(2)





 結局、彼女は見つからなかった。そういえば連絡先もまだ交換していなかったので、職員室に行き担任の妙崎たえざきに尋ねてみたが、体調不良で早退したと言う。霖はびっくりしながらも、なす術がなかったので「そうですか」と納得せざるを得なかった。


「具合、悪そうでしたか?」

「ええ。ちょっと吐き気がするって」

「そっかー。お昼のご飯が腐ってたのかなぁ……」


 軽く片頬を膨らませ、考え込むように視線を下げた。

 すると妙崎が、霖の手にある部活動紹介のそれを指差して問い掛けてきた。


「久季さん、もしかしてだけど、何か部活に入る予定なの?」

「え、まあ。スピードスケートに興味があって入ろうと思ったんですけど、ないみたいだったのでどうしようって」


 答えると、妙崎は冊子を拝見してページをペラペラと捲り出す。そうして目当てのページに辿り着き、霖の方に反転させた。


「ここにスケート部があるでしょう? スピードスケートには今、二年生が二人しかいないのよ。今日の放課後に部室棟廊下で練習するって言ってたから──」

「あるんですか!? 見学したいですッ! 入りたいですッ!」

「う、うん……。久季さん、職員室では静かにね?」

「はいッ!」


 妙崎の唇に添えた人差し指に向かって答える。教師生活一年目の二十三歳。出身は東京と記憶していたので、同郷への微笑みも込めてガッツポーズをしてみせた。


「あ、ありがとう久季さん。でも、部活なんて入って大丈夫なの? お父様によると久季さんは──」

「大丈夫! ずっと私、学校で皆勤賞を取ってみたいという一つの夢があったので!」

「そ、そう」

「はいッ! だから部活も、精一杯頑張りますよ私ッ!」


 そう言ってこちらへ向けながら笑顔で手をかざす生徒に、妙崎は気圧されながらも注意するよう促した。


「む、無理のないようにね? あと、迷惑になっちゃうから、静かにして?」

「はいッ!」

「うん、元気はすごく百点なんだけど、口元に、何か付いてるわよ?」


 鼻腔を膨らませていた霖は指差されたほうを触ってみる。わ、卵焼きだ。どこか嬉しそうに白い歯を忍ばせて、機械的にそれをパクリと処理した。

 大声で挨拶をしてドアを閉めた生徒に妙崎は、賑やかな一年になりそうだと微笑みつつデスクの一番下の引き出しをスライドさせた。


「えーっと、久季霖さん久季霖さん……お、あった」


 そうして生徒資料に目当ての名前を発見し、そのファイルを取り出す。



 ──久季霖。東京都江戸川区出身。四月九日生まれ。

   5歳。心室細動しんしつさいどう不整脈ふせいみゃくの一種)発症。長期治療入院・手術経験有り。

   13歳。中学一年春、再発。同年十月から今年の春まで長期検査入院。

   現在。長期入院中であったが、本人の意思を十二分に考慮し鑑みた上、

   それを尊重し定期検査の条件付きで本校への入学を認めたものとする。

   尚、父母ともにれに同意したむね、本校への入学を認めたものとする。

   その他激しい運動が見られる体育・学校行事などは原則、見学・公欠とし、

   それ以外に関しては一生徒と対等に扱い、本人の意思を尊重・配慮すること。

   ついては本校職員には、細心の注意を払い勤める旨、此れを共通認識とす。

   尚、已むを得ず彼女が長期期間の入院を余儀なくされた場合につき、

   本校は出来得る限りに努め、救済として最大限に尽力することを次に記す。

   卒業・進学・就職等の事柄にいて此れに準拠出来ない当職員は、

   其旨を本校長に明確明示し、申し出ること──



「……ご両親は二年前に離婚。社会人のお姉様は福岡在住。大学生のお姉様とお母様は東京都世田谷区にて同居、か……」


 最後に記されていた文章を読み終え、妙崎はそのページを静かに閉じた。


「あの、元気そうな子が……」


 ぎしり。神妙に、背もたれに身体を預ける。歪んだ椅子のバネが、黒く重たくのしかかった。いつの間にか冷め切ってしまった珈琲コーヒーの表面を、妙崎はじっと温めるように眺めていた。





