(3)





「ただいま、おばあちゃん……」


 建て付けの悪くなった玄関の戸をガタリと開け、鈴憧は麦わら帽子の紐を首元で結んでいる祖母を見た。祖母は鳩豆のように目を開くと、怪訝けげんそうに言葉を返す。


「鈴ちゃん、学校は今日がらだったんでねがったか? どした?」

「うん、ちょっと勘違いしてたみたい。今日は午前中で終わりだったの」

「まあ、そうね。おばあちゃんこれがら畑に出っけども、夕飯ばなにっか?」

「うーん、なんでもっ」

「したっけ、ニンニグの芽と鶏肉の醤油炒めでがったか? 大根おろしと卵焼ぎもいるが?」

「うん。お米炊きとお味噌汁は私が作る。わかめとえのきで良いよね? あと、大根おろしもやっとく」

「ええ、そうね。んだば畑さ行って来っがらな」

「うん。行ってらっしゃい」


 祖母は建て付けの悪い戸に愛されているのか、彼女がガタガタと引き開けたそれをすんなり閉めて畑へ向かって行った。鈴憧は小さく息を吐き、靴を脱いで自室のベッドにどさりと身体を預ける。


 ──だから行かないって言ってるでしょッ! 私のことはもうほっといてよッ!


 泉に向けて放った自分の怒鳴り声が、枕に皺を作っては反芻はんすうされる。他に言い方はなかったのだろうか。もっと丁寧な断り方ができたのではないだろうか。泉の悲しそうに俯いていた表情が頭から離れず、ただ闇雲に暗くした視界の中が、満遍なく自分の醜い部分を映し出していた。


「最低だ……」


 何が『もう立ち直っています』だ。嘘じゃないか。あんな言い方でしか、紛らわせる術を知らないんじゃないか。心配してくれる人に八つ当たりなんかして、どこまで私は勝手なんだ。


「卑怯者……」


 鈴憧は枕の端を強く握り締めながら顔を埋めた。等間隔に鳴り続ける時針の音はやけに大きくて、不良を起こしているのか、時折ギシギシとしたきしみを運んでくる。隣の部屋から壁を伝って鼻を掠める線香の匂い。畳の縫い目から溢れ出すような、ひどく哀しい匂い。


「辛いのは……私だけじゃないのにね……」


 両目を隠すように右腕を置き、息苦しくなった呼吸を仰向けになることで外へ逃した。頭では分かっていても、自分だけが苦しいだなんて思い続けている。

 2011年3月11日、三陸沖の太平洋からやってきた津波──東日本大震災のあの日からずっと──。





 当時、鈴憧は六歳だった。平日の昼過ぎの空は今でも色濃く覚えていた。落ちて来そうなほどに低く濁ったにび色の空だった。


「ねえ鈴ちゃん、今日もスケート場に行くの?」

「うん。お父さんが迎えに来るの。一緒行く?」

「い、いやいやっ。昨日もその前からも言ってるでしょ? 私は運動オンチなんだってば」

「ふうん。ただ滑るだけだよ?」


 終礼が終わり裏門の駐車場前で座っていた鈴憧に、当時クラスメイトだった泉が話し掛けていた。泉とは小学校入学時から話すようになり、家は少し離れてはいたが、よく登下校を共にする仲だった。しかしこの時期になると鈴憧は毎日のようにスケート場に入り浸り、泉を誘っては断られ、運動音痴だと自虐する彼女に対し、滑るだけだよ? と繰り返す。鈴憧には滑れない意味が分からなかったのだ。運動音痴という言葉の意味も、ちゃんと理解できるようになったのはまだ先の話だったから。


「あ、お父さん来た」

「ほんとだね。じゃあまた月曜日ね、鈴ちゃん」

「うん。つむぎちゃんバイバイ」


 紬が手を振って帰ると、父親の乗った車が前に停車した。助手席のドアを中から開けた父親が、「おかえり」と優しく微笑む。鈴憧は小さな白い歯をニッと向けながら乗り込んだ。


