群れないと何も出来ない奴らを追っ払っただけだ。感謝されても困るっての」

「いーの! 私がそう思ってるんだからそーゆーことで! わ、ちょっと置いてこうとしないでよっ!」


 舞は急いで立ち上がり、パタパタと手やお尻に付いた汚れを払いながら彼女の隣へ駆け寄る。並んで歩くと分かる。やっぱり志絢が隣にいてくれるから、自分はまた戻って来られたのだと。


「で、志絢は十一月の大会に出るんだって? さっき妙ちゃんから聞いたよ」

「ああ」

「じゃあいよいよ、椿と戦う日も近いってことだ。全国で」

「いや、もっと早いかもしれない。県外大会もあるし。帯広おびひろである大会を、復帰戦にしようと思ってる」

「え、帯広の大会って、もしかして帯広の森競技会のこと!?」

「そう」

「北海道のだよ? ホントに参加するつもりなの!?」

「だからそー言ってんじゃんか。何か都合でも悪いのか?」

「いや、そーゆーわけじゃないんだけど、ちょっとびっくりしちゃって……。まさかいきなりそんなハイレベルな大会に出るなんて思ってなかったから」

「そりゃ出るだろ。今の実力がどこまで通用するのか、知っておく必要もあるんだし」

「それは、そうだけど……」


 帯広の森スピードスケート競技会とは、毎年十一月頃に明治北海道十勝とかちオーバルスケートリンクで開催される大きな大会であり、全国各地から競技者が集う有名なスケートイベントのひとつだ。参加資格は日本スケート連盟が定めたバッジテストの合格基準でA級以上取得している者に限られており、そこには各地の高校選抜もいれば大学生もいる。当然、地元民の中川椿も、だ。バッジのクラスはE〜AAAまであり、有効期限は取得した翌年から三年間。中三の頃すでにAA級バッジを取得している志絢の参加は、必然といえば必然の考えだった。


 彼女は入口の玄関前で立ち止まる。少し目を伏せて俯いていたが、その口元は静かに緩んでいた。


「それに復帰戦はさ、椿の奴と比べられたいんだよ、周りから。〝これが今の私だ〟って、みんなに知ってもらいたいんだ」

「……、」


 その言葉に、舞は必死で込み上げてくる感情を押し戻す。彼女の真っ直ぐな決断を、自分の涙でけがしたくなかったから。


「ま、そーゆーことだからさ、よろしく。部長」


 困惑の冷めない舞に対し、横脇に拳を握って突き付ける。舞はそのさり気ない志絢の決意に笑顔を整え頷いてみせた。コツン。ぶつけた互いの利き手のミサンガが小さく揺れる。色褪せているのは大切にしてきたからだ。切れてしまわないように、解けてしまわないように、その日が来るまで大事にしている証だからだ。


 舞は志絢の背中を叩いて中へ駆けった。振り返ると、彼女は上着のポッケに両手を忍ばせ立ちすくんでいた。


「帰って来るって信じてるからね、甲塚志絢選手が!」

「当然」


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