第三章 そのため息は、明るい向こうで

(1)





 グラウンドで始まった部活動初日の練習は、ながめにとって目を疑うほどのものだった。手元に広げたトレーニング表のタイトルには『HIIT』と記されている。

 これは『High intensity Interval Training』の略で、負荷の高い運動と短い休憩を組み合わせたトレーニング方法のことを指すものらしい。

 メニュー欄には①〜⑩までの順番付けがされており、霖はそれに焦点を合わせて頬をすぼめた。


  ①──ラン(ダッシュ)

  ②──ヒンズースクワット

  ③──片足縄跳び

  ④──もも上げ

  ⑤──ニートゥチェスト

  ⑥──ジャンピングスクワット

  ⑦──キャタピラプランク

  ⑧──バーピージャンプ

  ⑨──高速プッシュアップ(腕立て伏せ)

  ⑩──自転車


「わー、いっぱいだぁ」


 前ならえに紙を突き出して呟くと、その紙の上辺に沿って走るように錯覚して見える、遠く小さな三人の姿があった。まい志絢しはる鈴憧りんどうの三人。メニュー①番の『ラン』を行っている最中だ。

 黄色い靴。紫色の靴。青色の靴。どの運動靴も、軽やかな砂音を踏み鳴らして紙の上から横へ遠ざかって行く。霖はその走りを顔ごと追いかけながら努めて見学の姿勢を正していた。


 ──久季ひさきちゃんも走るんだよ? ボケッとしてないで、早く運動靴に履き替えて。


 練習前に舞からそう言われた霖であったが、いざその時が来てみると、父親に買ってもらったばかりの赤いシューズが今更ながら少しだけ贅沢なものに思われた。ちょっと見学してても良いですか? そう気後れ気味に答えたら、霖が運動に不慣れということを察してか、舞は快くこれに承諾してくれたのだ。日陰の隅で眺める三人の姿はとても溌剌はつらつとしていて、それを見つめる自分の影が、地面に伏せる校舎の影からひょっこりと頭だけを出している。


「久季さん、お疲れ様」


 左隣から聞こえた声に振り返る。そこには、職員室廊下の窓から顔を出した妙崎たえざきの横顔があった。微笑む彼女の唇には大人びた清潔感のある紅がされており、茶色い髪にとても良く映えている。


「あ、お疲れ様です先生。……みんな、すごく速いですね」

「元気が有り余ってるって感じね。これは今日も汗だくねぇ」


 言って妙崎は「んふふ」と微かに目尻を下げた。きっと廊下内で片膝を折ったり伸ばしたりしているのだろう、室内履き用のクロックスの底が、ペタンペタンと静かな落下音を響かせていた。

 霖は再び妙崎から視線をグラウンドへと戻す。良くも悪くも、いま霖が参加できるトレーニングは何もない。問題なのは、三人にそれを悟られないようどう誤魔化して振る舞うか、だ。


「私も一緒に走りたいなぁ……」


 仏頂面に決した声に、妙崎は冗談めかしで返答した。


「ダァ〜メ。怒られるのは先生なんだから」

「ケチだよねぇ……」

「走るにしても、軽めに、じゃないと許可できません。愛宕あたごさんたちみたいな運動は例え久季さんの意思を尊重しなさいと言われてはいても、やっぱり控えた方が良いわ」

「じゃあ縄跳びは? ③番の」

「それも同じ見解です。のっそりなら許可できるけど。もしくはそうねぇ……、疲れない程度か、十回飛んで『もう無理だあ』って大袈裟に息切れして見せる、とか」

「ええ〜、それじゃあ練習になんないですよ」

「久季さんにはみんな以上に気を付けて、適度に運動してとしか先生は言えません」

「はぁ〜い……」


 両手をお尻に隠しながら、校舎の壁にペタリと付いて嘆息してみる。日陰で気温が低いおかげか、手のひらにひんやりした感触が伝わってくる。首に巻いたタオルは汗の香りひとつせず、もどかしい自分の匂いがだらりとぶら下がっているだけだった。





 帰り道は、舞、志絢、鈴憧と一緒に下校をした。メニュー⑦の『キャタピラプランク』を終えた段階で、今日の部活は終了した。


「志絢、今日の調子はどうだった?」


 自転車を押しながら前を歩く舞が、同じく隣で自転車を押して歩く志絢に問い掛けた。霖と鈴憧は、それを後ろからテクテクと付いて行く。


「まあまあだったかな。流石にまだ、負担の掛かるトレーニングは踏ん張る勇気が出ないけど」

「そっかー。……ま、ぼちぼちなら良かったよ」

「すぐだよすぐ。来年までには絶対アイツの記録抜いてやるんだから」

「あはは。うん、その意気その意気ー」


 自身の自転車のサドルをポンと叩いて喜びの笑みを弾ませた舞に、釣られて志絢も口角を上げる。会話の内容はよく分からなかったが、その気の良さそうな先輩二人に嬉しくなって、霖も手を添えて「くふふ」と笑い出す。


