(2)





 みちのくコカ・コーラボトリングリンク。またの名を盛岡アイスリンクは、岩手県盛岡市本宮もとみやにある公設のスケートリンクである。東北地方ではアイスリンク仙台とともに24時間通年滑走可能のスケートリンクとなっており、同じく盛岡市にある『岩手県営スケート場』とはおよそ七キロ離れた距離に位置している。スピード用のリンクはないが、季節を選ばず氷の上を滑れるというのは、競技者にとって願ってもない喜びだった。


「起きて甲塚こうづかさん、着いたわよ」

「ん、……」


 肩を優しく揺らされた志絢が後部座席でアイマスクを外す。開けられたスライド式のドアから金木犀きんもくせいの香りが鼻先を撫でた。脳内が一瞬秋の日差しに包まれたかと思ったが、これは妙崎の香水の匂いで間違いない。


「……舞たちは?」

「先に行ったわ。営業開始ギリギリまで寝かせておいてって、愛宕さんが。入口でストレッチでもしてるって言ってた」

「そっか……」


 志絢は言いながら傾いていた姿勢を戻し、髪を後ろへ束ねてポニーテールを作った。右の手首に結ばれた二色模様のミサンガが、その反動で少しだけ腕の方へと垂れ下がる。


「妙ちゃんさ、本当に良かったの?」

「ん? なんのこと?」

「いやほら、今日のことだよ。結構先生の仕事溜まってるんじゃないのかなぁ〜って思ってさ」


 ピッピッとスライドドアが自動で閉まり、灰色の空に向かって伸びをした志絢。妙崎は運転席側の指紋認証センサーに親指を当てて「ははは」と笑った。


「確かに仕事は溜まりに溜まってるわねぇ。でも、あなたたちに頼られなくなる教師よりも、先生たちに嫌われるような自分でいた方がよっぽど幸せだわ」

「え……妙ちゃんって先生たちから嫌われてるの?」

「例え話よ、例え話。先生はこう見えてもね、甲塚さんみたいに文武両道で優秀な新任教師なんだから」


 肩に提げられたネイビーのレザーバック。その中身をチラリと見せつけ、妙崎はドヤ顔を彼女に晒した。クリアファイル、スケジュール帳、教材、パソコン。生徒の急な校外練習に同伴しながらも、きっちりと仕事道具を持って来ている。おそらくは観覧席で生徒たちを見守りながら溜まっている事務仕事をこなすつもりなのだろう、その瞳からは、喜びと充実感が幾重にも積まれているように思われた。


「ま、先生が私と違って『文』のみの人だってことは知ってるからさ、安心して仕事しててよ。膝掛けは持ってきたの?」

「もっちろん。一応肌寒いかなぁ〜と思って、ほら」


 リンク室内温度は一般的に10℃前後。凍えるような寒さというわけではないが、慣れない人からすればやはり肌寒い環境であることは確かだ。入口に歩を進めながら体の前に広げて見せた緑色の大きなブランケットには、トナカイや樅木もみのきの絵柄がまばらに散りばめられている。ふわふわのその繊維からは洗い立てのような清潔な芳香がそよいでいた。


「クリスマスじゃないんだから」

「暖かいのよ、これ。休憩中いつでも隣に来てくれて良いんだからね?」

「はは。じゃあ昼休憩はアイツらと暖でもとりに来るよ」

「うん。一緒にお話しするの、楽しみにしてるわ」


 玄関付近の窓張りの壁に三人の姿が見えた。舞と鈴憧がその窓を姿身代わりに、フォームのチェックをしているところだった。ジャンプして着地した右膝を曲げ、体重をそれへと乗せる。左脚は地面を蹴る瞬間の踏み留まった低姿勢を維持し、片腕をゆっくり身体の内側へ、あるいは後ろへ伸ばすを繰り返している。

 見様見真似の不恰好な霖が、窓枠に反映された志絢たちに気付き振り返って手を振った。


「あ、おーい志絢先輩、妙ちゃん先生、こっちこっちィー!」


 朝早くだというのに声が良く通る。真っ白なスポーツウェアのパンツ下に履かれた紺色のスポーツスパッツは舞から借りたものだろうか、正面に立って見つめたそれには見覚えのある小さなシミが二箇所、膝小僧の上にウサギのようなシルエットで忍んでいた。