「──お、来たよ志絢しはる。あの子が先生が言ってた新一年じゃない?」

「ん、久季さん、だったっけ? まいよりは身長高そうじゃん」


 部室棟の外廊下脇にあるスペースで、志絢と舞は廊下の中腹でキョロキョロと辺りを見渡す霖に気付いた。白木蓮しろもくれんまばらに開花するその木陰から、小柄な舞は「おーい」と手を振って爪先立ちをする。おどおどと近付いてくる少女の手には封筒が握り締められており、新品の制服のスカート丈に何度も左手を擦っていた。


「めちゃくちゃ緊張してないか? あの子」


 胡座あぐらの体勢で足裏を合わせながら、股関節のストレッチをしていた志絢が答える。舞はかかとを下ろし、「そだね」と若干口角を引きらせながら相槌を返した。黄縁きぶちの丸メガネに浮かぶ双眸そうぼうはパチリと瞬きを繰り返し、ウェーブのかかったミディアムヘアが、視界を遮らないようにセンターで分けられている。


 綾里第一高校のスピードスケート部には二年生の志絢と舞しか所属しておらず、部が設立されたのもこの二人が入学してからだった。しかし設立と言っても顧問を獲得ていたわけではなかったので、その全容は単なる同好会みたいなものだった。だが、二人は今年、新任である妙崎に着任早々頭を下げ、何事も頼まれたら断れないがモットーである妙崎は、種目やルールも判然としないまま『顧問』というサイン欄に名前と印鑑を提供したのだった。そうして晴れて正式に部活動となったスピードスケート部は、新たな入部希望者を獲得すべく、出来得る限りに親しみを込めてその表情を霖へと差し向けていた。


「こここここここ、こんにちはッ! はははははは初めましてッ! わわ、私は一年ににに二組の、ひひひひ久季霖ッ、ですッ!」


 しかし、眼前で深く頭を下げながら封筒を差し出してきた一年生を前に、その柔らかく取り繕われていた表情は見事な破顔を露わにしていた。


「ね、ねえ久季ちゃん……? そんなに緊張しなくて良いから、とりあえず、頭上げよっか」

「はいッ! ありがとうございますッ!」

「う、うんっ」


 絡みづらそう、というのが、二人が霖に抱いた最初の印象である。今にも飛びかかって襲って来そうなほどの清々しい発声源。白木蓮の花弁がひらひらと、受け取った封筒の中心に落ちてきた。舞は喉を一瞬締めたのち、コホンと空咳をして封筒の中身を確認する。そこに納められていたもの、それは証明写真の貼られたおかしな用紙だった。


「え、なにこれ。……履歴書?」

「だな。うちら、バイトか何かかと勘違いされてるのかも」


 舞は紙と霖を見比べたのち、近くに立てかけていたパイプ椅子に手をかけた。それを広げて霖の前に設けると、「ど、どうぞ。お座りください」と丁寧に案内文句を並べる。

 霖は再度お辞儀をし、これにゆっくり着地した。


「で、では、久季霖ちゃん。簡単にで構いませんので、入部動機をお聞かせください」

「はいッ! 私がこの部に入ろうと思ったきっかけは、二日前にスピードスケートを生で見て、感動したからですッ!」

「二日前? スピードスケートのリンクがある施設は、この辺りではまだどこも開場していないはずですけど」


 きらん、と丸いレンズが光を反射させる。舞の後ろで腕組みしながら面接風景を見ていた志絢が、その疑問に訂正を加えた。


「二日前って言ったら、その日までは県営リンクが開場してたはず。多分そこで見たんじゃん?」

「あ、確かに」

「はいッ! おっしゃる通りですッ!」


 パイプ椅子に腰掛けた霖がピシャリと背筋を伸ばした。


「えーっと、じゃあ久季ちゃんは未経験者、ってことで良いのかな?」

「はいッ! まだジャンプしかできませんッ!」

「え、ジャンプ? 滑れるってこと?」

「いえッ、ジャンプのみですッ! 滑ったら転んじゃいましたッ!」

「あ、そ、そう……」

「滑れないと、入部させてもらえないのでしょうかッ!」

「い、いえ。そんなことはないんだけどね、スピードスケートがどういう競技か、久季ちゃんは知ってる?」

「はいッ! えっと……陸上みたいに、規定の距離だけ滑走してそのタイムを競う競技種目ですッ! シューズはフィギュアやホッケーなどとは異なりッ、スピードスケートはくるぶしまでしかありませんッ! エッジは薄く長めに作られていて、ハードルがあればジャンプするそうですッ!」

