(5)





「ひやあ〜、鈴ちゃんが楽しそうに笑ってる。……こりゃあ魂消たまげた」

「ん、あ〜どうも、こんにちは」


 リタイアした男は後ろのベンチに腰を下ろして、驚いたように目を丸めている男性に会釈した。歳は七十前半くらいだろうか、少し垂れた目蓋の奥に、つぶらな瞳が宿されている。


「あなたたちは、鈴ちゃんのご友人で? 見ない顔ですが……」

「あ〜っと、娘がですね。友達になったみたいでして」

「ここの方ですか?」

「はい、私は元々小石浜の生まれで、今日五年振りに東京から帰って来たんです。引っ越しを致しまして」

「ふうん……」


 軽い職務質問を受けているようで、その老人のドス混じりな声質に緊張しながら男はもじもじと質疑応答を繰り返す。手に汗握り、ベージュの短パンの脇でそれを手早くゴシゴシしながら。


「では、今日から?」

「はいっ」

「あそこにいる娘さんと鈴ちゃんは、今日会ったばかりと?」

「はい、もちろんっ。おっしゃる通りでございますっ!」

「お名前は」

「あ、はいっ! コホン。え〜私、──生まれも育ちも小石浜っ! 二十年前東京で、見目麗みめうるわしき妻女と出会い、愛想尽かされ御座候ござそうろうっ! ……え〜っと、あそうだ、──っ飛んで火に入る夏の虫、っ五臓六腑と松葉杖、っ恋し浜とはもう言えないね幸せ波にさらわれちまって、もうりだよいざ候っ! っま──」

「おい、なにを小気味良くリズム取ってんだ。名前だよ名前、お嬢さんの。あんたのことは聞いちゃいない」

「あ、はいすみませんっ」


 老人の持つ丸めた新聞紙で出っ腹を叩かれ、男は緊張から出る蟀谷こめかみの汗を指の腹で拭き取った。娘の名前と年齢を伝えると、老人はひどく驚きながら再びリンクの彼女を眺める。彼女が娘に向かって苦しそうにお腹を抱えて笑うたび、その老人の瞳には透明なものが溜まっているようだった。


「あの、なにか変でしょうかっ……?」


 恐る恐る老人に問い掛ける。逆立った短髪には随所に白髪が蓄えられており、微かに震えた唇は、「信じられない」「良かった」「本当に良かった」と何度も小さく呟いていた。


「……今日は良い日だ」

「え、まあお天気良いですもんね」

「……あの子が、誰かとあんなに楽しそうに笑ってるなんて」

「は、はあ」


 いまいち事態が把握できず、男は間の抜けた相槌を返す。変な老人が居たものだ、と横に半歩距離を空けながら。


「──お父さーん、見てーッ。一瞬だけどこんなにジャンプできたよーッ! ほらッ、ほらーッ!」


 霖は微々たる成長に興奮しきって、父親に向かい歓喜の笑みを披露した。ピョンというよりはポン、ポンというよりはセッ。巻き戻しと再生を繰り返し、十数回目にしてようやく分かるほどの、世にも奇妙な、膝がかろうじでピクリと動くコマ送りのような成長であった。父親が頭上で拍手を捧げると、霖はニヒヒと笑って彼女に宣戦布告の握り拳を差し向ける。これに対して鈴憧は冷静な眼差しで否定した。


「飛んでないし」

「い〜や飛んでるね! 蛙だってここまでは飛べないってくらい!」

「井の中の?」

「あはは、なんで食べちゃうんだよ。胃の中で跳ねられたら気持ち悪いでしょ。まあ鶏肉っぽい味とは聞いたことあるけどさ」

「食べるんだ、井の中で」

「そっちが言ってきたんでしょ。ってかなに、胃の中って」

「いまの霖そのままのことだけど」

「ん? ほんと急になに言ってんの。ここが胃の中なわけないじゃん」

「ほんとに当てはまってる人初めて見ちゃった……」

「もう、意味分かんない。お腹空いたの?」

「いや、無かったことにしたいから、今の会話全部忘れて。やり直しは聞かないだろうけど、善処したいから……」


 はぁ、と嘆きのため息をがっくりと落とす。鈴憧は「飛ぶのはクリアしたことにして今度は滑ってみれば?」とどうにか時を戻そうと試みた。ご満悦に咲く健気な笑顔が、眩しく顔を照りつける。