 志絢は満面の笑みでウキウキしている後輩の健気なおでこに向かい、コツン、と狐の指型を当て突く。


「あだっ、な、何するんですか!」

「大きい声で呼ぶからだバカ」

「なになに、暴力?」


 額を押さえて苦悶する後輩の背後に抱き付いた舞が、ニヒヒと口を広げて顔を出す。


「あ、舞先輩聞いてくださいよ。私いま志絢先輩におでこつつかれました!」

「わ、ホントだ赤いね」

「軽く小突いただけだろ。自分で擦って赤くしたくせに」

「だ、だって痛かったんですもん! 反骨しますよ!」

「まあまあ久季ちゃん、それは志絢なりのスキンシップだから」

「え、そうなんですか? ……じゃあ嬉しいですけど」

「ならもう一発」

「ひっ、」


 半身を捻り防御の構えを取った霖を、先輩二人が面白おかしくイジリ倒す。鈴憧がその輪に参加しようとしなかったのは、単純にその光景を見ているだけで楽しかったからだ。


「り、鈴っ、見てないで早く助けて! 蚰蜒げじげじ持って来てるよね? 先輩たちの背中に早く入れてよ!」

「そんなの誰が持って来るのよ気持ち悪い。自分でなんとかすれば?」

「はっはっはー、久季ちゃんに味方はいないようだぞ? 悪いようにはしないから、ね?」

「カメムシなら大量に持って来たぞ。さ、ちゃんと食べようか、久季」

「ムリムリムリムリムリムリーっ!」


 両腕を舞にガッチリ固定され、見上げた先には不敵に微笑む志絢の形相。ほっぺをぷにぷに押されながら、霖は目をつむって口早に連呼した。カメムシ大量所持などただの脅しだ。だが、信じ切った後輩をもてあぶのはやはり面白い。

 志絢はリュックからゴソゴソとマスカット味のグミを五粒ほど取り出すと、再び霖のほっぺを押さえつけ口の中へとそれを放り込んだ。──うぎやぁっ! 責め苦に堪えきれず声を上げた後輩が意を決してモグモグと狼狽うろたえたかと思えば、その表情は見る見るうちに強張った筋肉を落とし始める。グミだ! 目をみはりときめいた瞬間、鈴憧がじゃれつく三人に呼び掛けた。


「時間ですよー」





 更衣室で着替えを済ませた霖は、舞とリンク入場ゲート前の観覧ベンチに腰を下ろし、とある初心者用アイテムの到着を待っていた。リンク中央ではすでに、一人の小さな男の子がフィギュアの練習に取り掛かろうとしているところだった。


「あの中央にある赤いコーンみたいなのって、なんのためにあるんですか?」


 ヘルメットの留め具にカサカサと戸惑いながら、霖が顎を突き出し問い掛ける。すると欠伸あくびを終えたばかりの歪んだ表情が、パチリと緩い瞬きをして答えた。


「あ〜あのパイロン? あれはスラローム滑走の練習なんかで使う道具なんだよ」

「スラローム滑走? なんですかそれ」

「うーんと、スキーとかで観たことない? こう、蛇行しながら滑降かっこうするシーン」


 言いながら、舞は隣に座ったまま揃えた両足を踵のみ左右に傾けスキーのフォームをして見せる。ヘルメットを無事装着できた霖は上下に動く腕の振りに「あ〜」と頷き、志絢から貰い受けたグミを口へと運ぶ。もぐもぐ。床には黒いゴムマットが敷かれていたため、口の中に広がるグミの柔らかな歯応えのようなそのぷにぷにとした感触を、エッジカバー越しに確かめながら舞の顔を覗き込んだ。


「氷の上でも、スキーってやるんですか?」

「あっはは、違う違う。そういう用途で使うことが多いってだけ。サッカーとか陸上にだってあるでしょ? 試合前のドリブル練習とかラダートレーニングとかさ。要は基礎のウォーミングアップってやつよ」

「へえ〜……。でも、蛇行して滑るのって、なんかすごく難しそう……」

「最初はね。慣れたら難しいも簡単も考えなくなるよ。だから大丈夫だって」


 よいしょっ、と舞がエッジカバーを外して立ち上がる。霖は少し怪訝がった。


「舞先輩、」

「ん、なに?」

「その、良いんですか? ここでカバー外しちゃっても」

「あー、これね。ゴム床だから大丈夫だよ。柔らかいしこのエリアで歩く分には問題ない」


 てっきりリンクに上がる瞬間にだけ外すものだと思い込んでいた霖だったため、剥き出しになった刃で氷以外のものを踏みつける舞に驚きを隠せなかった。波打つセンター分けに晒された舞のおでこは狭くて小さい。黄色の丸メガネがクイと整えば、その瞳が睫毛を弾いて前屈みに注意喚起を促した。