「ん? ハードル?」

「はいッ!」


 二年の二人は顔を見合わせる。そんな競技あったっけ? いや、ない。志絢が首を横に振ると、舞は再び正面に向き直った。


「えーっと、久季ちゃん。ハードルについては後々聞かせてもらうことにして、スケートって冬季以外での練習は基本的に体作りがメインなんだけど、その点については理解してる?」

「いえッ! 学校にスケート場がないことをお昼に知って、何のために存在してるんだろうって疑問を抱きながらお訪ねしましたッ! スケート場はないのに部活動はある。ちょっと矛盾してるし何のために存在してるんだろうなあ〜って思ってますッ! ほんと、何のために存在してるんだろうってッ!」


 悪意はない。それは分かる。けれど三回も同じ台詞を言われると、やけに締め付けてくるものがあった。

 志絢は満面の笑みで馬鹿にしてくる無邪気な一年の前に、長方形のトレーニング用器具を持ち出した。板の上に敷かれた黒いシート。その上には黒い布で作られたようなシューズの形をした何かが、二つ並べて置かれている。


「これ、何か分かるか?」

「いえッ、ぞんぜないですッ!」

「存ぜないって何語だ」


 ぼそりとツッコミ、志絢はその上に佇んだ。その布状の変わったシューズに、志絢は靴を履いたまま両足を入れていく。ボーイッシュな口調は下に落とされたまま、続けて説明の段に入った。


「スライドボード。またはスライディングボード、バランスボード。呼び方は好きなのを選んでもらって構わないけど、これはスケーティング用のトレーニング器具だと認識してくれればいい。このシューズカバーを履いて、この上を横移動に滑る。フォームの確認だったりリンクの感覚だったりを維持するためとか、足の運び方とかバランスのかけ具合とか、リンクの上では意識的に強化できない部分を、これを使っておぎなうんだ」

「へえー」

「ちょっとやってみるから見てな」


 霖の目の前で、志絢はボードの上を左右に滑り始めた。端を蹴ってまた端へ。端から滑ってまた端へ。二〇〇センチほどのその上で、膝を曲げ前傾に上体を屈め、両腕を左右に振る。流れるような一連の動作は、土踏まずすらシートに着面しているみたいに、片足で全体重を支えていた。体幹が全くブレない。その光景に、霖は小さく拍手しながら感心の眼を向けている。

 志絢は姿勢を戻してふっと息を吐く。


「まあこの他にも、スケートは冬季以外で色々なトレーニングをしてる。毎日リンクで練習できると思ってここへ来たなら、入部は辞めておいたほうが良いかもな。どうする? 久季」


 舞の横に佇み、拍手が鳴り止むとそう告げた。舞もこれに頷いて、クイとメガネの位置を整える。


「基本的に体力作りとか体作りがメインのスポーツだから、結構『理想とは違った』って続けられない初心者の人が多いの。もちろん、入ってほしくないから突き放すみたいに言ってるわけじゃなくってね、入部してみて『違いましたぁ〜』って嫌いになられるのが嫌だから、こうしてちゃんと説明したかったの」


 本来であれば、部員が増えることは二人にとって願ってもない好機だった。スピードスケートはオリンピック種目ではあるが、その実、スケートリンク等の施設数には限りがあり、そのほとんどが東北や寒冷国に集中しているため、フィギュアなどの有名どころを覗き、寒い地域でもなければ比較的に競技人口の少ないスポーツなのが現状だ。経験者や各大会で結果を残そうとするならば、綾里第一高校のような設立されたばかりの部に足を踏み入れることはまずない。中堅校・強豪校・名門校に入学を希望し、できるだけ練習設備が潤沢化されている学校ないし、有名コーチ・監督を選んで入学入部する人が大半を占めているからだ。


