(4)





 愛宕あたごまいはデジャブを催していた。ひどく可愛らしい女の子が差し出してきたそれには、先日見たばかりの枠組みの紙一枚が、折り跡を残して開かれていたのだ。


「うえっ、また!?」


 その、なんとも気さくさを含んだかのような驚き声に、部室から出てきた志絢しはるがトテトテと裸足のまま近付いて舞の肩越しに手元を見た。


「あ、まただね。最近流行ってんじゃないか? こーゆーの」


 そうしてすぐにボストンバッグを抱えた彼女は横に佇み、舞はもぞもぞと指で自身の顎を持ち上げる。その表情は渋く細目がちで、頭の上に掛けた丸メガネがレンズ越しに背景を歪めていた。


「なんで久季ちゃんといいこの新しい入部希望者といい、名前と生年月日と証明写真しか記載してないわけ!? 履歴書見せてくるなら住所と電話番号、それから経歴諸々のマナーをしっかり守りなさいよ!」

「別になんだって良いだろ? 名前が分かれば」

「良くないよ! 入部届っていう歴とした書類が用意されてるのに、それをないがしろにしてこんな不真面目なもの渡してくるなんて、あの子たちは新設されたばっかのこの部のこと、ちょっと甜めてるんじゃないの!? それにこーゆーのは顧問の妙ちゃんに渡すべきであって、私にじゃない!」

「そんな大声出したら中の二人に聞こえるぞ。良いじゃん、入ってくれるって言ってんだからさ」

「あのね志絢、私は常識的なことを今、このふざけた紙に向かってぶちまけてるんです! 久季ちゃんの入部届に記入したのだって、結局この私だったんだからね!? 『書き方分からないので先輩書いてください』って、めちゃくちゃ可愛かったんだからあの子」

「いや、怒ってるのか嬉しいのかどっちなのそれ」

「フィフティーフィフティーだよ! イーブン! 引き分け! 勝者なしッ!」

「あ、っそ。じゃあ私グラウンドに先行ってるから、新入社員の面接よろしくー」

「あ、もう志絢!」


 靴を履いた志絢がバッグを二つ肩に提げて去って行く。薄情なその背中に、舞は少しばかりの憤慨を抱きつつ紙を不満気に折り畳んだ。

 扉を開けて部室へ戻ると、先ほどまで姿勢正しく静かに座っていた鈴憧が、付人のように壁際に佇んでいたはずの霖と愉快そうに談笑しており、二人は再び姿を現した先輩に気付くや否や、緩んでいた口元を引き締めて真剣さを取り戻し始めた。舞は一瞥に沈着し、自分で配置した人事採用席に腰を下ろす。コホン。軽い咳払いを済ませ、そうして役に身を投じた。


「すみません、諸事情があり中身は外で確認させていただきました。では、始めます」

「はい。お願いします」


 メガネを装着し、机の上に肘を置く。水掻きを埋めるように指を絡めた舞は、履歴書を熟考していると見せかけながらちらりちらりと鈴憧を盗み見ていた。ちょっと美少女過ぎるんですけど。なにこの子、ずっと見てても飽きないんですけど。等々、目の前を華やかに輝かせている美少女に、履歴書を持ってきた件を指摘するどころかドキドキしていた。この子もヒロインに決定だ。青春部活ストーリー、いざ、尋常に。


「で、ではまず初めに、鹿住鈴憧さん、あなたにはスケートの経験はありますか?」

「はい」

「それはいつからですか?」

「三歳からだったと記憶しています」

「さん──、え? そんなに小さな頃からですか?」

「はい。でも、記憶にある範囲なので、もっと前からだったかもしれませんが」

「へ、へえ〜……。そ、それじゃあ、ジュニアクラブはどこへ?」

「いえ、入ったことありません」

「え、そうなんだ」

「はい」

「え〜っと……では、中学はどこ中でしたか?」

甫嶺ほれい中です」

「へえ〜、甫嶺中って確かすごく小さな学校だよね。部活の成績はどんなだったの?」

「ありません。部活も入っていなかったので」

「え、じゃあ個人的に大会とかに出てたの?」

「いえ、大会に出たこともありません。そういうのには興味なかったので」

「ほえー。じゃあずっと、三歳から趣味で滑ってただけってこと?」

「はい、そうなります」

「じゃあトレーニングとか、えっと、冬季以外では何か他のスポーツをしている、とかですか?」

「いえ。リンクに行けないときは基本的に、家の近所を走ったりフォームの強化をしたり、チューブトレーニングをしていました」

「大会に出ないのに、ただ個人的に?」

「はい、そうです」


 質疑応答の縫い代から垣間見える彼女の掴み所のない表情が、舞の思考回路を混線させた。

 どこにも属さず誰とも競わず、ただの趣味というそれだけの理由で滑り続けることが、果たして自分にはできるのだろうか。まがいなりにも小学一年の頃から続け、大会ではそれなりの成績を残してきたけれど、それは前に進みたいと思わせてくれる指針と憧れが身近に存在していたからで、それがもしなかったら、一人で黙々と取り組めていたかと聞かれると、無理だと答えられる自信があった。例え「好き」という絶対的な根拠があったとしても、だって確実に、つまらないだろうから。