「でも、流石に久季ちゃんはまだゴムの上でもダメだよ? 分かってると思うけど」

「え、どうしてです?」

「だって万が一にでも転んだら危ないじゃん」

「リンクの上でもですか?」

「それは良いよ。それに、今日は補助具ありで感覚掴んで欲しいしさ。まぁ、そうは言っても競技リンクが違うから、まともな滑りはそもそも出来ないんだけどね。──あ、来た来た」


 ブレードの先端に『トゥガード』と呼ばれる保護具を取り付けていた舞の顔がプイと横を向く。視線の先には、椅子型の補助具を持って歩いてくる鈴憧と、L字のソリ型補助具を担いでいる、志絢の姿があった。


「持って来ましたよ。これで良いですか?」

「うん。バッチリだよ鹿住かすみちゃん」

「マスターはともかく、椅子型は要らないだろ。小さな子供じゃないんだから」


 L字のそれを床に置いて首を揉む志絢に対し、舞は腕組み姿勢でため息を吐く。「マスター」とはおそらくソリ型補助具の名称なのだろう、と霖はまた一粒グミをパクリと放り込んだ。


「怪我だけはさせたくないの。久季ちゃんにはちゃんと氷に慣れてもらうところから始めてもらわなきゃ」

「そうは言っても高校生だぞ。大丈夫だろ、マスターだけで」

「私ジャンプならできますよ! ね、鈴!」

「……」


 威勢よく手を挙げて言い放った霖のそれに、彼女からの返答は一切ない。ただ自身のシューズのベルトを締め直しているだけだ。代わりに志絢が答える。


「ほら、本人が言ってんじゃん。ジャンプできるなら立てるってことだろ。舞は心配しすぎなんだよ」

「ダメです! 競技者にとって怪我は恐ろしいことだって、志絢なら一番分かってることでしょ」

「そりゃまあ、そうだけどさ」

「だから私が部長として責任持って教えるから、志絢は鹿住ちゃんのことよろしくね!」

「あ、ああ、分かったよ。そんなムキになんなよな」


 渋々の表情がリンクに足を着けて鈴憧を手招きすると、彼女は霖を見つめた後、「ジャンプだけは二度としないで」とやや不満を漏らしながら着氷した。

 二人がリンクを反時計回りに滑って行く姿を一瞥いちべつに、舞は椅子型のそれを持ち上げる。てくてく、ことん。氷の上に置かれた座席をポンと叩いて招く表情は、小柄な割に頼もしい。


「それじゃあ久季ちゃん、私たちも滑りますか。座って座って」

「あ、はい。よろしくお願いしますッ!」

「ほんじゃ捕まってて。せーのッ──」

「わわっ!」


 後ろから押されて感じた最初の印象。それは、劣等感を覚えたばかりのあの頃と少し似ていた。目を閉じていても勝手に動いてくれる椅子。消毒剤の匂いの代わりは、リンクを冷却するために使用されているらしいブラインという不凍ふとう液と、防錆ぼうせい剤やエチレングリコールなどの薬品の匂いだった。冷凍庫の匂いにも少し似ているこの空間には、誰一人として患者はいない。


「冷たい……」


 顔全体に吹き抜ける風。ひんやり寒くて痛いけれど、不思議と孤独感は温かくて、何より新鮮で気持ちよかった。


「もうちょいスピード上げてくよ! あの二人を追い越して、一緒に中指突き立ててやろう!」

「あはは、良いですねそれ! 舞先輩、全速ぜんしィーん!」

「はいよーッ!」


 ビュン。前へ突き出た霖の右手が氷の向こうを追いかけた。無邪気な二人の笑い声が響き渡る。背後から聞こえる舞の足音は一定のリズムでカチカチと鳴り、どんな色の足跡なのかを想像してみた。鈴憧の色が虹ならば、舞のそれは夕日色。気さくで穏やかな笑い声を付け足せば、ここはもう病室なんかじゃないと確信できた。