「でもどうやったら上手く滑れるの? これ、重くて言うこと聞かない」

「氷面に沿って滑ろうとするんじゃなくて、氷を掴んで押し出すの」

「掴むの? 氷を」

「そ」

「足で?」

「そう」

「どうやって? 溺れるよ?」

「溺れるのが怖いならもぐればいい」


 口で説明するの苦手だからその場で見て真似て。そう言って、鈴憧は霖に背を向け自身の足元を指差した。鈴憧は冷静な口調をしていたが、霖が自分と同じ感覚を持っていることに心の中で驚いていた。


 ──溺れる。


 その表現が氷の上を何に例えているか、真っ白で冷たいこの景色がどう見えているのか。霖が何気なく返してきた言葉の語気が、自分の世界と同じ色をしていて嬉しかった。

 潜れないから溺れるんじゃん……。霖はぶつくさと小言を吐きながらも、目の前にある身体の動きを言われた通りに真似てみる。前傾姿勢の彼女が膝を曲げて軽く左右に傾いたので、同じようにやってみる。が、姿勢を維持するだけで、太腿ふとももに張った筋肉がぷるぷると震え始めた。全体重が踵に集中しバタンと尻から転げ落ちる。


「イテ、イテテテテ……」

「お尻で支えるからそうなるんだよ。もっとお腹に力入れないと。体幹グチャグチャじゃん」

「そ、そんなこと言ったって、」

「余裕なんじゃなかったの。さっきの威勢はどうした」


 お尻をさすってつらそうに身動みじろぎする霖に右手を差し出し、座ってたら冷えちゃうよ? と世話を焼く。鈴憧は掴んで来た手をグイと引っ張り、霖が再び転ばぬよう腰を支え持った。


「きょ、今日のところはこのくらいで良いかなっ。目標は達成したしっ」

「すっごく地味で難しいでしょ。スケートって」

「んま、まあまあ〜、かなっ。コンディションにもよるだろうけど」

「ふふ。あっそ!」


 呆れて相槌にやや力が入る。そこでやっとリンク外に見知った老人の姿を発見し、コクリと挨拶を交わした。

 老人は二人を手招きして感慨深く頷く。


「久しぶりだねぁ、鈴ぢゃん。今がらが?」

「はい。って言っても、この間も来たじゃないですか」

「んだば、安否確認が老人の性だぁ。かわりねよぉーでいがった」

「じゃあ私も。元気でしたか? 安平やすひらさん」

「かっはは、おらぁいずだって変わりねぇよぉ〜」

「くふふ、今日もこれからなんですか?」

「んだんだ。目指せ56秒台!」

「ふふ、昨日のタイムはどうだったんですか」


 尋ねると、老人は八本の指を顔の前にかざしてため息を吐いた。その後に、霖に向かって微笑む。


「嬢ぢゃん、今日がはづめでが? スケートすぁ」

「んあ?」


 何か質問されている。老人の訛りばかりに気を取られていたため、内容が文字化けのように全く頭に入って来ない。眉間に作った皺が数秒の奇怪な沈黙を二人に与え、霖は開いていた口をおもむろに動かした。


「そ、そう……です?」

「なんで疑問符置いたの」


 間髪入れず、鈴憧が険しい表情を浮かべる霖に向かってツッコミを入れる。霖は何故か小声を張り上げながら訴えた。


「だ、だって分かんないんだもん! 私あのおじいさんに殴られた!」

「え、なにいきなり」

「思いっ切り渾身の右ストレート打って来てるよねあのおじいさん! 私ド素人なのに!」

「は? なに、格闘技の話?」


 安平に背を向け、霖に耳打ちされるように肩を押さえ込まれた鈴憧が不審を転がす。恋し浜駅で出会った老爺ろうやといい安平といい、その強すぎる訛りは爆発的に霖の右脳と左脳をサンドバック代わりにしばき上げていた。