「今日も楽しかったか?」

「うん。さっきまた紬ちゃんに断られたけど」

「ははは。手強いな、紬ちゃんは」

「うんどーおんち? なんだって。ただ滑るだけなのに、なんで嫌なんだろうね」


 シートベルトを締めると車は発車した。スケート場にではなく、自宅に向かって。


「ねえお父さん、スケート場は? こっちじゃないよ?」

「ごめん鈴、父さん仕事終わりだったから、シューズはお家に置いたままなんだ」

「ええー。車に置いとけばよかったのにー」

「お前が靴を掃除したいって、昨日部屋に持って行ったんじゃないか」

「朝言ってくれれば、車に戻したのに……」


 頬を膨らませ、鈴憧は小言を吐いた。父親は「ごめんごめん」と目尻を下げながら苦笑していた。

 小学校から自宅までは十分もかからない距離にあるが、その十分が、早く滑りたい鈴憧にとって大事な時間であることは言うまでもなかったので、父親は許してほしさに何度も娘をなだめた。

 道のりも中間に差し掛かった頃、車体に違和感を抱いた父親が海沿いの道路脇で車を停車させた。県道二○九号崎浜さきはま港線、崎浜漁港付近。


「お父さん、どうしたの?」

「ん、ああ……」


 父親は神妙な様子だった。その相槌には、少しだけ動揺の色が見えていた。揺れている。車が。車の底が。バックミラーに吊るしていたどんぐりのキーホルダーが、少しづつ大きく左右に揺れ動いていた。


「なあ鈴、そういえば父さん、鈴の先生に用事があったの忘れてたんだけど、……いったん引き返しても良いかな?」

「ええー。スケートわぁ?」


 鈴憧は依然、シートの下に両足をペタペタと打ち付けたまま唇を尖らせている。自分から大きく揺れ動いているせいか、外の異変にはまったく気づけていないらしい。父親は落ち着いた表情を繕いながら、我が子に向かって「お願いします」と手を合わせて見せる。


「……分かった。じゃあもう、今日はスケート場でシューズ貸してもらう」

「お、ほんとか? よし、そうしよーそうしよー」


 車は切り返されて再発進した。そこでようやく鈴憧も異様な揺れに両足を停止させた。


「ねえ、お父さん……?」

「ん? 大丈夫、ちょっとした地震だ。すぐ終わるさ」

「うん……──」





 緊急避難警報が鳴り響いたのと同時に、網膜に焼き付いていた回想は断ち切られた。玄関の戸を開けた祖母の足音が聞こえて来たからだった。時計を見ると、すでに十七時を回っていた。

 鈴憧はゆっくりと起き上がる。額の汗が、ひどく憂鬱だった。


「おばあちゃんごめん、ちょっと寝ちゃってた」

「ええ、そうね。今日がら気温上がる言ってだがら、部屋んなが涼しがったんでねが?」

「うん。そうだったのかも。……今からご飯の準備手伝うね」

「んだな」


 祖母は言いながら背中の中心を掻いた。上の方が痒いらしく指が届いていなかったので、鈴憧は含み笑いをしたまま代わりに掻いてあげる。祖母は背中が曲がっていて、とても小さい。骨張った背中を掻くと、朝から夕方まで畑仕事に精を出すその体力はどこから来ているのだろう、と時々不思議に思う。


「鈴ちゃんは、ほんにめんこいねぇ」

「ふふ、なに急に。別にそんなことないよ」


 めんこいね。これは祖母の口癖のひとつだ。鈴ちゃんは本当に可愛いね、鈴ちゃんは本当に良い子だね。その言葉は何よりも温かくて嬉しい。けれど、素直に甘えられない自分もいる。

 それと料理中、ずっと祖母は鼻歌を歌う癖がある。愛燦燦あいさんさん。この世で一番好きな歌らしい。鈴憧が一緒になってその歌を口遊くちずさむと、祖母は驚いたようにゆっくりと手を叩いて微笑んだ。ゆっくりと肩を左右に傾けて、「んだ。んだ」と合いの手を入れてくれる。歌うのが好きなわけじゃない。鈴憧は、どちらかといえば上手な方ではないから。それでも歌いたくなったのは、先日出会った、霖に影響されているからかもしれない。