「行っけ行っけセンパァーイ! ゴーゴー舞センパァーイ!」

「あっはは! 調子乗ってると振り落とされちゃうよ。ちゃんと両端掴んで」

「はぁーーーい!」


 肘掛け部分に両手を置き、エッジをゆっくり着氷させる。サラサラザラザラとした自分の足音が、確かに後ろへ置き去りにされて行く。

 滑っている。この振動は、確実に私だけのものだ。

 二人を数メートルのところまで捉えた時、ゆっくりと滑っていた鈴憧が振り返った。猪突猛進な椅子型駆動の霖のハイテンションに、思わずその足がギィと立ち止まる。


「ちょ、なに!? 危なっ──」

「えっへへ! 鈴、おっ先ーッ!」


 手を振って見送りながら、忠実に任務を遂行させた舞がきっちりと中指を突き立てていたので、霖も眼力を強めて模倣した。志絢はアホらしいと微動だにしない様子だった。けれど横で小さく笑んでいる鈴憧を見て、やれやれと口端をほころばせていた。


「なぁ鹿住。お前の友達、小学生みたいだな」

「それを言うなら先輩の友達だって。愛宕先輩、いつもあーなんですか?」

「大抵はな。けど、部活であんな風に後輩とふざけてるアイツを見るのは、ちょっと久しぶりだ」

「そうなんですか? 久しぶりのようには見えませんけど」


 言うと、志絢は鈴憧と過ぎ去った霖を指差しながら答える。


「お前らのこと、多分めっちゃ気に入ったんだと思う、アイツ」

「え、私のこともですか」

「何、嫌なの?」

「あ、いえ別に。……てっきり霖だけかと思ってましたから」

「まぁ、一番馬が合うのは久季の方なんだろうけどさ。だけど鹿住のこともこの間めっちゃ嬉しそうに話してたぞ」


 鈴憧は目を丸くして不思議がる。私の何に対して嬉しくなったのだろうか。


「久季の面談の時は私もいたから嬉しくなる気持ちは分かった。けど、鹿住もアイツに言ったんだろ? 久季みたいにさ」


 その問いにたまらず顎先を触り考え込むと、キリリと細長な志絢の眉尻が微かに下がったのが見えた。

 霖が何を言ったのか全然知らない。ただ霖は「緊張したよぉ〜」と胸を撫で下ろしていただけだったから。それに、自分が舞のどの部分の質問に対して、どんな答え方でそう思われたのかさえ判然としなかった。三歳の頃からやっている、と答えたことだろうか。それとも、履歴書に貼った証明写真の映りが我ながら良く撮れていたから、誠実そうな後輩だな、と気に入ってもらえたのだろうか。霖と同じという点で思い当たる節があるとすれば、履歴書以外に心当たりがない……。

 半ば上の空で思考を回転させる美少女に、志絢は「ははは」とはにかむ。


「鹿住ってさ、ほんとスケート好きなんだな」

「え、なんですか急に」

「いや、言われた方は鮮明に覚えてるっていうのに、鹿住も久季も、何を言ったから舞があんなに楽しそうにしてるのかなんて、全く身に覚えがない感じじゃん。久季の『好き』はまだただの好奇心なんだろうけど、鹿住のは違う気がする。無いと生きていけない、みたいな」

「どうなんでしょう……。小さい頃から日常のなかにあったので、無いなんて想像したこともなかったです。私はただ、没頭できるものがスケートだったってだけですから」

「それだよきっと。持って生まれた才能ってやつ? 当たり前に染み付いたものを、当たり前じゃないと思うのは難しいだろ」

「は、はあ……」

「お前とよく似た奴を知ってるんだ。そいつと話す時と、なんか感じが似てる」

「はあ……」


 どう相槌を打てば良いのか分からず、鈴憧が吐いた返事は『心ここに在らず』と言った具合にか細い空気を宙に漂わせていた。志絢がスイと動き出す。


「感動させてあげたいんだってさ。舞はお前らのこと」

「? あのすみません、よく聞き取れませんでした。もう一度お願いします」


 対岸の氷上からこだまする霖たちのはしゃぎ声が盛大で、そう問い掛けながら鈴憧も後に続いて滑り出す。志絢の引き締まった体躯が視界の中央で揺れている。慣らすフォームのちょっとした仕草で分かる。この人は速い。きっと間違いなく、私よりも。


「別に聞き返されるようなことじゃない。ただの独り言だから」

「そうでしたか、じゃあ分かりました」

「はは。速攻分かられちゃったよ」


 聞いて来た割に淡白な奴だ。他人との接し方が下手くそなのが良く分かる。こういう人間は芯がはっきりしている分、成長も早い。またすぐに、今の自分を追い越して行ってしまうのだろう。思いながら、志絢は努めてゆっくりと前を滑り続けていた。


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