 霖は大股を広げて両手を頭の上に置くと、勢い良くそれを二、三度振り下ろしながら声を荒げ出す。


「──分ッかんないのッ! ──言葉がッ! ──発音がッ! ──インズネ〜ションがッ!」

「あ、いまちょっと訛った……」


 鼻の穴をひくひくと膨らませて息を荒げる霖に、鈴憧は冷静に現場報告を差しはさむ。分からないならそう言えば良いでしょ。正論を持ち込むと、霖は疲弊し切ったそのサンドバックの埃を払い、安平に真っ向からドカドカ近付いて直立不動に右手をピシャリと掲げ始めた。まるで宣誓せんせいでもするかのように。


「──おじいさん、もう殴らないで下さいッ! 私のサンドバックの鎖が千切れそうですッ!」

「ん、んあ? ……」


 待ちぼうけを喰らっていた安平は眼前で目をつむりながら訴えて来る少女に対し、徐々に徐々に言い知れぬ恐ろしい覇気を感じてがくぶると二つの膝小僧を震わせ始める。それを見た鈴憧が、「だから手加減してくださいッ!」だの「でなきゃフジツボの群れを毎日お家に送り付けますからッ!」だのと続けざまに意思表示する人間を、恩師の元から引き剥がした。


「馬鹿じゃないの霖ッ! そんな大声で訳分かんない怒鳴り声上げられたら安平さんが死んじゃうでしょッ!」

「んッんん〜まだ言いたいこといっぱいあるッ! 離してケレッ! オラもう東京さ帰るダヨッ!」

「ダ〜メ、だってば! もうッ!」


 絵本の『おおきなかぶ』を連想させる鈴憧の引っ張りように、俺も手伝ったほうが良いのか? とリタイア熊が遠くでコーラをがぶ飲みしながら慌てふためく。そんな熊の心情など梅雨知らず、霖と鈴憧は氷の上で顔を赤らめ、なおもガチガチ震える安平に絶大な恐怖と安堵を交互に植え付けていた。この霖という子の前では、どうやら訛りは抑えておいた方が良いようだ、と。





「go to the start」


 少し日差しの弱まった時間帯になった頃、平静を取り戻すことのできた安平はストップウォッチを片手にスタートラインの横に佇みながら最初の号令を出した。カチッ、と鈴憧は氷面に一度だけ、右足のエッジを刺すように突き立てる。赤黒ベースのレーシングスーツ。だいだい色のネックウォーマーに、藍色のニット帽。クールな身なりに着替えた彼女は、サングラスを再び下ろし、表情から爪先までの筋肉をすべて脱力させるように息づいた。


「ready」


 深く腰を落とした沈黙が、最後の合図に向けて風を凪ぐ。


「go──!!」


 走り出す。長かったような短かったような、僅かとも思える沈黙を置き去りにして。

 グンと加速して行く。あめ色に染まった氷の上を泳ぐように、滑らかに流れる美しい足音。それが霖の時間ときだけをただの一瞬にして奪い去り、無音の吐息さえ聴こえてきそうなほどの高揚が、瞬きすることを決して許さなかった。


「鈴ちゃんもっと低く! 指先しっかり意識して!」


 耳も鼓膜も何もかも、全部彼女の足元に吸い寄せられていくみたいに動かない。安平の激しく轟くそれさえも、霖の耳にはまったく聞こえていなかった。

 何かに突き落とされたみたいだった。背中を。あるいは眉間の辺りを。どくどくと熱にうなされて、鉄やもっと硬い何かがじ込んで来るような、いや……もっと別の、どんな鋭利なものよりも簡単に、額の真ん中の核を引き抜かれているような鈍く確かな衝動。綺麗なんてものじゃない。美しいという言葉さえも似合わない。ひどく冷たくて温かい、奇跡のような音の飛沫しぶき