「楽しい先輩たちで良かったよね、鈴。私、部活の先輩ってもっとこう、ものすごく厳しくてちょっとした往復ビンタくらいなら飛び交うものだと思ってた」

「それは時代錯誤しすぎだって」

「部活したことないのに分かるんだ」

「テレビならあるもん。今どきそんなやばい上下関係存在しないでしょ」

「しないのかなぁ〜。あの、なんちゃら学園っていう野球の名門校とかさ、スパルタこそ最強って感じしない?」


 行進するように胸元に拳を振り下ろし、意気揚々と気合いを込めた目つきを寄越す霖に、鈴憧は「その方が良かったの?」と白い歯を覗かせて答える。


「う〜ん、愛の鞭なら大歓迎かな? 理不尽だったらやり返して、監督とか先輩のくるぶしと鼻の穴入れ替えれば済む話だし」

「いや、できると思ってるなら異常だよそれ」

「違う違う、気合いの話をしてるんだよ。そのくらいなら俺、いつでもやってやるぜ? みたいなさ」

「ふふ。反骨精神ってわけね」

「そーそー、それだよ」

「それだよ、じゃないよ。サイコパスの味が濃いんだよ、その発想」

「ええー、そーかなぁ」

「せめて足の小指に口と目を取り付ける、くらいにしておいた方が良いんじゃない? その周りに蚰蜒げじげじ大量投下して失神されるくらいにしておかないと、相手が可哀想でしょ」

「うげっ」


 清々しい笑みでカウンターを放つ彼女に、霖はたまらず口を押さえた。同じ高さに大量の蚰蜒が蔓延はびこり、それを慌てて踏みつけないように、何度も口の付いた足をバタつかせる。そんな想像が瞬時に脳を駆け巡り、酔ったようにいやな声が漏れ出た。感受性は五分五分と言ったところだろうか。それでも彼女の方が、耐久性能においては遥かに上回っているようだが……。


「こら一年、なに企んでるか知らないけど、そんなことしたら志絢から全毛穴にハリガネムシ入れられちゃうよー」


 会話を聞かれていたのか、ブレーキに指を掛けた舞がむくりと振り返る。霖はびくりと姿勢を正して眉を釣り上げた。


「いや、これはその、ち、違いますってっ」

「なにが違うというのかねぇ久季ちゃん? 先輩を失神させるとか、良い度胸してるじゃない」

「あ、いや、だからそれはっ」


 部活、先輩、上下関係。この三拍子に反骨精神までおまけが付けば、真意なんてどうでも良い。出るくいは即刻打たれる。不敵に微笑む舞の背後には、目つきの鋭い志絢が佇んでいた。


「入れられるのが嫌ならカメムシ十匹一気喰いな。ちゃんと舌で味わいながらネチャネチャ噛まないと殺すから。吐いてもぐちゃぐちゃ痙攣してるそいつらを、ジュルジュル飲み干さないと殺す」


 淡々とした冷徹な口調。さすがは一年先を生きている二人だ。耐久性能に優れた鈴憧さえもが、そのオノマトペ入りの生々しい表現に苦く口端を引き攣らせていた。


「お、美味しかったらちゃんと食べますっ! だからごめんなさいもう反骨精神持ちませんっ!」

「いやいや、調理されてても無理でしょカメムシとか……」


 そうして歪んだ美少女の顔が、霖から半身を捻って退く。ケラケラとイタズラしく笑う舞の姿は、道端に伸び揃う四本の土筆つくしの中の、一番小さな背丈のように鮮明な色をしていた。


「あっはは、やっぱこの子たち可愛いわ。ね、志絢。──あ、そうだ来週の土曜日はさ、みんなで『みちのく』行こうよ!」


 手のひらをパンと合わせた舞が嬉々として提案すると、志絢は少し考えた後「まあ、別にどっちでも」と答えた。舞はきょとんと佇む後輩に向かって指を差す。


「そーゆーことだから一年、来週の土曜はみちのくに校外練習しに行くよ! 分かったら返事!」

「は、はい……?」


 二人は突然の決定事項に半ば強制的に頷いて見せる。二番目に高い志絢の土筆は、舞の小さな明るい陰に隠れながら、その根は少しだけ痛んでいるように思われた。


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