「そ、それじゃあどうして鹿住さんは、高校では部活をしようと思ったんですか? 今までだってそうして来たのに」

「それは、……」


 友達に誘われたから、というありきたいな回答を舞は予想していた。しかしその予想は、まるで想像もしていなかった角度から落とされた。

 鈴憧は睫毛に掛かっていた前髪を静かに払う。


「感動してみたくなったんだと思います。私の知らない、スケートの世界に」

「感動、ですか」

「はい。質問の答えに適さないのであれば、もう少し考えてみますが」

「あっ、い、いやいや、それで充分ですからっ」


 彼女の水晶のような黒い瞳の奥に自分はどう映されているのだろう。その瞳はなぜ、「感動してみたいから」と言った素敵な考えに対して、無表情のまま蓋をして簡単に訂正しようとできるのだろう。舞はそんなことを考えながら、自分がどう映っているのかという揺らぎを押し殺し、何事もないように微笑んだ。


「好き、なんですね。スケートが」

「はい。……あ、でも、今のは理想とは違いますよね、すみません」

「ん? 理想?」

「はい。事前に霖から言われていたので。理想がないと入部させてもらえない、って」


 舞はそっと霖を見る。霖は部室の隅で、スケート雑誌を読んでニヤついていた。こいつが元凶だったか。履歴書も……。


「あ〜っと……、べつに理想があるなしで採用しているわけではありませんから安心してください。ただ、部活をやる以上は……ううん、私たちとここでスピードスケートをやる以上は、将来に目標を持って取り組んでほしいと弊社では考えています。その点について、鹿住ちゃんの意見を聞かせてください」


 鈴憧は片側の髪を耳に撫で掛け、考え込むように視線を逸らした。天井を見て、床を見て、棚を見て、霖を見て……。それでも考えがまとまらないのか、すっと舞の瞳に焦点を置き首を軽く傾けた。


「愛宕先輩の言う目標を、先におうかがいしても良いですか?」

「え? 私の?」

「はい。お願いします」


 机に固定されていた肘が下に隠れる。おそらくは胸元で腕組みをしている一五〇センチにも満たない小柄な体躯たいくが、平静に瞬きを繰り返す鈴憧の瞳に映し出されていた。

 舞は少しだけ視線を下げて、机に彫られた傷跡を見る。書かれていたはずの文字は上から乱雑に重ねられた痛々しい線によって見る影もなかったが、一年前に彫った時の気持ちは鮮明に覚えていた。


「私の目標はね、努力した日々が報われる瞬間にあるの」

「努力した日々、ですか?」

「うん。大会で結果を残すのはもちろん、良い記録を出すのももちろんだけどね、それ以上に、私と志絢には夢があるんだ」

「それ以上の、夢……?」


 鈴憧は困惑の眉を寄せて言葉を繰り返した。繰り返すと、舞の表情から幼さが一瞬だけ消え去った気がした。

 先輩は全国大会のことを言っているのだろうか。それとも全国優勝という目標を持って望んでいるのだろうか。部活といえば全国。それくらいの知識なら自分でも知っている。けれど「夢」と濁されてしまうと、思考を巡らせることが出来なかった。

 舞は真っ直ぐに鈴憧を見つめて言った。


「オリンピック選手になるんだよ、私たちは」

「え──」


 真っ先に、霖が声を漏らした。それは驚きの声というよりも、何を言ったのかもう一度聞き返そうとする音に近かった。鈴憧も目を見開いて沈黙している。意味が分からない、というような視線を舞に寄越すので精一杯だった。

 舞は驚く二つの表情から視線を外して続ける。


「だから君たち一年はさ、まずは覚悟だけしてくれればいい。楽しいだけの思い出づくりじゃなくて、苦しくても辛くても逃げ出さないって覚悟を、この部に誓ってほしいの。無理だから泣いて労り合うんじゃない……悔しいから衝突し合えるような、そんな覚悟を常に持って練習に望んでほしい」


 机の古傷の凹凸おうとつを指の腹で微かに撫でながら告げるその表情には、もどかしさの詰まった瞬きが一瞬だけ横切っていた。


 しかし霖と鈴憧にとっては、その言葉はとても芯のある思いがけない語気だった。その情熱に満ちた静かなる闘志の前には、「今、この瞬間から」という逃れたくても逃れられない迫り来る感情があることは明白でしかなかったから。心が大きくこだましたのが分かった。ただ滑れればそれでいい。楽しければそれでいい。いつしかそんな風に考えるようになっていた鈴憧だったが、でもそれは、子供の考える遊びだったのだと思い知らされたようだった。舞の隠し持っているその闘志の一部を、恥じることなく宣言したその無謀とも思える夢を、素直に格好良いとさえ思った。自分だけじゃない、霖だってそうなのだろう。見開かれた眼、大きく開いた口、読まれなくなった雑誌、癖毛の毛先を掠める埃。どれもがその言葉を聞いた瞬間、産声を上げて鳥肌にまみれたような表情をしている。今の言葉に嘘がないという不明瞭な期待感と希望感。こんな気持ちが自分にもあったなんて……。そう、二人は舞の強い言霊に圧倒されていた。


 鈴憧は立ち上がる。


「愛宕先輩、入部させて下さい。お願いします」

「舞、で良いから。ね?」


 たった数十分。いや、たった数分足らずで気付かされてしまった。言葉だけで植え替えられてしまった。スケートに対する気持ちに、こんな肌触りがあったなんて知らなかった。

 はい、と静かに頭を下げたら、舞は扉を開けて言い捨てた。


「あーそれから鹿住ちゃん、入部届書いたら顧問のたえちゃんに渡してといてね。来週から二人は晴れて綾第スピードスケート部の一員になるから、練習用の運動靴も忘れずに。ほんじゃ、明日からよろしくね、未来の金メダリストたち!」


 パタン、と明るく跳ねるように扉が閉まる。甲羅模様の窓ガラスに浮かぶ舞の小柄なシルエット。離れて見えなくなって行くのに、部室の中にはいまだ柔軟剤の澄んだ香りが残されていた。


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