 蛙だと思った。

 私は、田んぼの海さえ知らない蛙だ。生い茂る草も自分の置かれた境遇さえも飛び越えることのできない、見事に馬鹿げた蛙の涙だ。


「すごい……」


 やっとの思いで開かれたその口元からは、感動というよりも見窄みすぼらしい声音の語気がこぼれていた。反対側の一直線上で、彼女は低く鋭く、そして優雅にその体躯をはためかせている。水の流れに身を任せるように、溺れることなく滑っている。飛ぶよりも速く、跳ねるよりも確かに、きらきらと輝くカーブを泳いでいる。本当は絶望していたのかもしれない。違う、今この瞬間から、絶望の淵に再び飲み込まれたのだ。彼女と自分とでは、住む世界がまるで違うのだと……。


「──鈴ちゃん鈴ちゃん、こりゃあ魂消た、すごいタイムだぞ!」

「そうなんですか?」

「お、聞くか? 今日こそ自分のタイム!」

「いえ、別に」

「え〜、言わせておくれよぉ。仁次に叫ばせておくれよぉ」

「ふふ、だったら好きに叫べば良いじゃないですか」

「だって昔教えたとき『あーそうですか』って他人事みたいにどうでも良さそうな顔してたんだもぉ〜ん。おらは一緒になって喜びたいぜぇ〜。いつも鈴ちゃん、そうやってポーカーフェイス決め込むんだもんなぁ〜」

「だって、私は思い切り滑れればそれだけで充分なんですもん。必要ですか? タイムって」


 鈴憧はそう言うと、棒立ちしたまま遠く一点を見つめている霖に気付き、正面で両手を左右に交差させた。動かない。まるで死んだふりでもしている小動物みたいだ。


「霖? ……お〜い霖〜。体冷えちゃって凍ってるの?」


 鈴憧は顔を近付けて尋ねた。開きっぱなしの睫毛が、微かにピクリと弾かれる。


「へ──? うん、な、何?」

「『何?』っじゃないよ。瞬きぐらいしたらどうなの」

「え? 瞬き? ──あ、う、うん、ごめんっ」

「ん?」


 そうして首を傾げた。なんだか目が泳いでいる。焦ったようにうわずる声も不審だ。


「漏らしたの?」

「はぇっ!」


 霖は唐突に放たれた不謹慎な発言にびくりとした。彼女の口からそんな言葉が出てくるとは夢にも思わなかった。真面目な顔で覗き込んでいる彼女に「漏らすわけないじゃん!」と頬を赤らめた。


「そ? 漏れたならトイレあっちに──」

「だから違うってば!」


 上体を横にして霖のお尻部分を覗き込む彼女。異常なし、というように頷き、体勢を元に戻す。霖は「しかもそっちのことっ!」と完全にきょを突かれながら隠す手を遅らせていた。指先に当たるグレーのパンツは平常通りの触り心地だ。大丈夫。何も問題はない。


「じゃあ何。一点集中してたみたいだけど」

「べ、別になんでも」

「ふうん。めっちゃ怪しい」

「怪しくない! なんで一点集中してたらお漏らししたことになっちゃうんだよ」

「それはだってほら、うちの犬もそうだったから。ぷるぷるし出すでしょ、一点集中のあとさ」

「いや、それは知らないけど……」


 まるでその犬を誰もが知っているかのように、彼女は当然といった具合にきょとんとした表情を忍ばせる。彼女の性格がいまいち掴めない。あの吸い込まれるような感覚はなんだったのか……。今の彼女からは、まったくと言って良いほど感じられなかった。

 ただそこには、可愛らしさが剥き出しとなった女の子の微笑みが、白く冷たい春の上に佇んでいるだけだった。


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