「どう、かな……?」


 部員が増えれば参加できる種目も増え、同時に喜びも苦しみも共有できる。映画や小説などのエンターテイメントが好きな舞にとっては、そんな部活動の青春ストーリーがいつも憧れの頂点にあった。経験者の入部希望であれば「よろしく」と二言三言で先輩後輩の関係を成立させることができるのだが、二日前に一度だけ体験してジャンプができるようになったという初心者の霖の熱を、自分が維持させ続けてあげるのは正直難しい。期待や理想を裏切ってしまうのではないか。新しくかれた種を、自分のせいで芽が出る前に枯らしてしまうのではないか。考えすぎだ、と中学の頃志絢に言われたことがあったが、ネガティブに考えてしまう自分の癖を直すことができずにいた。

 なにも答えず座っている一年生に、舞は履歴書の入った封筒を返すように差し向けた。


「意地悪な言い方でしか説明できなくって、ごめんね? 趣味でやる分には通年開場してる施設もあるから、もう一度じっくり考えて──」

「必要なんですか?」

「え?」

「スピードスケートには、一度理想を持たないと入れないんですか?」


 真っ直ぐに見つめる瞳が、何に不満があるわけでもなく無表情に見上げている。その純粋そうな眼差しを見て、舞はもう一度「?」マークを頭上に作った。霖は小首を傾げて続ける。


「あ、あの、先輩たちのおっしゃっていることはすごく分かりました。理想があってスピードスケートを初めて、その理想と違う部分を発見して辞めちゃう……。つまり、私が理想を持ってないから、入部すらさせてもらえないんですか? 理想を持てば、『違った』って思うまで続けさせてもらえるんですか?」


 先ほどの、元気印が何個も貼り付いていた声とは打って変わって、ひどく真面目に心を掴んでくる声音が目の前にはあった。舞は差し出していた封筒を無意識のうちに下げ、ただ静かに言葉を紡ぐ。


「久季ちゃんはさ……、理想を持ちたい?」

「いえ、まったく」

「じゃあどうして、スピードスケートをやってみたいって思ったの? 初めて見たとき、あんな風に自分も滑れるようになりたいって、思ったから?」

「いえ、全然。むしろその逆で、私には無理だなあ〜って思いました。だけど入りたいんです。最初に答えた通り、ただ感動したので」

「そう……」

「はい。──あ、あと、大好きって気持ちを、私もスピードスケートで感じたいんです。強いて言うならそれが私の理想です。私も持ってました、理想。だからこの部に入れてください」


 気持ちを込めていないようで、気持ちの込められた口調。何も考えていないようで、ちゃんと考えているような口調。霖が淡々と放ったその語気のそばには、けれどはっきりと純粋な白木蓮の花びらが舞い降りていた。

 たった三秒足らずの沈黙のあと、ポニーテールに髪を束ねていた志絢が嬉々として吹き出した。怖そうで凛々しい雰囲気だったその容貌ようぼうが、笑い泣きしたように舞の背中を軽く叩く。


「ねぇ舞。こういう子はさ、なにをされてもスケートを嫌いになったりしないよ、絶対」

「……」

「良いんじゃないか? 今度こそ」


 舞は僅かに表情を曇らせた。うん……。そうして何かに頷いたのち、苦笑を交えながら封筒の角をクシャリと潰す。その指は細く小さく、爪の表面に赤い跡を忍ばせている。袖や首周りが青い線で囲まれた体操服。青いズボンに、小さな膝小僧。彼女は右手を伸ばし、霖に対して揚々と声を弾ませた。


「──二年部長の愛宕あたご舞。後ろにいるのが同じく二年の副部長、甲塚こうづか志絢。これからよろしくね、久季ちゃん」


 霖はその手をパンと両手で握り締め、深い喜びの表情を剥き出しにした。


「はいッ! 舞先輩ッ、志絢先輩ッ! よろしくされてッ、よろしくお願いしますッ!」

「ん……?」

「あん……?」


 舞と志絢は互いを見る。まるで鏡合わせのように、どちらの頭の上にも「?」マークが浮かんでいて、下げられた後輩の頭を面白おかしく捉え直す。頭が良いのか、馬鹿なのか、真面目なのか、天然なのか……。二人は戻り始めたその後輩のお辞儀に向かって、不確かな青春への一ページをめくり始めていた。


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