「おばあちゃん、……」

「な?」


 味噌汁に蓋をして、鈴憧は歌の途中で徐ろに口を開いた。


「もし私がさ、スケート辞めたいって言ったら、おばあちゃん怒る?」

「んだな。怒るよ。嘘づぎは許さねぁーでな」

「……うん。……そうだよね」

「んだ。嘘づぎはばあちゃん嫌いだ」

「……うん」


 頷くと、足元には涙が落ちていた。鈴憧は祖母に気付かれないように、伝う涙を手のひらで消し去る。

 味噌汁が沸いた。コンロの火を止めて、少し冷ましておいた卵焼きに包丁を入れる。


「じゃあさおばあちゃん、」

「ん」

「私がスケート続けるって言ったら、嬉しい?」

「んだな。嬉しいよ」

「ほんとに?」

「んだよ。幸せだな。父ちゃんも母ちゃんも、幸せだ」

「そっか……」

「んだ」


 六等分に切られたそれは、熟れたマンゴーのように優しい色だった。口端に貼り付いていた卵焼きの欠片に、もう霖は気付いただろうか。いつ、どこで、どんな風に発見しただろうか。彼女のあの、元気で自由な性格は、スピードスケート部の先輩たちに好かれているだろうか。

 気付けば霖と出会ってから、今日が、明日が、楽しみになっている自分がいる。自分も霖みたいになりたい。気が向くままに好きなことだけを見つめていたい。そんな思いが募っていって、とてもつらくなる時があるけれど。


「おばあちゃん、」

「ん」

「ちょっとだけ、今日は楽しかった……」

「ええ、そうね」

「うん。でもね、悪いこともしちゃった。……同級生にね、八つ当たりしちゃった」

「許せねぁーど。そん子に明日さ謝ってけ。今日はひとづ卵焼ぎ没収だな」

「うん……」


 テーブルに並べた夕飯はひらひらと湯気を踊らせ、掘り炬燵ごたつに座って眺めた祖母の目線は少しだけ高かった。腰が痛いと数年前に買ってあげた籐椅子とういす。そこに鈴憧が緩衝材かんしょうざい代わりに使っていた紫柄の花のクッションを敷いて腰掛けている。その花の名前が竜胆りんどうで、自分の名前の由来であると知ったのは、両親を津波で亡くした後からだった。


「……美味しいね」

「んだな」

「……明日は私、帰りが少し遅くなる」

「なしてね」

「うん。部活にね、入ってみようかと思って」

「ええ、そうねそうね」

「うん。良いかな……?」

「んだ。けっぱれ」

「……うんっ」


 それ以上の会話は、必要なかった。ご飯が美味しくて幸せだったからなのかもしれない。

 ふと天井を見上げたら、蜜の結晶が琥珀こはくのように光っていた。





 翌朝、教室内はとある光景に静まり返っていた。窓際最前列の席で読書をしていた泉に対して、鈴憧が深く頭を下げていたからだ。


「──昨日はごめんっ……。私、酷いこと言っちゃって……」

「う、ううん、ううんっ。鹿住さんは悪くないよっ。私がね、無神経だっただけだからっ」

「違う。泉さんは私を心配してくれて、ずっと私を気にかけてくれてたのにあんな言い方で突き放したりして、……ほんとにごめんなさいっ!」


 泉はたまらず立ち上がった。椅子が甲高く床を擦る音が一瞬響き、開かれていた本が表紙カバーを傾けた。


「や、やめてよ鹿住さんっ。私ほんとに、昨日言われたことなら気にしてないからっ。だからその……気を遣わせちゃって、ごめんね?」


 顔を上げた鈴憧は泉を見た。二つの三つ編みがうなじから胸元に沿って下げられており、同じ緑のネクタイなのに、彼女のそれは随分と穏やかな色をしているように見えた。その瞳は少しだけ潤んでいて、目元に浮かぶ薄いそばかすは、彼女の人の良さを表しているみたいに儚げだった。


 クラスメイトの視線が二人に集まる。その視線の中には、何が起こっているのか理解できていないらしい霖の姿もあった。昨日のクラスの空気感と、彼女が早退したことは何か関係があるのだろうか……。

 泉はへその辺りで両手を絡め、不意の出来事に唾を呑む。


「え、えっとね、鹿住さん……。本当はもっと前に言っておけば良かったんだけど、その……無理して、私と話そうとしなくても良いからね? ほら、私って地味な性格だしさ、……また、鹿住さんに変な噂が立っちゃうと嫌だから……」


 彼女はそう言うと静かに座り直した。外れかけていたカバーを戻し、表紙の上を軽く撫でている。鈴憧はその仕草を見つめ、そうして本を手に取った。


「これ……まだ持ってたんだね。何回読み返してるの?」

「えっ? あ、うん……わ、分かんない。ずっと、持ち歩いてるから……」


 オレンジの四角い枠が青い表紙の中央にデザインされ、その枠の中には、頭と胴体が極端に大きなトカゲのような生き物がシルエット状に横を向いている。カバーの色は褪せ、ほとんどに原色の鮮やかさは見られない。

 井伏いぶせ鱒二ますじ作『山椒魚さんしょううお』だった。


「私はね、ずっと、鹿住さんにとっての蛙になりたかったんだと思うの……」

「蛙?」


 唐突に、そう告げて俯いた泉に聞き返す。物語の内容を知らないので、当然と言えば当然のリアクションだった。


「うん、蛙。……井の中でもない、大海に興味もない、ただの岩屋の蛙に。……そこでね、誰かが困って心の中で泣いてないかなって、寂しくないように、寄り添える人になりたかったんだと思うの……」


 泉は再び手にしたそれを、立ち上がって鈴憧に差し出した。鹿住さんが私にしてくれたように、私も鹿住さんの支えになりたかったの、と。


「泉さん……」

「でも……大きなお世話だよね、私なんかが支えになれるはず、ないのにね」


 そう言って泉は少しだけ笑みを浮かべると、すぐに元の緊張したような表情に戻った。手渡されたそれに、鈴憧はそっと右手を置く。指で紙の表面を撫でてみると、水を吸って乾いた後のように波打っており、紙の色も日に焼けてひどく褐色していた。あの日泉と丘の上から見下ろした街並み。一瞬にして海に飲まれ、鈴憧の父親は行方不明になった。


 ──私のスケートシューズッ! イヤだイヤだッ!


 あの時そんな言葉さえ口にしなければ、取ってくるから待ってろよ、なんて言葉も聞こえなかったのに。私がわがまま言わなければ、逃げ遅れたお母さんを、お父さんが連れて帰ってきてくれたはずなのに……。


 そのとき泉は鈴憧の腕を離さなかった。危ないから鈴ちゃんは行っちゃダメだよ、と強く引き留めて離さなかった。その弾みで丘の上から落としてしまった本。ページをって中を見れば、インクが禿げて読めなくなっていた部分に、きっと彼女のものだと思われる文字の繋ぎが随所に書き込まれていた。捲るたび、文面に広がる活字は機械的なていことごとく擦り減らしていて、彼女の文字だけで何ページも占められている部分も多々あった。優しい字だな……と思った。


「新しいの、……買えば良いのに」


 呆れにも似た感心を、彼女の目を見てぼそりと呟いてみる。すると泉は頷いた。


「うん、そうなのかもねっ。……でも、この本以外に、この小説の読み方を知らないんだよね、私っ」


 そうしてはにかんでいた。六歳の頃に親に買ってもらい、学校で独り静かに読んでいた本。鹿住鈴憧という女の子が、話し掛けてくれた時に持っていた本。


『何読んでるの?』

『えっ、しょ、小説……』

『スケートより楽しいの?』

『うん。……私、運動オンチだから』

『へえ〜……──』


 思い出の光景はすぐ目の前に佇んでいた。あの頃よりも随分と背は高くなっていたけれど、互いの目線はいつもこんな感じだった。


「ねえ泉さん……良かったらさ、泉さんもスピードスケート部、入らない……?」

「う、ううん、やめとくっ。……前にも言ったことあると思うけど、私、運動音痴だからさ」

「ただ、滑るだけだよ?」


 くふふ、と込み上げてきた笑みを含みながら泉は首を横に振る。静まり返っていたクラスメイトの、他愛のない談笑が聞こえ始めていた。昔の関係に戻ったみたいだった。「生徒会に入ることにしてるの」そう伝えると、鈴憧は「そっか」と囁いた。


「そっちの方が、つむぎには合ってるよね、絶対」

「うん。……誘ってくれてありがとう。……鈴ちゃん」


 釣られるように出てきた懐かしい呼び方。その名前の余韻を噛み締めたら、不思議と視界が潤んでいた。

 今日はなんだか暑い。笑った弾みで流れた汗が、ゆっくりとそばかすの上を滑って行った。


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